リーダーシップ ――ウィルスとの戦いを決意した私――
キメラは全ヨーロッパに蔓延し、既に十五万人の死者が出ていた。さらにキメラの被害は南北アメリカ、アフリカ、オーストラリアの各大陸に広がり、欧州以外でも十二万人の死者が出ている。
キメラの魔の手はついに中国におよび、相当数の被害が漏れ伝わってきた。韓国や日本に来るのも時間の問題だった。
皮肉なことに発生地であるウクライナには驚くほど死者が少なく、ついでロシアの被害も他国に比べれば少なかった。
この状況に対し米国では、ロシアが仕掛けた生物兵器ではないかという憶測が流れたが、ロシアの首相ペーチンがキメラに感染して死亡した事実により、その憶測も消滅した。
キメラは感染して十二時間以内に発症し、発症後六時間で死亡するという服毒に近い症状のため、人によって他地域に感染することはほとんどなかった。移動する前に死亡してしまうからだ。
だが、死体や感染した動物の肉には、ウィルスが三日以上生息するため、そこから爆発的な感染に発展した。
最初にウィルスが伝播したロンドンは、ウクライナで死んだ英国人の遺体を、母国で埋葬するために持ち帰ったことにより引き起こされた。
日本政府の対応は異様に早かった。ロンドンでのキメラの流行に即反応し、肉を始めとした海外食材の輸入を全面ストップした。もちろん輸入業者は大打撃を受け、国内の食糧事情も逼迫したが、事前に情報収集と対策を検討する時間が十分にあったことから、国民への説明もスムーズにいった。
もちろん富士沢市の報告を得ていたことが大きいが、笹山の政治家としての手腕の見事さでもあった。
ただ、私にはこれはギャンブルに近い選択だと思った。ロンドンがキメラに侵される前に、既に日本にキメラは齎されていたのだ。
私がたまたま居合わせた偶然によって、爆発的な感染となることが防げただけで、その後の二週間の期間中に英国と日本の立場が逆になる可能性もあったわけだ。
「ついてますね。笹山代議士は今や日本を救った英雄として人気が高まってますよ。首相再任もあるんじゃないですか」
岩根さんはリハビリを終え病室に戻る廊下で、代議士の人気ぶりを呑気に話す私に苦笑させられていた。
「このまま日本だけ無事では済まないよ。鎖国をしているならともかくとして、どんなに警戒してもいずれはウィルスは持ち込まれる。なぜなら平和な状態では人間は必ず緩みを見せる。それは笹山先生も分かっているはずだ」
「じゃあ、今頃はウィルス対策も十分にやってますね。いい結果がでればいいですが」
岩根さんは窓から見える夕陽を受けた美しい富士山に目をやりながら言った。
「いい結果が出ればな。そうでない時は……」
岩根さんはその後の言葉を飲み込んだ。
病室に戻ると亜希子さんが来ていた。
その顔を見るなり岩根さんは質問した。
「笹山先生の動向はどうだった?」
「あなたの予想通りね。来る日も来る日も製薬会社訪問みたい」
「やはりキメラへの対抗薬探しか?」
「そうね。既存薬はどうやら難しいみたい」
二人とも深刻そうな顔をしている。
「何が問題なんですか?」
私が訊くとリハビリで疲れた岩根さんに代わって、亜希子さんが説明してくれた。
「日本には薬事法と言う法律があって、新薬は承認が下りるまで治療に使うことができないの。だから今承認されている薬しかキメラが上陸しても使うことができないわけ。笹山はなんとか有効な薬を見つけようとしているけど、ほとんどの薬が効果ないみたいなの」
「じゃあ、キメラがもし日本で流行したら、感染者は助からないということですね」
「そういうことになるわね」
「そんな法と命とどちらが大事なんですか?」
「あら、あの男は権力のために岩根を殺そうとした男よ。自分が不利な立場に立たない方法を貫くわ。それに、薬には副作用があるからそれを見極めないと、むやみに治療に使うのは危険でしょう」
「場合によると思いますが」
「そこを曲げたら法律ではなくなるわ。法治国家である以上法は絶対なの」
どうもピントがずれていると思ったら、統治体制の違いなのだ。
AIが治める世界は、法は絶対ではない。普段暮らしていく上でのルールに過ぎず、場合によってはAIの判断で法を超越した判断が下される。
「じゃあ、自分たちでそれぞれが対策を立てるしかないですね」
私の提案に二人は笑い出した。
「逞しいなぁ、柊さんは。そんな風に言われると、不可能はないって気がしてくるわ」
逞しいのは亜希子さんの方だ。自分の亭主を殺すように命じた相手に、会いに行って薬の話をしてくるなど、普通の人間の神経じゃない。
「じゃあ、私は帰りますね。岩根さんリハビリ頑張ってください」
私は病室を後にして、市内行きのバスに乗る。もう外は日が暮れて真っ暗になっている。すっかり秋の風情だ。
「岩根さんは順調だった?」
「ああ、リハビリも頑張っていて、少しだけなら車椅子から立ち上がることができるようになったよ」
毬恵さんはエプロン姿で、私のためにグラタンを温めなおしてくれていた。
初めて毬恵さんの部屋を訪れた日から、二日に一度はこの部屋に来ている。毬恵さんにはここで一緒に住もうと言われているが、大恩のある慎蔵先生の家を出る決心がつかなかった。
その慎蔵先生と満江さんだが、毬恵さんのことを二人に話したら、二人とも自分のことのように喜んでくれた。
満江さんからは、あまりはっきりしないのは毬恵さんを不安にするから、将来のことは早めに決めてあげなさい、と言われた。
私自身はというと毬恵さんは好きだが、異性と一緒に暮らすことに不安を感じないでもない。何しろ三百年近く一人で暮らしてきたのだ、いろいろと不安はある。
例えばSEXにしてもそうだ。私は二回目の訪問で生まれて初めてSEXをした。初めて触れた生身の女の躰は美しいと思った。だがやり方がよく分からず、終始彼女のリードで最後までいった。
その後二回行為をしたが、いつも彼女のリードは変わらなかった。自分にはこの面の創造性に欠けていることに気づく。彼女が満足したのかどうかまるで自信なかった。
それ以上に、一緒に住んでいて秘密を抱えていることの方がやっかいだった。親しくなってから、毬恵さんは自分のことを良く話す。子供のころの話や学生時代の話、仕事の話、両親の話、友人の話、私に全てを知ってもらって理解して欲しい、という彼女の気持ちが伝わってくる。
それに対して私は話すことがほとんど無い。無いのではなくできないのだ。そういう後ろめたさを持ちながら、一緒に暮らしていけるのか自分でも分からなかった。
心の師である藤山さんに相談したことがある。四十年間一人の女性を愛し続けて成就させた人だ。私に言わせれば真の恋愛マスターである。
私が悩みを打ち明けると、藤山さんは一言だけくれた。
「思うがままに自然に任せて振舞え」
哲学的な回答だ。それ以上は何も出てこなかった。
この問題に回答をくれたのは亜希子さんだった。
あれは岩根さんのお見舞いに行って、検査のため二人で病室に残っていた時のことだ。亜希子さんの方から毬恵さんとの関係を聞かれ、彼女の雰囲気に飲まれてつい悩みを打ち明けてしまった。
すると亜希子さんは笑って、自分と岩根さんの馴れ初めを話し始めた。
「岩根と私は笹倉の秘書として知り合ったわ。当時私は笹倉事務所のエースとして、主に折衝系全般を切り盛りしていた。そこで笹倉が鍛えてくれと言って連れてきたのが、岩根なの。頭は切れるけど野暮ったくて貧乏臭くて絵にかいたようなとっちゃん坊やじゃない。他の秘書は面倒見たがらなかったのが本当のところだけどね」
そう言って亜希子さんは、ハハハと楽しそうに笑った。
「だけど私は岩根の目に強い意志の力があるように感じたの。だから最初から難しい折衝をばんばん任せたわ。彼は持ち前の頭のキレと粘り強い交渉で、どんどん解決していって事務所でも一目置かれるようになった。すぐに私から卒業して、笹倉から直接指示されるようになったの」
「さすがは岩根さんですね。今でもそんな感じはしますが」
「そのころにはさすがに私も、自分が彼のことを好きだと分かったの。でも岩根はあんな感じでしょう」
「あんな感じって?」
「とっちゃん坊や、見た目も実年齢も親父なのに、難しい仕事に成ると目をキラキラさせて夢中で取り組む、おまけに童貞臭がプンプンして、どう考えても女は邪魔だと思うタイプじゃない」
酷い言われようだが、そういう岩根さんも少し想像できて、思わずクスっと笑った。
「それがね、向こうから言ってきたのよ。自分は亜希子さんのような女性に相手にされるとは思っていませんが、初めて女性にこんな気持ちを抱いたので、記念に告白だけはしておきます。亜希子さんが好きですって」
初めての恋でそこまで言えるなんてさすが岩根さんだと思った。自分は藤山さんに怒られて言ったようなものだ。
「もうおかしくて付き合ったんだけど、岩根は何も変わらなかったわね。仕事第一だし、女が喜ぶような場所を探すわけでもないし、思うままに生きてる。でもそれが良かった。この人は私と一緒に居ることが、何の負担にもなってないって思った。それが何とも言えず嬉しかったの。だからあなたも柴田さんのことをあれこれ気にせず、思いのままやればいい。彼女もきっとそれが嬉しいタイプだと私は思うよ」
この会話のおかげでずいぶんと楽になった。毬恵さんが亜希子さんと、同じタイプかどうか私には分からないが、二人の関係は素敵だと思ったので少しでも近づけるようにやってみることにした。
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