今夜も琥珀亭で

深水千世

第1話 赤い月とマンハッタン

 あれは大学に入学した年の夏だった。北海道にしては珍しい真夏日で、夕方になっても肌にまとわりつく熱気が漂っていた。俺は家路の途中だった。


 辺りにはすっかり夜の気配に包まれていた。どこかの家から夕餉の匂いが流れてきて、思わず鼻をひくつかせる。数匹の犬がまるで呼び合うように吠えている。時々、遠くから花火の音も響いてきた。誰かがロケット花火を飛ばしているらしい。


 いかにも夏といった風情で、どこか懐かしい匂いのする夜に少し感傷的になっていた。北海道の夏は短い。だけど、だからこそ愛おしいものだ。


 気持ちいい夜だな。


 冷凍庫に常備してある氷菓を風呂上がりに食べようと心に決めて、うきうきする。


 ところが、ふと顔を上げたとき、その浮かれた気分が台無しにされてしまった。空に真っ赤な月が浮かんでいるのに気づいたんだ。赤い月を見たのは、この時が生まれて初めてだったように思う。しかも、それがぎょっとするほど鮮やかな色で、どす黒い空に映える様は血を連想させて空恐ろしい。


 気味が悪い。さっきまで気分が良かったのに、台無しだ。

 心の中で呟きながら、つい眉をひそめた。普段は縁起ものの類は一切気にしないくせに、いつもと違う色に染まる月がなんだか不吉なものに見えて仕方なかった。それほど印象的な赤をしていたし、やたら月が大きく見えた。


 ちらちらと赤い月を見ながら嫌な気分のまま歩いていると、道の前方に自動販売機が見えてきた。この暑さで喉が乾ききっていた俺は、即座に財布を取り出した。


 自動販売機のきついほど眩しい光を浴びながら、ウーロン茶にしようか麦茶にしようか迷っているときだった。


 自動販売機の隣にあるビルの一階に、パッとライトが灯った。

 琥珀色をした温かみのある光だ。それが照らし出すのは、重厚な木目の扉。何かの店舗みたいだが、看板になんと書かれているかは俺の位置から見ることができなかった。


 扉が開き、呼び鈴がレトロな音をたてた。初めて耳にするはずなのに、どこかで聞いたことのあるような、そんな気にさせる音色だ。


 出てきたのは、一人の女性だった。横顔だけでも美人だとわかる。色白で凛としていた。白いシャツに黒いサロンを巻いているところを見ると、この店はカフェか何かだろうか。彼女はA3版くらいの黒板を抱えていた。


 女性は横顔だけでなく、立ち姿そのものが綺麗だった。すっと伸びる白百合のようで、思わず目が吸い寄せられる。


 興味本位でそのまま見ていると、彼女は扉の脇に置かれたイーゼルに黒板を立てかけた。


「ん......っと」


 俺に気づかない彼女は、天に向かって両手を上げ、思いっきり伸びをした。まるで猫みたいに幸せで無防備な顔だ。


 だが、赤い月が目に入ったらしく、空に視線をとどめたまま動きを止めた。


「わぁ」と、かすかな声が漏れた。


 今日の月は気味が悪いですよね。心の中でこっそり話しかける。ところが、彼女は俺の予想に反して、うっとりとした顔でため息混じりの声を漏らした。


「......綺麗」


 その声は小さかったが、とても澄んだ響きを持っていて、俺の心にすっと染み入った。


 俺は驚いて、思わず眉を上げてしまった。さっき、俺が『気味が悪い』と思った月を、まさか『綺麗』だと言う人がいるなんて。


 面白いもんだ。同じ物を見ても、誰もがみんな同じように感じるとは限らないんだな。

 当たり前のことだが、妙に感心した気分になり、ウーロン茶のボタンを押した。


 ガコンと大きな音をたててウーロン茶が転げ落ちる。ペットボトルに手を伸ばしながら、また店のほうを見ると、彼女と視線がかち合った。

 彼女の整った顔がみるみるうちに真っ赤になっていく。伸びをする姿を見られているとは思わなかったのだろう。まったく俺に気づいていなかったらしい。


「や、やだ......」


 彼女は消え入りそうな声で呟きながら、店の中に駆け込んでしまった。ずいぶん驚かせてしまったようだ。


「なんだか、悪いことしたな」


 頭を掻きながら、つい独り言を漏らす。お茶を買おうとしてただけなのに、なんだか覗き見でもした気分だ。


 弁解したい気分なのは、彼女が誰かいたら見せなかったであろう顔を見てしまったからかもしれない。


 あの赤い月を『綺麗』だと言った横顔の綻んだ口許、そしてうっとりした目が心に焼きついていた。


 あなたのほうが綺麗ですよ。ガラじゃないけど、そう思った。ちょっと気まずいような、得したような気持ちでウーロン茶を取り出す。


 彼女が置いた黒板を見ると、こう書いてあった。


『Bar 琥珀亭 今夜のおすすめ マンハッタン』


 あぁ、バーだったんだ。店の名前は『こはくてい』と読むんだろうな。そう頷いて、ペットボトルのキャップを開けながら歩き出す。


 当時の俺は未成年だったせいもあって、バーには興味がなかった。もちろん、マンハッタンも知らなかったし、それがなんなのか全く気にならなかった。そのバーの名前もすぐに忘れてしまったくらいだ。


 なのに、何故だろう。赤い月を見るたび、彼女を思い出した。そのうち、赤くなくても満月を見るだけで思い出すようになった。横顔の綺麗な人を見るたび、彼女じゃないかと思った。


 赤い月のひと。


 そう勝手に呼んで、ふとしたときに思い出していた。普段はスッパリ忘れてるのにさ。不思議なもんだよね。


 やがて二十歳になったとき、俺は自分があまり飲めない体質だと知った。ビール一杯で顔が赤くなるし、頑張っても三杯が限界だった。それを過ぎると、途端に血の気が引いて、吐いてしまう。

 そのせいで居酒屋の飲み放題も楽しめないし、なにかのイベントでもない限り、自分から店に行って酒を飲もうとも思わなかった。スーパーやコンビニに行っても、アルコールの並ぶ棚の前に立つことはなかった。


 それでも一度だけ、友人に連れられて、バーに行ったことがあった。

 そこはあの彼女がいた店ではなかったけど、良い店だったと思う。薄暗い照明と煌めくグラス、そして流れるジャズに、大人の世界を垣間見た気分になった。


 オーダーをきかれた俺は、ふと赤い月のひとを思い出して、友人にこう尋ねた。


「マンハッタンってどんな酒?」


 そんな俺に、友人は「飲めばわかるよ」とオーダーしてくれた。


 『マンハッタン』は、ウイスキー・ベースのカクテルだった。赤いマラスキーノチェリーを沈めた夕陽のようなカクテルだ。手をつけるのも躊躇うほど、綺麗なカクテルだと思った。


 こぼれないように手を伸ばし、恐る恐る口にしてみると、下戸の俺にはアルコール度数が強すぎた。甘いチェリーをかじりながら飲んでも、ちょっと辛い。飲み干したときには顔がすっかり火照っているのに気づいた。

 だけど、美味い。酔っ払った頭で、そう思った。


 カクテルピンに刺さったマラスキーノチェリーを見たとき、あの赤い月のひとが何故笑ったか解った気がして、嬉しくなった。


 彼女は、赤い月にマンハッタンを重ねたんだ。


 チェリーの最後の欠片を口に放り込む。アルコールの匂いが鼻腔に蔓延しているのを感じながら、口元に笑みを浮かべた。


 まいったな。これからは赤い月だけでなく、マンハッタンと聞いても彼女を思い出すかもしれない。それがたとえニューヨークの『マンハッタン』でもね。


 もし、赤い月のひとにまた会ってみたいかと訊かれれば、俺は迷わず「はい」と答えていただろう。俺と同じものを見ていたのに、まったく違うことを言った彼女には、この世界はどう見えているのだろう。そんな興味もあったし、なにより美人だったから。


 彼女がいたバーは、通っていた大学のそばにあったし、行こうと思えばいつでも行けると思っていた。けれど、人間ってやつはそう思っている店に限って、案外行かないものだ。


 大学生活も残り少なくなった頃、やり残したことはないかと考えた俺は、また『赤い月のひと』を思い出した。それで、とうとう、卒業する前に一度でもあのバーへ行ってみようという気になった。


 だけど、そう思い立ったときには遅かった。

 定休日も知らないから、絶対店が開いていそうな金曜日の夜に行ったというのに、あの扉の前には無情にもシャッターが降りていた。

 おまけに、その真ん中に達筆な筆文字で『都合により閉店することになりました』という内容の張り紙がしてあったのだ。


「なぁんだ」


 思わず呟きながらも、気落ちすることはなかった。 

 変な話だけど、それを見た瞬間にがっかりしたと同時に、心のどこかでほっとしてもいた。


 もちろん、あの赤い月のひとに会えなかった心残りはあったけれど、その反面、彼女に会うのがなんとなく怖かったんだ。


 もし彼女と会ってしまえば、何かが動き出す気がする。ずっと、そう感じていた。それが何かはわからないけれど、俺の人生を変えてしまうような気さえしていた。だって、赤い月の晩に姿を見かけただけなのに、こんなに心の片隅にずっと居続けるんだから。


 それに、新しい場所に飛び込むのは勇気がいる。たとえその店がどんなに素晴らしい居場所になったとしても、最初の一歩を踏み出すには、俺は臆病すぎた。何かに背中を押されたなら話は別だが。


 俺の予感は正しかった。


 俺はそれを二十四の夏に知ることになる。


 俺の名前は尊。

 漢字を説明するときは「『尊敬』の『尊』と書いてタケルと読む」と言うようにしているけれど、完全に名前負けしている。現実は人から尊敬されることもなく、尊敬する人もいない。我ながら平々凡々な男だ。


 将来の夢も希望もなく、『今が良ければそれでいい』といった毎日をなんとなく過ごしていた。未来の自分の姿を思い描くことすらできず、ただ漠然とした先の見えない人生だった。


 大学にだって、成績はそこそこだったから、ただなんとなく進んだんだ。やりたいことがあったわけじゃない。自分の進路も決まってないんだから、専門学校なんて選べないし、就職したい業種もわからない。だから、とりあえず四年制の大学に進学してみた、という体たらくだった。


 あの頃は予想だにしていなかったんだ。

 ろくにお酒も飲めない俺がまさかバーテンダーになるなんて。


 あの赤い月のひとと今夜も琥珀亭で肩を並べているなんてね。

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