ありとあらゆる水曜日の朝
井戸川胎盤
ある水曜日の朝
――めんどくさい。
目が覚めて、最初の思考がそれだった。
「朝一番に、何より先に思うことがネガティブなのは良くない」と反射的に考えて、思い直そうとしたが、過ぎ去った思考を変えることは不可能だと気が付いた。
せめてもの抵抗として、起き抜けのカラカラの喉で精一杯に「おはよう!」と明るく口に出せば、少しはポジティブに一日が始まる気がして、声を上げた。
「……ぉバァよ゛ぉぉ」
自分でも驚くほどに、かすれた低い声が出た。返事のあるはずもないその挨拶らしきそれは、気温の冷えた部屋に空しく響き、閑散とした部屋が余計に寒々しくなっただけだった。
今日も前向きに生きられそうにない。
冬の夜に熱を奪われて、凍えるような室温なのは、すっぽりとかぶった布団越しにもよく分かる。かろうじて腕だけを伸ばして、ベッド脇のカーテンをぶっきらぼうに引っ張った。
まばゆいほどの朝日が窓から入り、閉じたまぶた越しにも目を刺した。
眠気と眩しさに目を開けられずにいると、今度は電子的な不快音が耳を襲った。かろうじて薄目をあけてスマホを探し出すと、目覚ましをスヌーズ機能ごとOFFにした。
――お前は毎日同じ仕事ばかりでよく飽きないな。
無意味な悪態を頭の中でスマホに吐き出す。少し起き上がりかけた頭をぽふりと枕に突っ伏した。
このまま布団に閉じこもってしまいたい。
布団のはじをぎゅっと握ってみたが、これ以上起き上がらないでいれば、二度寝してしまうということは、これまでの人生で学んだ最も大きな教訓だ。
覚悟を決めて、布団を思い切り蹴飛ばして、体を起こす。
「うわっ……、さむっ」
床に横たわった布団を手に取る誘惑に駆られたが、ぐっとそれを堪えて立ち上がる。フローリングの床もまた冷え切っいて、いつでも僕の体を支える足の裏さえも悲鳴を上げた。
――なんでこんな寒いのに起きなきゃいけないんだ。
ため息を吐くと、息は白ずんでいるようにも見えた。
そそくさとリビングへと向かって、いつもと同じように暖房をつけた。
それに意味があるかどうかはよく分からない。大抵の場合、効きの悪い暖房が部屋を暖め始めたころには、寝坊気味の私は仕事へ出かける時間になっているからだ。それでもこの厳しい冬の朝には、スイッチを入れずにはいられない。
エアコンの『ピッ』という電子音を聞き終わるのを待たず、ケトルのスイッチも入れて、お湯を沸かす。
――コーヒーが飲みたい。
正確に言えば、きっとコーヒーが飲みたいわけではない。
コーヒーを飲めば、なんとなく目が覚めるような気がしているだけだ。べつに味なんて大して意味はない。銘柄に何のこだわりもなく、スーパーで下から三番目くらいの値段のインスタントコーヒーを飲んでいるのがその証拠だ。
なぜ下から三番目くらいの値段のコーヒーかと言えば、一番安いのを買うとコーヒーの味も分からない男だと思われそうだからだ。かといって下から二番目に安いのを買うと、その見栄っ張りな思考を見透かされるような気になる。
だから僕は下から三番目に安いコーヒーを買う。
もっとも、一体どこのだれがそんな興味を僕に抱くのか疑問はあるが、兎角、そんなちっぽけなプライドのために、僕はスーパーで100円ほどの余計な出費をしている。
冷えたソファーに座る気さえせずに、エアコンの風が直接当たる場所にぼうっと突っ立ってテレビを見る。そのうちにお湯の沸いたケトルが私を呼んだ。
いそいそとマグカップに三番目に安いインスタントコーヒーを乱暴にぶち込んで、お湯を入れた。別に濃くても、薄くても、味はどうでもいい。スプーンを洗うのが面倒だから、一々かき混ぜたりもしない。
熱湯を注がれて湯気を吐くコーヒーを、火傷しないようにチビチビと口へと運ぶ。ほら、熱すぎて味がしない。
コーヒーが冷めるのを待つあいだ、朝食でも食べようとキッチンを漁って、バナナを一本取り出した。
そもそも朝食を食べるという習慣がなかった僕がこうしてバナナを食べるようになったのは、『バナナを食べると幸せな気分になれる』というのを何かの雑誌で読んだから。何でもバナナを食べると、脳内にセロトニンという物質が普通より多く分泌されるらしかった。そのセロトニンというやつが多いほど、人間は“幸福感”を得るらしい。
その話はきっと事実なのだろうけど、医学的に説明されたその“幸福感”というやつは、僕が思っている“幸福感”というやつとは、きっと意味が違うのだろう。
ここのところ、毎朝のようにバナナを食べているけれど、ご覧の通り――僕は決して幸福ではない。なんたって朝一番に考えることが「めんどくさい」なのだから。
けど、朝食を少しでもちゃんと食べることは、健康のためにも決して悪いことじゃないだろうし、バナナは美味しいから、朝にバナナを食べるのは続けようかなと思ってる。
ほんの少しだけ冷めた熱々のコーヒーを啜りながら、エアコンの風に当たる場所に突っ立って、何も考えずにテレビを見ていた。
テレビは、今日も昨日と同じようなニュースを垂れ流していた。生活が変わると報道する割に何も変わらない政治改革、顔だけ知っている芸能人の不倫に、誰が食べたくなるのだろうと首をかしげてしまう流行しそうに思えない今流行りのスイーツ。
毎日、繰り返されるようなニュースは、同じ日が繰り返されているのではないかと誤解しそうになる。
いや、実際繰り返しているのかもしれない。
テレビのニュースはどれもこれもが昨日も見たような気がする。一昨日も同じだった。その前も……いや、その前は日曜日だから、それはないか。
だが、それでも僕は毎日同じニュースを見て、コーヒーを啜って、バナナを食べていた。そんな気がする。
僕は無意味に毎日を浪費している。
このつまらない日常から抜け出す努力をしているわけでもないし、自分自身を変えようとしているわけでもない。
ただ漫然と毎日を過ごしているだけだ。
昨日、僕が無意味に浪費した“今日”が終わって、また“今日”が来た。
――つまり、それを積み重ねた僕の人生は無意味だ。
テレビは繰り返される毎日の中で、繰り返し同じニュースを流す。このくだらない情報番組を見ている理由は、安心するからなのかもしれない。僕の人生と同じで何一つとして意味を持たない。
僕以外にも“今日”を浪費している人間がいると確認できると安心する。
だから、僕はぼんやりテレビを見ている。
ふと、窓の外を見ると、お隣さんが前の道を走っているのが見えた。
隣の部屋の住人は、僕と同じくらいの年頃の女性だった。会話したことはほとんどない。引っ越してきたときに挨拶をしたほかは、たまにすれ違って会釈をする程度の間柄だ。いつも寝坊しているのか、スーツ姿で走って出勤する後ろ姿は、どこか自分と似ている気がして、僕は勝手に親近感を持っていた。
だが、それ以上に彼女の姿を窓から確認しなければならない理由は、彼女が僕にとっての合図であるから。
出勤するお隣さんがこの窓から見えた頃合いで、僕は準備を始めないと遅刻する。
めんどくさいなと思いながら、半分しか飲みきれなかった三番目に安いコーヒーをテーブルに置いて、洗面台に向かう。
もう準備して出かけなければ、僕も仕事に遅刻してしまう。
いや、さっき無意味にぼんやりとしていた時間を無くせば、少しは余裕が出るだろうとか、そもそももっと早く起きたらいいだろうという意見があることは承知しているが、けれど、それはどだい無理な話だ。
朝、ゆっくり眠っていたい気持ちや起き抜けにぼんやりとする時間、それらを犠牲にするほどに、僕は仕事に行くということに価値を見いだしてはいないからだ。
むしろゆっくり眠るのも、ぼんやりするのも、遅刻ギリギリで済むように犠牲にしているのだから、それを褒めて欲しいくらいだ。
冷たい水で顔を洗うと、少しは目は冴えて、ほんのちょっぴりだけ「よし、やるか」という気なって、寝癖を直して、ヒゲを剃った。
クローゼットからスーツを取り出すと、ため息が出るというのも、もはや毎朝の日課になってしまっている。
学生のころは、スーツなんて肩の凝るものを来て、満員電車に毎朝乗り込むなんて、死んでも嫌だと思っていた。それが今では毎朝、こいつを着込んで電車に乗ってる。
――どうしてこうなっちゃたんだろう。
スーツを着なくても良い仕事が出来るように努力しなかった自分が悪いと言われれば、それまでに過ぎないが、けれど、だからと言ってどうすれば良かったのだろう。
学生時代、別にやりたいことなんてなかった。だから、ただ毎日その日やりたいことをやって過ごした。
そうしているうちに、いつのまにか社会人になった。その結果、僕は世の中で何にもなれずに、今、こうしてやりたくもない仕事を続けて、糊口をしのいでいる。
僕は何か悪いことをしただろうか。
なぜやりたくもないことをし続けなければならないのだろうか。
そんなことを誰かに言ってみても、「大人になれよ」と、朝の情報番組以上に無意味な言葉を浴びせられて、論破した気になった“大人ってやつ”が得意顔をするに決まってる。
――あぁ、気に入らない。
一人で想像して、一人で怒った。
スーツを見ると、毎朝そんなことを思ってしまう。こんなものに腕を通したくないが、けれど今、この忙しい朝に、それをどうすることもできないので、大きなため息をついて、怒りを収めた。
それが朝の日課になりつつあった。
スーツはスーツでも、これが“
僕が生きているあいだに、到底、その未来はやってこないだろう。たわいもない妄想に自分で水を差してしまった。妄想でさえ僕は自由でいられない。
なんで変なところで現実的なんだろう。
あぁ、またため息が出る。
嫌々ながらにスーツを着込むと、今度は口に歯ブラシを突っ込んで、見てもいないテレビの時刻表示をまた確認した。
――あと一分で歯磨きを終わらせて、靴を履かなければ。
急いで歯を磨くと、口をゆすいで大慌てで戸締まりをして、靴を履く。
最後に一つ、大きな大きなため息をついた。
また“今日”という日が始まってしまった。
どうせまた無意味な“今日”が始まってしまった。
そうして僕は玄関のドアを開け、外へと足を踏み出した。
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