16:彼は弟を愛しすぎている
「さて。真面目な話をしようか」
総司は足を組み替え、目の前に立つ菜乃花を見据えた。
「あんな痴態を晒しておいていまさら格好つけても……」
「うるせえ黙ってろ」
小さな呟きを地獄耳で聞きつけた総司は要を睨み、再び菜乃花に焦点を合わせた。
「千影がおれに頼みごとをするなんて何年ぶりか。しかもお兄ちゃんなんて、普段なら絶対に使わない呼び方をしてまで、だ。なりふり構わず、おれに懇願してでも留めたいと思わせるほどの魅力が園田さんにはあるってことだ」
総司は菜乃花の頭のてっぺんから足のつま先までをざっと眺め、ひとつ頷いた。
「容姿じゃなく、性格に惹かれたんだな」
(遠回しにブスって言われた!?)
「この前だって千影のために単身おれの部屋に乗り込んできたしな。その友情と度胸は認めてやるよ。天坂の優秀な教師陣が揃ってさじを投げたポンコツに20点取らせたことも褒めてやろう」
「……ありがとうございます」
上から目線過ぎていまいち褒められている気にはならないが、菜乃花は一応愛想としてそう言った。
「あの、話っていうのは……?」
まさかこれが言いたかったわけじゃないよね、という思いを込めて質問すると、総司は沈黙した。
雨の音だけが流れる。
部屋に入ったときより雨の勢いは収まり、耳を澄まさないと聞こえないほどだった。
「単刀直入に聞く。千影が中等部の頃、女子と付き合ってたことがあるのは知ってるか」
「……琴原さんのことでしたら、知ってます」
あまり話題にしたくない名前だ。
それは総司も一緒らしく、彼は苦い薬でも飲んだように顔をしかめた。
「なら話は早い。あの女は容姿はそこそこだったが、中身はクソだった。普通、付き合ってる男の兄を好きになるか? 仮に一億歩譲って好きになったのは仕方ないとしてもだ。千影をフッて三日と経たずにおれに告白してきたのはどういう了見だ?」
総司は眉間に縦皺を刻み、射殺せんばかりの目で虚空を睨んだ。
椅子の肘掛けに乗せた彼の左手は硬く握り締められ、血管が浮き出ている。
「さあ……私には理解しかねますし、理解したくもありません」
(もし先輩が告白を受け入れて、付き合えたとしても。そうなったときの千影くんの気持ちを考えたことはないの?)
好きな人が自分をフッて、兄と付き合い始めたとしたら――考えるだけで地獄である。
「琴原に告白されたとき、おれは引き攣る頬を無理やり持ち上げて断ったけど。許されるなら顔面が変形するまで膝蹴りしたぞ……あの女をボールに見立ててサッカーしたぞマジで……」
「気持ちはわかりますけど抑えて先輩! いろいろとアウトです!」
二歩近づき、総司の左腕を掴んで手を開かせる。
爪が手のひらの皮膚を傷つけ、血が滲んでいた。
「血が出てるじゃないですか。落ち着いてください。自分のせいで先輩が自傷したなんて知ったら、千影くんだって悲しみますよ?」
総司の腕から手を放し、菜乃花は一歩引いた。
会話にはこれくらいが適切な距離だ。
「千影くん、か。その呼び方、千影からそうしろって言いだしたのか?」
「はい。そうです」
「……本当に千影は園田さんのことが好きなんだな」
視線を落とし、ぼやくように総司が言った。
「あくまで友達としてですよ? 本人もそう言っていたでしょう? やましい関係ではありませんから安心してください」
妙な誤解をされて寮から追い出されては困るため、菜乃花は両手を振った。
「……どうかな」
総司は菜乃花が開いた左手を閉じ、顔を上げた。
「琴原のせいで恋愛なんてこりごりだ、二次元の彼女でいいって思ってるらしいけど、いつまでも二次元の彼女で満足できる保証はないだろ? いずれ現実に好きな女ができるかもしれない。そしてそれはきっと、千影の身近にいる女だ」
総司は敵意も好意もなく、観察するような目で菜乃花を見つめている。
「え? それはどういう……」
意外なほど真剣な瞳で見つめられて、菜乃花は困惑した。
「言っとくけど」
「は、はい」
しゃきっと背筋を伸ばす。
「おれは園田さん、全然タイプじゃないから」
「は?」
菜乃花の目は点になった。
「天地がひっくり返っても、園田さんと付き合うとかありえない。罰ゲームでも無理」
「……!! 私だってお断りです!! お忘れかもしれませんけど、私にだって選択する権利はあるんですから!!」
腹が立って叫ぶ。
「その意気その意気」
何故か総司は満足そうに二回頷いて、親指で部屋の扉を指した。
「言いたいことは言ったし、帰っていいよ。あのポンコツの家庭教師、頑張ってね」
「ポンコツって、千影くんのこと大好きなくせに、さっきからよくそんな酷い言い方できますね……」
半眼になって言う。
「愛だよ愛。千影の魅力はおれだけが知ってればいいんだ」
全く気にした様子もなく、総司はひらひらと右手を振った。
その態度が癇に障り、菜乃花は総司の右手首を掴んで強制的に動きを止めさせた。
驚いたように総司が目を丸くする。
「私だって先輩に負けないくらい、千影くんの魅力を知ってます。間違っても本人の前でポンコツなんて言わないでください。聞いてて傷つく言葉は冗談じゃ済まないんですよ。千影くんがどれだけ先輩にコンプレックスを抱いてるか知らないでしょう。たとえお兄さんだろうと、千影くんを傷つける人は許しません」
「………………」
総司は手を掴まれたまま、無言で菜乃花を見つめている。
はっと我に返り、菜乃花は青くなって総司の手首から手を放した。
(しまった。怒鳴っちゃったよ! 偉そうなことを言える立場でもないくせに! 誰に高額な寮費を払ってもらっていると思ってるのよ! 私のバカバカ!!)
彼の機嫌を損ねたかもしれないと思うと、冷汗が頬を流れた。
でも、言葉を撤回する気にはなれない。
たとえ兄だろうと、冗談であろうと、千影を馬鹿にしてほしくはないのだ。
(――逃げよう!)
「失礼します」
雷を落とされる前に、菜乃花はそそくさと退散した。
菜乃花がいなくなった後。
雨音に交じって、総司の部屋には忍び笑いの声が流れた。
「……何笑ってんだ」
総司は不貞腐れたような顔で壁際に立つ従者を睨んだ。
「いえ。園田様は本当に愉快な方だなと。総司様に鳩が豆鉄砲を食ったような顔をさせるなんて、近年まれに見る逸材ですよ。誰もが天坂の名の前では平伏するのに、平伏どころか真正面からお説教とは、さすがです。園田様なら千影様の女性不信を克服してくださるかもしれませんね」
要は総司に歩み寄り、背後で手を組んだ。
「どーだか。琴原みたいにおれに惚れたとか言い出したら叩き出す」
「それはないですよ、園田様が千影様にぞっこんなのは見てればわかるでしょう。わざわざ呼び止めて釘をさす必要なんてありませんよ。園田様はきっと千影様に良い変化をもたらしてくださる、総司様だってそう思っているんでしょう? 園田様といると千影様が楽しそうだと喜んでたのはどこの誰ですか。たとえ千影様が言い出してこなかったとしても、引き続き園田様を0号館に住まわせて差し上げるつもりだったくせに。わざと試すような真似をして、本当に捻くれてるんですから総司様は」
「悪かったな。可愛い弟を普通に愛することも許されない家で育って捻くれずにいられるか」
総司は椅子の肘掛けに頬杖をついてそっぽ向いた。
「……もう家は出たんですし、本人も無視しないでくれって言ってたんですから、いまからでも普通に愛せばいいじゃないですか」
やや呆れ顔で、要が主人を見下ろす。
「無理。おれの愛は重すぎてドン引きされる」
きっぱりと総司は言った。
「ああ、愛が常軌を逸している自覚はあるんですね。安心しました」
「わざと嫌われるように仕向けてきたいままでならともかく、素を曝け出して嫌われたら生きていけない……それに、兄の威厳も何もなくなる……ただでさえちーちゃんが可愛すぎて取り繕うのに必死なのに……」
総司は両手で顔を覆った。
「威厳も何も、割ともう、いえかなり、ぶっちゃけ手遅れだと思うんですが……まあ、千影様がブラコンの片鱗を見せても気付かないほど鈍いお方で良かったですね」
要はしみじみとした様子で頷いた。
「……不意打ちで『おにーちゃん』とか反則だろ……なんなの天使と思ったら小悪魔か……何の保証人にでもなるわ畜生……」
「だからそれを素直に言えばいいのに……」
隣で要は完全に呆れ顔になっていたが、身悶える総司が気づくことはなかった。
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