戦う意義 ――いよいよ追い詰められた私に
突然事務所のドアを叩く音がした。こんな朝早く誰が来たのかとドアを開けると、そこには藤山さんの姿があった。
「朝の散歩をしていたら、丈晶の事務所の窓から灯りが漏れてたんでな、陣中見舞いにと寄ってみたんだが、まさか君が一人で頑張っておるとは思わなかった」
「昨日東さんのホームページをオープンしたのですが、コメントが三千件近く来たので、質問に関しての答えを作っていたところです」
「ああ、あれか。私も一つコメントを入れたよ」
そう言って藤山さんはウィンクをした。
「そんなわけで東さんが出かけるまでに、回答集を毬恵さんに渡したいんで、申し訳ないですが作業を続けます」
再び作業に戻ろうとしたとき、背後から藤山さんの声がした。
「回答作成に付き合おうか?」
「えっ……」
「何を不安そうな顔をしてるんだ。これでも小学生の感想文を読み続けて四十年だ。インターネットに書き込む様な稚拙な文章を読むにはぴったりだろう」
残り時間は後二時間しかない。時間の問題以上に残った質問は、意味がよく分からないので分類すらままならない。ここは藤山さんの力を素直に借りることにした。
「こちらなんでが」
約三百件のコメントをリスト化し、印刷した紙を渡す。それは両面印刷で二七ページの分量だった。藤山さんは黙って受け取り、十分ばかり目を通した。
「まったく酷い文章だな。君が混乱するのもよく分かる。これは感情むき出しで小学生が書く詩みたいなもんだ」
藤山さんは鼻で笑って私に告げた。
「今から私が回答を読み上げるから、君がタイプしてくれ」
「できるんですか?」
「私を舐めるな。小学生の感想文にコメントをつけて、親にもクレームを付けられない技術が私にはある。こんなものに波風立たないようにもっともらしく返すことなど造作もないよ」
「分かりました」
「最初はこれと、これと、これと――」
私は慌ててキーボドに向かって、藤山さんが指摘する文章をマーキングした。
「これらの文の大意はこうだ。財政立て直しで、地元の土建業を中心にした産業は虫の息になっている状態で、流入組の世話ばかりやくような政策は間違っている。これでは流入してくる人たちは潤っても、元から地元にいる者は生きていられなくなる」
地元の産業がそんなに活力を無くしているとは……。確かにそこへの救済策は弱い。スッと血が引いていくのを感じた。
「阿呆、君がそんな顔をしてどうする。別に地元の土建屋たちは死にはせん。前ほど儲からないだけで、既得権益が失われたことを大げさに言ってるだけだ。だが、ここは感覚的なものだから選挙戦では、争点になるかもしれんな。一馬は当然ついてくるだろう」
一馬とは
「大丈夫なんですか」
「大丈夫だ。本当に死活問題だったら丈晶は放ってはおかない。第一、君が提案した施設を作るときに彼らは潤うじゃろ。人口が増えれば住宅建設も増える」
「じゃあそう書きますか?」
「いやそれでは間に合わんと嘘を主張され、選挙は負ける。ここは、こう書けばいい。クラウドハウスなどの新施策のねらいは、経済以上に子供を増やし育てることにある。子供の声があちこちで聞こえる街づくりこそ、一時の辛さを跳ね返す活力と成ると」
「それもファジーな答えですね」
「いいんだ、感情には感情で訴える。ここは直接否定した方が負けなんだよ」
藤山さんの言葉に何となく戦い方が見えてきた気がする。感情というフィルターを通して残った質問を見ていくと分類だけなら何とかできそうだ。
「何となく分かってきました。ただ答え方はまだ分かりません」
「だから私が考えてやると言ってるだろう。君が全てを背負う必要はない。協力して事に当たれば成果は掛け算で返ってくるものだ」
それから二人で集中して回答を作った。藤山さんが考える回答を、私がマイクロチップを通して自動記録する。回答作成に集中する藤山さんには、私が実際にはタイプしてないことに気づかない。
「これで終わりだ。文章の推敲は柴田君がやるんだろう」
「そろそろ皆さん集まってきますね。それにしてもどうして手伝ってくれたんですか?」
「散歩している途中で寄ったのは本当だ。ただここに入って君が一人で頑張っているのを見て、何とか力に成りたいと思ったんだ」
「どうしてそう思ったんですか? 吉原先生のことですか?」
「それはもちろんある。あの時は世話になった。おかげで今私はとても幸せに暮らしている。だけどそれだけじゃない」
藤山さんはパソコンを指さした。
「これを見て驚いた。ここには童話の世界がある。みんなが幸せになる童話だ」
「童話、ですか……」
「人の世にはしがらみというものが存在する。既得権益もその一つだ。人間は生きている間にたくさんのしがらみを背負っていく。だから人が何かを為そうとするとき、常にしがらみによる行動の制約を受ける。丈晶だって例外ではない」
「東さんにもあるんですか?」
「もちろんあるさ。あいつは生粋の地元っ子だ。あいつの友達や応援してくれる仲間の中にも、既得権益を受けている者は大勢いる。だから極端な既得権益剥がしは難しい。せめて彼らの心が傷つかないようにと、政策を表現するときも遠慮が生まれる」
「そんな、結果的にはみんな幸せに成れるはずです」
「そこは欲との関係で難しい。人間は根本的には、自分がある程度恵まれていないと他人に目が向かない。一時的にせよ、自分の損につながることは本能的に拒否してしまう」
「慎蔵先生や慎二先生もそうなんですか?」
「彼ら自身はそう思わなくとも、周囲との関係が難しくさせる」
「藤山さんはどうなんですか?」
「私もしがらみだらけの人間だよ。ただ、どうせしがらみの中を泳いで渡るのならば、皆が幸せになるようにと開き直っただけさ」
「妙子さんもずっと童話の世界を描いてきたんですね」
「その通りだ。そして君もそうだ。童話の世界に生きている。ただ君には凄い技術が備わっていて、壮大なスケールの童話が描ける」
「そうですかね……」
「ああ、ただ、今私がやった仕事は君には向いてない。相手の気持ちが理解できなくてコンフュージョンしてしまう。だから私は君の理解できない、人の性のような部分を引き受けようと思った」
「妙子さんはどうなんですか?」
「彼女にも話した。彼女は私を支えてくれると言ってくれた」
「もったいない話です」
「そんなことはない。むしろ感謝している。教職に捧げた一生に悔いはないが、人生が終焉に差し掛かったところで、こんな心が躍ることに出会えるとは思わなかった。全て君のおかげだ」
私は胸が熱くなった。慎蔵先生と満江さんが親なら、藤山さんは私の先生だ。師弟関係という初めての体験に期待が膨れ上がる。
「あれ、藤山先生じゃないですか?」
東さんが事務所にやってきた。その後ろには毬恵さんの姿もあった。そうこれから選挙戦二日目が始まる。
「コメントへの回答を作っていて、どうにも答え方が分からない質問があったのですが、散歩で通りかかった藤山さんが手伝ってくれたんです」
「それはありがとうございます。柊さんと藤山先生がセットで作ってくれた回答なら、もう何の心配もいらないですね」
東さんの言葉に毬恵さんが頷く。
「今日は朝からいい天気ですね。選挙戦二日目に相応しい」
「丈晶、お前の政策は素晴らしいが、デジタルを強調しすぎて、製紙関係者を敵に回すなよ。あの提案はそのぐらいの破壊力があるぞ」
「もちろん分かっていますよ。そこは任せてください」
先ほどの藤山さんの言葉が頭を過った。自分は東さんの関係者の利害など、何も気にせずにプランを作っている。
「毬恵ちゃんは大丈夫かい。デジタルはいわば親の仇みたいなもんだろう」
――親の仇?
「私なら平気です。東先生の秘書ですから」
「毬恵ちゃんだけじゃなく、この街は紙に関係する人間が多い。ビジネスモデルの優秀さや、システムの高度さに目を奪われて、そちらをあまり強調すると、足をすくわれるぞ」
「分かってます。そのために私がいます。目的と手段を取り違えるような真似は、先生にはさせません」
毬恵さんはきっぱりとそう言って、藤山さんに微笑んだ。
私は頭をぶん殴られたような感じがした。本音を言えば、いいプランとそれを実行できるスキルがあれば、事は成ると思っていた。
だが、そこをあまり強調すると、不利益を被る人間は感情的に反発するのだ。だから藤山さんは、何のためにそうするのか、目的を大事にしろと言ってるのだ。
藤山さんがいて良かったと心から思った。藤山さんがいなかったら私はこの事に気づけず、FAQは使い物にならなかった。
それにしても、毬恵さんにとってデジタルは親の仇ってどういう意味だろう。また小さな疑問を抱えてしまった。
「さあ、柊さん、柴田さんに昨日の成果を渡しときな」
今のやりとりですっかり忘れてた。慌ててプリントアウトしたFAQを、毬恵さんに差し出した。
「毬恵さん、これが昨晩作った回答集です。毬恵さんの確認が済み次第、これをFAQとしてネットにアップします」
私が差し出したFAQのプリントアウトを見て、毬恵さんは笑って言った。
「その必要はないわ。今すぐにアップしてください。藤山先生が見てくれたものなら確実です」
ここでも藤山さんの信用が大きな力を発揮して、時間短縮と毬恵さんの負荷を軽減した。
思えば私がこの事務所にあっさりと迎え入れられたのは、慎蔵先生が培った信用のおかげだ。そういうものが、知識やスキルを超えて作用することを改めて実感した。
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