正義の行方 ――政治的思惑で国民に迫る脅威、義憤に駆られる岩根の過去に感動する私――
中江さんの死から二週間が過ぎた。長いようで短い二週間だった。結局、青田さんの感染経路は我々の推測通りで、ウクライナから持ち込まれた鹿肉が原因だったようだ。心配していた感染の拡大は起こらず、人々はそんな脅威が訪れていたことにまったく気づかず、いつも通りの日常を過ごしていた。
会議のあった翌日、橋本さんは保健所に二人の感染について報告した。
保健所の職員は慶新大の準教授が自ら来たことにまず驚き、そのあまりにも現実離れした報告内容に言葉を失った。しかも死者が二人も出ている。
保健所職員をパニックに陥れたのは、発症後わずか一日で死に至ったことだった。混乱した職員は思わず、「これでは毒を飲んだのと同じじゃないか」と、叫んだという。
すぐに保健所長まで上げられた報告書は、そのまま厚労省に飛んだ。二日後、電子顕微鏡で撮ったウィルスの写真と、PCR法によって検出されたウィルスの遺伝子の報告書、更にはウクライナから持ち込まれた食肉のパック材への同ウィルスの付着が報告され、これら全ての報告書が厚生労働省に直送された。
どの角度から分析しても、この感染が橋本さんの持つ情報を裏付けるものであった。
私たちはいつ厚労省から国民に公表されるか、Xデイを待つのみだった。
しかしこの報告が公表されることはなかった。
岩根さんが言うには、政府が発表しない理由は二つあった。
ひとつは感染がこの二人だけに終わり、当面国民全体が危機にさらされる心配はなく、いたずらに不安を煽ることによって、政権が不安定に成ることが嫌われた。
もう一つはロシアとの外交問題だった。チェルノブイリはウクライナ領だが、原発はソビエト連邦のときに建設されている。この問題が国際的にクローズアップされれば、ロシアはウクライナに対する補償や、このウィルスに対する各国の対応を補填しなければならなくなる。
できることならロシア、ウクライナ、日本の三国のみでこの問題を封印し、なかったことにしたいと考えるはずだ。日本政府は国民の生命よりも、この外交的なジョーカーを手札に持つことを選んだ。
富士沢市の会議メンバーの誰もが、この選択には納得がいかなかった。例え三国で入出国を厳重に注意しても、他の国のトラベラーが感染して日本に入国することは考えられる。どんなに検察を厳しくしても、真実が隠された中での対応には水が漏れるものである。
特に激しい怒りを露わにしたのが、全てを知る岩根さんだった。現政府を裏で牛耳るフィクサーの一人が笹山代議士だ。彼は首相に成る前は厚生族のドンだった。
岩根さんは何度も笹山代議士に直接抗議したが、進展はまったく見られなかった。
「柊さん、自分で言うのも何だが、権力に溺れてしまうと、政治家なんて本当に醜い存在だな。私はできるもんなら刺し違えてでも笹山を止めたい気分だよ」
岩根さんは私に現状の政治の不透明さをぼやいている。
今日はウィルス騒動でばたばたする中で、FCHへの運営許可の際に、総務省からいくつかついた制約について、岩根さんからレクチャーを受ける日だった。
「そんな刺し違えるなんてもったいないですよ。これでFCHとFJSが稼働したら、富士沢にもっともっと人が集まって来る。だが、集まって来ただけじゃ市民とは言えない。ましてやメインの就業形態が在宅だから、余計に市民意識は希薄になる。だからこそつながりを作る施策が必要なんです。一緒にやりましょう。岩根さんが言っていたつながりの場づくりを!」
私は話してて興奮して来た。そうなったら素晴らしい町ができるはずだ。新生富士沢市を想像して興奮して来た。そんな私を岩根さんはじっと見ていた。
「柊さん、私はね、とても貧しい家に生まれたんだ」
まるで世間話をするように岩根さんの話は始まった。
「親父は大工で割と腕が良かったから、仕事はそこそこに来ていた。だけど酷い女好きでね、いつも飲み屋の女に貢いでいるから、家はいつも借金だらけだったんだ」
岩根さんを見ていると、とてもそんな家庭に育ったようには見えない。どこまでも物腰が柔らかく、紳士的な態度を崩さないからだ。
岩根さんの話はさらに続く。
「お袋がこれもまたダメな女で、こんなダメな親父に心底惚れてて、俺たちの前では親父を褒めてばかりで、こんな腕が確かでしっかりした仕事をする職人は、日本中探したっていないとか言うんだ」
そう言ってる母親のことを思い出したのか、岩根さんは苦笑いを浮かべた。
「義務教育が終わって進学が視野に入ってくると、さすがに金がないから、進学は諦めて大工になろうと思った。ところがお袋が頑として聞かないんだ。まあそれなりに勉強はできた方なんで、かわいそうだと思ったみたいだ」
何と言っていいか分からなかった。岩根さんの考えも分かるし、お母さんの気持ちも分かる。
「親父は女遊びが益々酷くなって、明日の米代にも困るようになっていた。こんな状態で学校に行けないだろうって、お袋に言ったら親父に黙って貯めたへそくりを出してきた。でも考えてみてくれ。学費が出たって制服代や教科書代や、学校に行くってことはいろんなことに金がかかる。やっぱり無理だとお袋に言った」
「お母さんは納得されたんですか?」
そこで岩根さんは大切な思い出を思い出したような表情をした。
「それがさ、柊さん、次の日学校から帰ってみると、近所のおじさんやおばさんが家に来て、制服はうちのお古を使えとか、教科書もそんなに毎年変わらないだろうから、うちのをやるよとか、文房具が結構余ってるから使えとか、そりゃあもういろんな人が援助を申し出てくれたんだ。なんかそういうのに押されて高校に進学してしまった」
このくだりを話すとき、岩根さんは本当に嬉しそうな顔になった。
「だから猛勉強したよ。みんなの好意で行ってる学校だ、頑張らないと申し訳ないと思ってね。別に大学に行きたいとかそんな思いは一切なかったけどね。だけど本当に不思議なもので、成績はぐんぐん伸びて学年でも一番、全国模試でもトップテンに入ったんだ」
自慢が苦手な岩根さんは少し照れくさそうにしていた。
私はここで結果が出るところが、凄いと思って感心した。
「そうなると学校が大学に行けと煩いんだ。この大学なら授業料が免除に成るとか、寮費も免除だとか、いろいろ勧めてくる。終いには藤山先生迄やって来て、いけしゃあしゃあと世間の好意には甘えるもんだと言うんだ。それで結局東大を受験して、学費免除で合格した。それからは学費免除が取り消されないようにまた猛勉強をして、結局卒業したら厚生労働省の役人になってたよ」
「そこで笹山代議士と知り合ったんですか」
「そう、そこからは柊さんも良く知ってる経歴だ。振り返ってみると人のつながりに活かされてたとつくづく思う。だからつながりのある社会をどうしても実現したかったんだ」
「そうですよ。絶対実現しましょう。そのためには笹山代議士と刺し違えてなんて言ってはダメです。あの件はあの件で絶対に動き出します。その時のためにもつながりのある社会を作りましょう」
岩根さんはとうとう大声で笑い出した。
「やっぱり柊さんはいいなぁ。確かに刺し違えるなんてそれ自体が笹山流だし、つながりなんてみじんもないやり方だ。よし柊さん、私もひと頑張りするから、つながりのある社会づくりを手伝ってくれ」
「もちろんです」
ウィルス事件以来、ずっと強張っていた岩根さんの顔に、会心の笑顔が戻った気がした。
気が付くともう窓の外は薄暗くなっていた。私たちは仕事を切り上げて夕食をとることにした。岩根さんは車で来ているので、その車で行こうと二人で駐車場に向かった。
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