前兆 ――中江の自宅を訪れた私がみたものは――
表札がなくルームNOだけが表示された部屋のドアをノックした。中からは何の応答もない。
中江さんのバッグに入っていた鍵を鍵穴に差し込んでゆっくりと回す。カチッとロックが外れる音がする。ドアノブをゆっくり回して中を窺う。
部屋の中はシーンとしていて、人の気配はなかった。慎二先生に手で合図して中に侵入する。二人とも防護服を着ているので、申し訳ないが土足で上がり込む。
キッチンを抜けてリビングに入ると、予想通り女性が血を履いて倒れていた。慎二先生がペンライトを抜いて瞳孔を確認する。丁寧に見た後で、私の方を向いて首を横に振る。
私はドアの外に待機している二人を呼んで、遺体に防護服を着せ病院に運ぶように指示した。部屋には女性のものと思われるキャリーバッグが置いてあった。鍵はかかってなかったので、中身を確認する。
パスポートが出て来たので、氏名を確認すると『HARUMI AOTA』とあった。年齢は三六才。写真を見る限りはなかなかの美人だ。先ほど見た死に顔は苦しさが想像される壮絶な表情だった。
他にもスマホや日記らしきものも出て来た。キメラは無生物への付着の場合、三十分程度で死に絶えるので、これらの荷物はそのまま持って帰っても大丈夫だろう。
遺体に関しては一週間はそのまま残留しているので、厳重に隔離してキメラウィルスの確認作業に回す。
青田さんの渡航履歴を追えば、キメラへの感染場所の推測はできるだろう。いずれにしてもこの場では、私のマイクロチップにある情報だけが、唯一の対抗手段だ。責任感に身震いがしてくる。
搬送の準備が整ったので、全員で部屋の外に出て再び鍵をかける。心配したのは鼠などの生物がいることだったが、新築で清潔なアパートだったのでその心配はなさそうだ。
三一世紀においても脊椎動物から人への感染は記録されているが、昆虫からの感染の記録はない。鼠が一番危険だが、鳥なども恐ろしい。発症して死んだ動物に触ると、ほぼ百%感染する。
車は真っ暗な夜の道路を病院に向かって進んでいる。中江さんのアパートが駅から離れた郊外にあったのが幸いした。この夜の暗闇のおかげで、近隣の人たちに我々の行動を怪しまれることはなかった。何しろ防護服を着た人間が四人も来たのだ。人気の少ない郊外であっても、昼間だったら大きく目立ったであろう。
病院に戻ると中江さんの死亡が知らされた。これで犠牲者は二人目だ。ここで対応を誤ると爆発的な感染の拡大が予想されるだけに、中江さんの死の感傷に浸る暇はなかった。心の中で冥福を祈って、すぐ次の行動に移る。
私は毬恵さんに電話した。
――待ってたわ。感染はしてない?
「大丈夫だ。それで調べて欲しいことがある。後でパスポートの写真を送るから、その人の直近の渡航履歴を調べて欲しい」
――感染場所を特定するのね。分かったわ。
「それから東さんに連絡して、すぐに慶新大学病院に来て欲しい」
――先生は商工会議所の会合に行ってるけど、すぐに連絡をつけてそちらに向かうわ。私も行ってもいい。
「もちろんだ。さっき駐車場で顔を見たときは元気が出た」
――私もよ。お願いだから一人でむちゃはしないでね
「分かった。じゃあ後で」
電話を切って検査室にいる慎二先生の下に向かう。
検査室では慎二先生が、中江さんの遺体から検出した身体の一部で、感染後の遺伝子変化を調べているところだった。
「慎二先生、東さんに来てもらうことになった。至急病院の主だった関係者を集めてもらって、今後の対策、保健所や厚労省への連絡、マスコミ対処について話し合おう」
「ああ、分かった。ところで、ウィルスの発見者だが……私ということにしようと思う」
ここでも慎二先生は気を使ってくれている。医者でもない私が発見者になれば、会議のメンバーはなぜと疑問を持つ。私に掛かる負荷を気遣ってくれているのだ。
「ありがとうございます」
私は多くを語らず、ただ礼を言って頭を下げた。
「このウィルスについて会議前にレクチャーしてくれ」
「分かりました」
私たちは、二人で会議室に入った。
私はキメラウィルスに関する参考文献を、マイクロチップからパソコンにダウンロードして印刷した。慎二先生へのレクチャーは、この資料に基づいて説明することにした。
「まず歴史ですが、キメラは二二世紀にアフリカのコンゴで見つかりました。それまでエネルギーの中心は原子力で、原子力発電所は世界の各国に作られました。もちろん安全には留意されましたが、気候変動の激しい地域では、しばしば予期しない事故が発生します。コンゴでもフランスの支援で原発を設置し、鉱物資源発掘のエネルギーとなりました」
慎二先生は百年後に、アフリカに原発ができるという話に驚きを隠さなかった。
「アフリカに原発、それ程迄エネルギーは逼迫するのか」
「はい。コンゴの原発は、アフリカの他の国にも売電されていますから、需要は高かったようですが、放射能漏れの事故を起こしました。事故原因は単純です。冷却用の給水装置が不正なメンテで故障し、メルトダウンが起きたのです。それ以降原発一帯は無人地帯と成りました」
慎二先生は悲痛な顔をした。ここ日本でも原発絡みの事故は複数起きている。それを思い出したのだろう。
「だが、恐ろしいのはその後でした。放射能による遺伝子破壊が原因で、エボラ出血熱とインフルエンザの両方の遺伝子情報を持つキメラが、この無人地帯に誕生してしまったのです。キメラはコンゴだけじゃなくアフリカ全土、ヨーロッパ、インド、東アジア、そしてアメリカまで渡り、オーストラリアを除く全世界がパンデミックと成り、全世界で三十億人が死亡しました。ちなみに日本の人口は七千万人まで減少しています」
「七千万人……三分の一以上の人間が死んだのか」
「キメラの猛威は三年間続きました。だが、キメラ用の抗体ワクチンができてからは、もう亡くなる人はいなくなりました。ただ、ウィルス自体は消滅したわけではないので、三一世紀ではキメラの予防接種は義務付けられています」
「じゃあ、柊さんの身体にはキメラへの抗体があるのか?」
「あります。基本的にキメラのワクチンは、遺伝子組み換え法によって生成されます」
「キメラの感染力は?」
「エボラがそれほど強くないのに比べて、キメラはインフルエンザの特性も持っているので非常に強いです。放置するとあっという間にパンデミックです」
「うーん、やっかいだな。致死率は?」
「人種的な差異はありますが、だいたい七十%を超えます」
「しかも発症してから死亡までが早い。中江さんは半日持ってない」
「そうですね。発症したらワクチンが無いとほぼ死亡でしょう」
「なるほど、キメラのことはだいたい分かった」
「問題はこれからの対応です」
「そうだな……」
慎二先生の顔は厳しかった。感染源だと思われる青田さんが、どこからどのような経路でこの富士沢に入ったのか、その中で何人と接触したのかが心配だった。大規模感染も考えられる。
ただ、東京でエボラ発祥のニュースは届いてない。飛行機、バス、電車などの密閉空間で、青田さんが感染を拡大させたかもしれない可能性は大きい。犠牲者が何十人単位で既に発生していてもおかしくないのだ。
だが、謎はそれだけではない。青田さんと中江さんの感染から発症までの時間が違いすぎることだ。青田さんが海外で感染して、中田さんに会うまでに少なくとも三日間は必要だと考えられ、その間発症しなかったわけだが、中江さんは昨夜感染し今日発症している。
二人で二つの謎について話し合っているうちに、東さんが到着したので会議が始まると連絡がきた。急いで会議室に向かう。
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