恋の予感 ――恋が分からない私
「当時の丸山市長が市役所発行のフリーペーパーを作って、発行を別の印刷所に発注したの。父は同じようなものが二つあっても消費者が混乱すると言って、この事業を止めたのよ。この企画に併せて無理な投資をしていたつけもあって、あっけなく財務破綻したわ」
「酷い話ですね」
「ええ、そんな経営努力を知らずに、浅はかな分析でリストラ案を出して、私はすごい大馬鹿だったわ」
「お父さんは今何をしているんですか?」
「結局、会社が潰れてから気力を失って、家でゴロゴロするうちに亡くなってしまった。最後に手を尽くした事業が取り上げられて、もう一度頑張ろうとする気力が無くなっちゃったのね。うちは母も私が小学生の時に癌で亡くなっているから、父にとっては会社だけが、生きる支えだったのかもしれない」
言葉が出なかった。そんな過去が毬恵さんにあったとは予想もつかなかった。
「それで父が亡くなってしばらくして、市が財政破綻になったことを知ったの。何だか無性に腹が立ってきて、しばらくウォッチしてたら市長選があると分かって、会社を辞めて対立候補の東先生のところに押しかけたわけ」
悲惨な話に暗くなったが、毬恵さんは存外明るい表情だった。
「すいません、私なんかがプライベートな話を聞いちゃって」
心からそう思った。たまたまこの事務所に自分が居合わせて、再選した夜というドラマティックな状況で、本来聞いてはならないことを聞いてしまったように思ったからだ。
毬恵さんは私の言葉を一笑して、すぐ真剣な顔で言った。
「そんなことない。あなたがいたから話したの。私はここに戻ってくる途中で、あなたがまだいることを期待してた」
「えっ、ええええ、どっ、どういう意味ですか?」
毬恵さんの言葉の意味が分からなくて、言語能力が破壊されたのかと思った。
「あなたが気になるの。ううん、たぶん好意を持ってるわ……」
頭が爆発しそうだった。斎藤さんの好意は薄々感じていた。しかしそれは若い女にありがちなホルモンの為せる業だと思っていた。少なくとも自分がこの時代の書物から得た知識ではそうだった。
木乃美の好意も分かる。これも少女が大人になるときに、背伸びして年上の男をわざと対象に選ぶ、自我の確立と連動した行為だ。これも書物から得た知識だが。
だが、毬恵さんほど完成された大人の女が好きになるのは、東さんのような分別が分かってなおかつ、エネルギッシュな男のはずだ。少なくとも自分がこの時代の書物から得た知識では、私のような爺臭い見た目だけが若い男ではないはずだ。それも書物から得た知識だが……
「ごめんなさい、毬恵さんが言った通りの意味だと、理解ができないんですけど……」
せいいっぱいのリアクションだった。毬恵さんは聞いた途端にプッと噴き出した。
「ハハ、ハハハ、ごめんなさい。あまりにも予想通りで、堪えきれなくて……」
「そんなにおかしいですか?」
おずおずと訊いてみた。
「ごめんなさい。でも言葉のとおりよ。私はこんなことを冗談で言えるほど恋愛に経験豊富じゃないから」
「でもどうして……」
それだけ言うのが精いっぱいだった。
「私にだって分からないわ。言ったでしょう。そんなに経験はないから。ただ、あなたは凄いアイディアと実行力を持っていて、その効果も正確に測定できるけど、それを使って不必要に自分を飾る人間じゃないことはよく分かる。いつも自分の考えに正直で嘘をつけない、素直な性格だってことも」
それは誤解だ。言えないけど最大の嘘をついている。自分が三一世紀から来たことを、記憶喪失だと言ってごまかしている。
「私は毬恵さんの言ってるような人間じゃないと思うけど」
誤解なら今解いてしまいたい。だが胸がモヤモヤして歯切れが悪い。もしかして誤解されたままでいたいのか?
「じゃあ、柊一さんは自分がどんな人間か分かっているの?」
これも難問だった。人づきあいの少なかった私は、自分や他人の人物像を掴むことも、言い表すこともできない。
「分かりません」
「それなら、私があなたをこういう人だと思っていても、否定はできないでしょう?」
「そうですね」
そう言わざるをえなかった。
「でも私があなたに好意を持っているのは事実だから」
その言葉を聞いた途端、心が熱くなってついでに身体も反応した。何か心の奥から毬恵さんの身体を触りたい欲望が湧いて、抑え込むのに苦労した。
「あ、ありがとうございます」
それだけ言うのが精一杯だった。
「ごめんなさい、このままだと抱きつきたくなっちゃうから、帰ります。ここは神聖な職場だし」
そう言って、事務所を出ていく毬恵さんに、さよならともお疲れ様とも言えなかった。およそ三十分経ったところで、頭がオーバーヒートしたまま仕事にならないので帰ることにした。
どうも頭が冴えない。昨夜そんなに飲んだわけでもないのにどうしたことだろう。疲れて床についたのになかなか寝付けなくて、朝方やっと寝たと思ったら、二時間も経たずに毬恵さんの夢を見て起きてしまった。
いろんなことが起きたから自分の精神が壊れてしまったのかと心配した。だが、マイクロチップからは、身体におかしな変化はないと告げてきた。
朝食をとっていてもどこか上の空で、慎蔵先生と満江さんが心配そうな顔をする。心配をかけてはいけないと、自ら話し始めるがどこか上滑りをしてしまう。
だからと言って、慎蔵先生や満江さんに昨夜の出来事を話す気にはなれなかった。二人とも年齢こそ自分より下だが、その愛情はまさに書物で読む親のようで、自分自身そういう感情になっていると感じている。それだけに異性の話は何とはなく気が進まなかった。
困っていると藤山さんがやって来た。慎蔵先生のうちに来ることは珍しい。ちょうど朝食を食べ終えたところだったので、二階の自分の部屋に招き入れた。
「何かおかしいな」
藤山さんが私の様子を観察しながらポツンと呟いた。
「何がですか?」
さっきから何となく気恥ずかしくて、思わず不機嫌そうに訊いてしまう。
「いや、来た時から何となく落ちつきが無いように見えてな……」
藤山さんに異変を気づかれていると思うと、黙っていられなくなった。
「実は変なんです」
「どうした?」
藤山さんも不要な言葉は入れずにストレートに訊いてきた。
「実は昨夜残っていると毬恵さんが戻ってきて、二人でラーメンを食べに行ったんです」
「毬恵ちゃんが、それは珍しいな」
「ええ、それでラーメン食べる前から、毬恵さん少しおかしくて身の上話を話し始めて、突然泣き出したり、その時はお腹が空いていたみたいなんですが、ラーメン食べ終わったら、急に元気になって、お父さんの話の続きをしてくれたんです」
「ああ、聞いたのか柴田さんの話を。あの人は立派な人だったな。現実を受け入れながらも、決して諦めなかった。市の横やりさえなければと思うと、惜しいことをした……」
毬恵さんのお父さんの話になると、藤山さんも感じることがあるのかしんみりとした空気に成った。
「それを聞き終わった後で、こんな私にそんな大事な話をしてもらって、申し訳ないと言ったんです。そしたら……」
少し恥ずかしくなって言葉に詰まった。藤山さんは急かすこともなく、次が話されるのを待っている。
「そしたら、毬恵さんが、私が事務所にいるんじゃないかと期待して戻って来たと言うんです。それで、どういう意味か分からなくて訊いたら……」
藤山さんの表情が少しだけ緩んだ。
「私に好意を持ってると言うんです……」
言ってしまって、また昨夜のことを思い出して、胸がドキドキしてきた。少しだけ沈黙が続いて、やっと藤山さんが口を開いた。
「それで終わりか?」
藤山さんが呆れたように訊いてきた。
「それで終わりといいますと?」
私は藤山さんの言葉の意味が分からなかった
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