正義の行方 ――毬恵の部屋を訪れた私――
「いいんですか?」
男女関係の知識に乏しい私にも男が夜に女の部屋に行く意味は分かる。
「もちろん。今晩あなたと別れたら、私は心配で眠れないわ」
「では、お願いします」
二人でタクシーに乗ると、毬恵さんが小杉町と自宅のある町の名を告げる。
毬恵さんの自宅は病院から車で二十分ほど南に走ったところにあった。市役所から徒歩で十五分ぐらいに位置する、八階建てのきれいなマンションだった。
オートロックのエントランスを抜けて、毬恵さんがエレベーターの七階のボタンを押す。
濃い茶色の扉を開けると、中の間取りは2LDKに仕切られていた。お父さんと二人で済むために少し大きめの部屋を買ったと、毬恵さんは言った。
毬恵さんに勧められてリビングのソファに腰を下ろすと、疲れがどっと出てきた。今日はマイクロチップに任せて格闘をしたから、身体に無理がきたこともあるだろう。だが、何よりも岩根さんの生死に直面したときの緊張感が、身体と精神にダメージを与えたのは間違いない。
毬恵さんがコーヒーを淹れてくれた。
「これ飲んで待っててくれる。着替えてから簡単に夕食作るから。まだ食べてないよね」
言われてみれば夕食を取るために外に出たのだった。気付くと猛烈に空腹が襲ってきた。
「どうもすいません」
私が礼を言うと、毬恵さんは寝室に消えて行った。
私はコーヒーを一口飲んで、スマホを取り出した。慎蔵先生には病院に着いたときに一報入れたが、それきりになっている。今日は戻らないことを知らせなくては。
二回のコールでつながった。出たのは慎蔵先生だった。
「もしもし、柊一です」
――ああ、それで岩根さんはどうだった。助かったのか?
「はい、一命は取りとめました。ただ予断は許さないそうで、今夜はICUに入るそうです。明日もう一度お見舞いに行ってきます」
――そうか助かって良かった。柊さんは大事ないかい。
「私は大丈夫です。それで今日なんですが、毬恵さんの部屋でやっかいになります」
電話口の先で慎蔵先生の言葉が少しだけ止まった。
――そうか分かった。毬恵ちゃんによろしくな。
その言葉を最後に電話が切れた。夕食を作って待っていてくれたであろう満江さんに、謝りたかったのに、その暇も与えてくれなかった。慎蔵先生が慌てた様子が想像でき、少し可笑しかった。
毬恵さんはピラフとサラダをちゃちゃっと作ってくれた。ダイニングテーブルに着くと、少し恥ずかしそうに毬恵さんが言った。
「冷凍食品と野菜をちぎっただけでごめんね。料理はほとんどやってなくて、いつもこんな感じなの」
「とんでもない。ありがとうございます」
毬恵さんが自分のために作ってくれたというだけで、私にとってはご馳走だった。
「でも、満江さんの料理はとっても美味しいんでしょう」
「はい、満江さんの料理は別格です。でも私は毬恵さんが私のために作ってくれた料理もまた別格だと思います」
私がそう言うと、毬恵さんはみるみる真っ赤になった。
「今度、満江さんに料理を習うね」
そう言って、恥ずかしさを振り払うように食べ始めた。実際のところ、この世界に来るまで味覚のなかった私に、そう気を使うことないのにと思ったが、毬恵さんの表情が可愛かったので黙っていた。
「あっそうだ。ビールを飲む」
毬恵さんの問いかけに「いただきます」と答えると、毬恵さんは立ち上がって冷蔵庫を開けた。そこには棚一面に二十本は下らない数のビールが並んでいた。
私に缶ビールを渡しながら、毬恵さんが言った。
「今までこれが私の友達だったの。仕事がら誰にでも言えない話が多いし、素直じゃないから何でも話せる友達も少なくて……でも柊一さんと一緒にいれば、これともお別れできそう」
そう言って笑った彼女の顔はとても素敵だった。
「毬恵さん、今日帰り際に会った、東さんが亜希子さんと呼んだた女性は、岩根さんの奥様ですか?」
「そうよ」
「そうですか。良かったです。岩根さんも奥さんがいてくれれば安心ですね」
私がホッとした顔を見せると、毬恵さんはなぜかクスっと笑った。
「そうね。それに凄い女性だし」
「凄いって?」
「亜希子さんは岩根さんと同じ笹山先生の秘書だったの。それも笹山先生が最初に立候補したときからの。岩根さんに秘書業務を教えたのは亜希子さんだと、岩根さんご自身から聞いたことがあるわ」
「そうなんですね。それで今日は笹山代議士に会いに行ってたのか」
「亜希子さんは笹山先生の従妹なの。だから他の人以上に何かと言いやすいみたいね」
「じゃあ、岩根さんは笹山代議士の親戚なんですね」
「そうなるわね」
親戚で信頼できる秘書だった岩根さんが、自分と対立する陣営に行ってしまって、笹山代議士は悲しかったかもしれない。悲しみが怒りに変わって、今日は亜希子さんに会わなかったのか。
「どうして岩根さんは刺されたんでしょう?」
「うーん、それは今の時点では分からないわね。政治家が暴漢に襲われるってよくあるの。さすがに市政の世界では少ないけど、富士沢は世間の注目を浴びてるし、超大物代議士のお膝下だし、こういうことが起こっても不思議じゃないわね」
「すいません。よく分からないんですが、どうして政治家は狙われやすいんですか?」
「政治家って、政治を行う人であると同時に、様々な人たちの利権の象徴でもあるの。だから利権の取り合いがエスカレートして、そういう事件に発展する場合があるわ。しかもそれは裏の顔だから表には出せない。だから口封じ的な意味もあるわ」
そうか、人間ではなくAIが政治を行う利点は、そういうことが起こらないということもあるのかと気付いた。頭を使うと少し眠くなってきた。
「毬恵さん、ご飯食べたら眠くなってきました。その辺の場所を借りてもいいですか?」
私がソファを指さすと、毬恵さんが慌てて首を振る。
「駄目よ。そんなところに寝たら疲れがとれない。ちょっと待って」
毬恵さんはまた寝室に戻って、少し経ってから戻って来た。
「ごめんなさい。少し片づけたから。私のベッドに寝て」
「駄目ですよ。女性のベッドに寝るなんて」
なぜ駄目かはよく分からないが、こちらに来てから覚えた倫理観でそう言った。
「いいから、そこで寝て。でも私も疲れたから一緒にベッドで寝ていい?」
私は少し考えたが、悪い理由が見当たらない。何よりももう眠くてたまらない。
「分かりました。じゃあお言葉に甘えさせてもらいます」
「良かった。じゃあこれに着替えて。父ので申し訳ないけど、他にないから」
「重ね重ね申し訳ありません」
私は思考力が弱っていたので、その場で服を受け取って着替え始めた。毬恵さんは分かっているのか特に咎めない。
「ぴったりね。じゃあこっちに来て」
私は毬恵さんに誘導されて、寝室に入った。そこには大きめのベッドとドレッサーが置いてあるだけだった。女性の部屋にしてはシンプルな感じだが、何かを言うほど元気がなかった。
「じゃあ、遠慮なく眠らせてもらいます」
私はそう告げてベッドに潜り込んだ。
「私はシャワー浴びてから寝るから先に休んでて」
毬恵さんはそう告げて部屋を出て行った。
微かに布団に残る毬恵さんの体臭に包まれて、私はすぐに意識を失った。
目が覚めると、ベッドに一人で寝ていた。ただ毬恵さんの甘い匂いがいっぱい残っていて、ここで一緒に寝ていたことを証明していた。
ベッドの側の時計を見るともう八時になっている。昨日はよく覚えてないが、十二時ぐらいに寝たはずだから、八時間もノンストップで寝続けたことになる。
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