3.
二人は困惑した。
イザナに現れたあの時空の穴を通り抜けてみれば、辿り着いたのはイザナのすぐ外に広がるイナナリ高原だったのだから。アルドたちにとって、時空を超えるのは初めての経験ではない。だが、穴を通り抜けた先はおおかた遠い未来であったり、あるいは及びもつかぬような太古の昔であったりと、目に飛び込んでくる風景に驚かされることが多かった。だからこそ、今彼らの目の前に広がるあまりにも代わり映えしない風景は、一周回って不思議なものであったのだ。
違うのは、吹き抜ける風が運んでくる匂いだけである。
「……血か」
近くではない。ここから遠く離れたいずこかで、血が流れている──戦が起きている。
少なくともこの東方において、戦乱は過去のものだ。各地で燻っている火種はあれども、今まさに燃え上がっている炎はない。鬼族の起こした騒動は記憶に新しいが、戦と呼ぶには少しばかり規模が不足していただろう。
では、この土地はどこなのか。
遠くに見えるクロサギ城の威容に目を遣って、シグレは小さく呟いた。
「まさか……過去のイナナリ高原、か?」
イナナリ高原は元々目立つ建物の少ない、寂寞とした土地だ。風にそよぐ芒の群れ。人の足跡の残る街道……あるのはただ、そればかり。少しばかり時間が経とうとも、簡単に変わるような風景ではない。あるいは少し未来のイナナリ高原なのかもしれぬ、イザナとナグシャムが、正面から戦い始めた可能性も否定はできない。
兎にも角にも、とシグレは歩き出す。未来の記憶を頼りに、一先ずは普賢一刀流の道場を目指して。アルドもまた、何も言わずにそれに追従する。見知った、だが見知らぬ土地だ。どこからどのような脅威が飛び出してくるかわかったものではない。常に片手は得物の柄に置き、歩みを進める。
沈黙を彩る風の音。虫の声。空の色。
「このあたりに詳しいわけじゃないけど……あまり変わってないんだな」
「そのようだ。まあ、イザナから離れた寂れた場所だから……む?」
シグレが、ふと足を止めた。
「声がする」
風の中、途切れ途切れに聞こえてくるのは女の声だ。まるで、剣を振るっているかのような声。稽古や素振りの時に上げるものではない。あれは、目の前に何か危険が迫っていて、それと戦っている時に上げる声だ。
「……魔物に襲われているのか?」
「だとすれば、放ってはおけんな!」
言うや否や、アルドとシグレは同時に全力で走り出した。互いにいちいち首肯を返す余地もない。──声は街道を走り抜けた先、芒の群の中からしていた。
「大丈夫か! ……!」
一人の少女が魔物に囲まれていた。そして彼女の姿に、青年たちは言葉を失った。
長く艶やかな黒髪。化粧こそしていないようだが、凛とした美しい面差し。そして、その小さな手に握られた大太刀──彼女がイザナを襲った女であるというのは、最早疑問を抱く余地もあるまい。少女はどこからともなく現れた二人の剣士を認め、ほんの一瞬訝しげな表情を見せたが、すぐに彼らに向かって叫ぶ。
「……これはありがたい。済まないが、手を貸してくれ!」
彼女の正体に疑問が残る状況とは言え、助けを求められておいて捨て置くわけにはいかない。二人は各々の得物を抜き、魔物と相対する。
「数が多いな……。それに心なしか、俺たちの時代よりも強い気がするぞ」
「厄介な魔物は国が討伐することもある。だが時代が違うなら、そうした者がうじゃうじゃといても不思議ではないのだろうよ」
剣を振るいながら、シグレは笑う。こうも手応えのある相手に囲まれているのなら、この時代の剣士はさぞ腕利きばかりなのであろう。現に傍に立つあの少女は、その大太刀を舞うかの如く華麗に振るい、襲い来る魔物を次々と斬り伏せていた。かなりの腕前である、というのは、その太刀筋を一見すればわかる。
しかし、魔物のほうも一筋縄ではいかない。一度斬られた程度では倒れず、脳天から両断されて初めて動きを止めるような化け物揃いだ。これだけの数を相手にするとなれば、いくら少女が手練れであろうと、アルドたちに心得があろうとも、そう容易く勝ちは掴めまい。
シグレの斬撃が、眼前の魔物を捉える。だが、刃の入る角度が中途半端なものだったのだろうか。魔物の体に減り込んだ刀身は、それを両断することはなく、肉に食い込んで止まる。彼の背中を守っていたアルドが、咄嗟に叫ぶ声がした──。
——その時、稲光が迸った。
それは、魔法でも何でもない。魔物の脳天に落ちた一撃が、まるで落雷のように見えただけだ。敵の頭蓋をかち割るほどの一撃を放ったのは、アルドではない。立ち位置を考えれば、少女でもない。ならば、誰か?
両断された魔物の背後から姿を表したのは、長い髪を血風に靡かせる一人の美丈夫であった。強大な魔物の巨躯を前にして、退屈に過ぎるとばかりに鼻を鳴らす。そして一行を見遣り、淡々と告げた。
「……退いておれ」
手には一刀。纏うは、浅葱色の袴。鮮やかな身のこなしを一見しようものならわかる──彼は、普賢一刀流の人間だ! 次の瞬間、青年は誰の答えも待たずに踏み込み、ひらりとその細身の体を戦場に躍らせた。かと思えば、次の瞬間、魔物の体がぐらりと傾く。瞬きをすればまた一体、走る姿を追えばまた一体──その現実離れした武威に、シグレは思わず生唾を飲む。青年が鞘に刀を納める頃には、周囲にはすでに生きた魔物の影はなく、ただ血の匂いのする風が、芒の間を吹き渡ってゆくだけであった。
「……タケル殿!」
負った鞘に大太刀を納めた少女が、心配そうな表情で、青年に駆け寄っていく。
……タケル。タケルと言ったのか。その名にシグレは僅かに眉根を寄せた。
普賢一刀流は、多くの剣豪を輩出してきた一門である。一生をかけて数百という奥義を編み出した者。数多くの武術書を著した者。たった一人で数千の敵を斬ったと言われる者。そのすべてを並べ立てていればきりがない程度には、普賢一刀流というのは歴史の長い剣術だ。普賢一刀流のタケル……彼の名もまた、非常に多くの記録に残されている。
曰く、若年のみぎりより非常に多くの教本を後世に残し、実質的に現代の普賢一刀流の基礎を作り上げた人物であるとか。また別の書物には、若くして東方最強と謳われ、当時の領主からは並ぶ者なしと称えられた人物であるとも記されている。……そして最期には、仕えた巳の国にさえ剣を向け、戦場を闊歩し、気紛れに人を斬り捨てる剣鬼と成り果てた、とも……その伝承に語られる人物像を思えば、いつ何時こちらに斬りかかってきても不思議ではない。
「大事ない……」
その氷のような表情を少しも変えることなく、男は答える。
「お前たちは無事か」
そして、男はシグレとアルドの二人に目を向けた。敵意や警戒の色は薄い。それが、いつでもお前たちを斬れるという余裕から来るものなのか、はたまた本気でこちらに敵意がないのか、シグレは未だ計りかねていた。アルドが疑いの目を向けないのは当然だ。彼は、タケルという人間について何も知らないのだから。
「ああ、なんとかな」
「それは重畳」
わずかに、その薄い唇が緩む。そこからこぼれた言葉の穏やかさは、張り詰めていた緊張の糸を緩めるに十分であった。シグレは思わず問うていた。
「……普賢一刀流のタケル様、なのか」
知っているのか、とアルドが目線で問う。知っているも何もない。シグレにとって彼は先祖──とはいっても、同じ剣を受け継ぐ人間であると言うだけで、決して血縁にあるわけではないが──にあたる男である。とはいえ、ここでそんな説明をしても場を混乱させるだけだろう。シグレは黙って、タケルの返答を待った。
「如何にもおれは普賢一刀流のタケルだが。……俺は領主の類になった記憶はないが、なぜお前はおれをタケル様、などと呼ぶ? こそばゆくてかなわん」
それに、とタケルはシグレの装束を見て首を傾げた。
「……普賢一刀流の者か? お前のような者を、道場で見かけた記憶はないが」
「あ、ええと、これには深い理由があって」
アルドもようやく、断片的ながら状況を察したのだろう。理由を説明しようと口を開こうとしたのと同時、タケルが「まあよい」とあっさり遮った。
「どうせ義父上が、どこぞの戦場で拾って鍛えたのだろう」
「タケル殿、わたしの恩人にその物言いはあんまりかと」
苦笑した少女に咎められ、タケルはそれもそうか、とばつが悪そうに顔を顰めた。口が悪いのは、彼の性分なのかもしれない。
「サクラの助太刀に入ってくれたこと、感謝する」
「わたしからも感謝を。まさかあれだけの魔物に囲まれるとは思っていなかったのだ。貴殿らが来なければ、命を落としていただろう」
サクラと呼ばれた少女もまた、畏まった顔でそう続けた。その声、その顔、まさしくイザナで相対した女のものだ。しかしその澄んだ双眸に、あの凄絶な殺気はない。隠しているようにも見えない。どういうことだ、と、シグレは、そして恐らくはアルドもまた、心のうちで首を捻る。
「それにしてもよくここがわかりましたね、タケル殿」
「アズサが、な……こんなところをほっつき歩くなどどういうつもりだ。近頃は魔物も増えているというのに」
「……そうですね。ご心配をおかけしました。万が一にも、わたしが命を落とす訳にはゆきませんよね」
「……サクラ」
タケルの声に嗜めるような色が滲んだのは、一行の気のせいではないだろう。
「そろそろ、道場に戻ります。それではタケル殿、また後程。皆様も……ご縁があれば」
そう言ってサクラは踵を返し、紅葉街道の方角へと姿を消した。その背中を見送るタケルが疲れたように溜息をついたのは、如何なる理由あってのことか。アルドが口火を切る。
「何か思い詰めているみたいだったけど」
「そうかもしれんな。あれはそういう女だ」
「良かったら、話を聞かせてくれないか。オレたちも何か力になれるかもしれない」
「まあ、隠していることでもないが……」
タケルは口元に薄い苦笑を浮かべて、困ったように言った。
「おれは近く、サクラを殺さねばならないのだ」
アルドたちが「現代」と呼ぶ時代から、およそ数百年を遡った時代。
巳の国には、数多の剣の流派が存在した。古代から続く剣術、時代と戦の形に応じて編み出された剣術、敵を斬り伏せるためのありとあらゆる殺戮の技術が、まるで流れゆく川のように、生まれては消え、合流し、分かれて、東方のサムライたちに受け継がれていた。
だが、ある領主の一声によって、それは次々と命脈を立たれてゆくことになる。
「——弱き剣を滅ぼす」
「どういうことだ」
「細々と流れる川がいくら散在していたところで、巨大な一つの大河の流れには勝てん。ゆえにお館様は、あらゆる剣術を一つに束ねたいとお考えになった」
「……お館様ってつまり、巳の国の領主様ってことだよな。ゲンシン様の先祖ってことか?」
「ああ、今も昔もとんだ戯け者らしい。戦場で皆一様に同じ剣を振るっていたら、敵もそれに対応してくるだけではないか。あらゆる技を振るう、あらゆる剣士がいたほうが、俺はよほど強力だと思うが」
「お館様にも、お考えがあるのだろうよ。跡目争いか何かの方便に使われているのかもしれんし、隣国との取引があるのかもしれん。だが、それに異論を挟む権利はおれたちにはない。少なくともおれたち臣下は、そのお考えに従うことしかできん」
タケルが同情的な態度を示したのは、彼が巳の国の領主に仕える臣下の一人であるからだろうか。
「おれとサクラは、お互い別の道場の跡取りだ。お館様はおれと彼女に、殺し合いを命じられた」
「なっ……」
「勝てばそちらの流派が残る。互いの道場の存続を懸けて、絶対に負けることはできん」
あまりにも、愚かで理不尽な話である。口を挟まずにはいられなかったのか、アルドが声を上げた。
「だからって、おかしいんじゃないか? 勝ち負けを決めるところまでなら仕方ないとしも、どうしてわざわざ相手を殺さなきゃいけないんだよ」
「さあ、お館様なりの慈悲……とでも捉えるしかなかろう。本人がそう仰ったのだからな」
「ははは、巳の国の領主の下衆ぶりは先祖代々のものだったのだな」
「笑えないぞシグレ! ……それで、タケルとサクラはそれに納得してるのか?」
「しているものか。あれとは昔馴染みでな。斬るくらいなら国ごと斬り捨てたほうがましだ」
だが、と深い溜息混じりにタケルは言葉を次ぐ。
「サクラはおれを殺しても、自分が死んでも良いと思っておる」
「……ふむ」
タケルは道場の窓から、澄み渡った青い空を見上げた。数十羽もの烏が、街道の方から一斉に飛び立つのが見えた。
「おれは、強い」
その言葉は、確信と共に放たれたものだろう。先程、イナナリ高原で見せたあの剣。当世に並ぶ者などいない、いてたまるものかという絶技であった。畏怖されることもあったに違いない、尊崇や嫉妬を向けられることもあったに違いない、あれは、種類がどうであれ、余人に何かの感情を呼び起こすほど鮮烈な剣だ。シグレも、そして普賢一刀流とは関わりの希薄なアルドですらも、彼の言葉に異を唱えることはなかった。
「そして、あれも強い。……少し加減を誤れば、殺してしまうくらいにはな」
彼女がタケルを殺す気で刀を振るうのならば、タケルもまた相応の剣をもって迎え撃たねばならない。その時に加減ができるかと考えると、それは彼ほどの遣い手であっても困難なのだろう。
「……お互いに納得できる方法はないのか?」
「そんなものがあるならとうに提案しておるわ。おれもお館様に額を擦り付けて頼みさえした。だが……」
タケルが領主に平伏し、頭を畳に擦り付けて、どうか殺し合いだけは、と頼んで、帰ってきたのが先ほどの言葉だ。──これは慈悲である。サムライとしての矜持を貫くがよい。
「とんだ下衆もいたものだ。流石はあのゲンシンの先祖よ。おおかた、好き合う男女を引き裂くのは実にわし好みじゃ、などと言ったのではないか?」
「………………」
「そんな言葉に耳を傾ける必要はござらん」
「……ただおれひとりに死ねと仰っているのなら、抵抗もできよう、死を選ぶこともできよう。だがおれの行動次第では、親方様が普賢一刀流の——あるいは飛鷹奉天流の——道場に兵を差し向けるもことあるだろう」
「それは……」
「おれは強い。だが、一人の武勇というのは、数十数百といった命を守れるようなものではない」
浅いため息と共に、タケルは唇の端を歪めて苦い笑みを浮かべた。その、見ようによっては尊大とも言えるような性格とは少し離れた、諦念と、疲れとの滲んだ顔だ。
「それに、おれとて数百という同胞を平気な顔で斬り捨てられるほどの悪鬼にはなりきれん。それにサクラは、すべてを承知の上で、この戦いにサムライの誇りを見出しているのだから。それを傷つけることは、してはならない」
決然とした口調であった。悩み抜いた末に出した答えだというのがわからないほど、アルドたちも鈍くはなかった。
「要は、勝負に決着がつけられない状況にすればいいんだろ? 殺したように見せかける、とか」
「そうだな、仮にそんなことができれば──」
……その時である。タケルの言葉を遮るように、道場の入り口から、バタバタという足音が聞こえてきた。
「タケル! すぐに来てくれ!」
「何事だ、騒々しい」
慌ただしく駆け込んできたのは袴姿の若者たち──普賢一刀流の門弟であろう。
「化け物がっ……街道に、猫の化け物が!」
「!」
猫の化け物。その言葉に、アルドとシグレは同時に顔を見合わせた。自分たちは、まさしくそれを追ってきたのだ。二人のただならぬ様子を察してか、二人にタケルは視線で問う。
「……詳しい話は向かいながらする! 今は、その化け物を退治しに行こう!」
「……成程。それで、おまえたちはその化け物を追ってきたと」
奇妙なこともあるものだ、とタケルは笑う。
「驚かぬのですね。違う時代から来たと告げても」
「阿呆、驚いておるわ。ただ状況が状況なのでな」
しかし、とタケルはわずかに思案の息を漏らす。
「その女は、サクラの顔をして飛鷹奉天流を名乗り、そして化け物へと変じたと……」
「ああ、奴を放っておくわけにはいかない。俺たちで倒さないと!」
「……ふむ」
タケルはそれ以上、何も言わなかった。ただ、その様子を見るに何か思い当たる節があるのは間違いないだろう。シグレがどういうことかと問い質そうとするのと、「それ」が藪の中から転がるように飛び出してきたのとは、ほとんど同時であった。
袴姿の男だ。肩口を手酷く抉られている。タケルは咄嗟にその傍に膝をつくと、倒れ伏したその体を抱き起こした。
「タケル様……」
「口を開くな。件の化け物だな」
タケルの問いに、男は首肯する。言われてみれば、傷口は獣の鋭い爪で引き裂かれたような形状をしていた。
「すぐに医者に連れてゆかねば」
焦るシグレを、傷ついた男が制する。
「……早く、あの化け物を」
「だが」
「構うな、アルド、シグレ。此奴は、何としてでも奴を止めよと言っておるのだ」
傷ついた男が、安心したようにふっと笑う。それは、必ず仕留めてくれるはずだ、というタケルの腕への信頼ゆえか。
「その化け物とやらの正体は知らんが、奴がサクラの姿を借りて普賢一刀流への怨嗟を叫ぶのであれば──それは、おれが断つべき業なのだろうよ」
静かな、しかし固い意志を顔に滲ませて立ち上がったこの男が、なぜ剣鬼へと成り果てたなどと言われたのだろう。己の祖たる男の背を前にして、シグレの胸中にそんな疑問が過った。
それは正しく大怪異、大地を揺るがし怨嗟を叫ぶ、悍ましい姿の巨獣であった。白い毛皮は誰のものとも知れぬ血に濡れて、濁った瞳で挑戦者たちを見下ろしている。
──普賢一刀流、この程度のものか。
怪異は、無造作に前肢を振るう。児戯のようなものだ。それでも尋常ならざる膂力によって幾人もの人間が吹き飛び、倒れてゆく。高く笑う女の声が、紅葉の舞う街道にこだました。
だが怪異は、振るった前肢にふと目を落とす。一筋、しかし深々と、傷が刻まれているではないか。足元のちっぽけな掃き溜めを見やる。タケルは、何もかもを理解したと言わんばかりの涼しい顔で、怪異を見上げていた。
「本当に大丈夫なのか、タケル」
「フン、おれを心配する余力があるなら身を守っておれ」
アルドの言葉に、不敵な笑みを漏らして見せると、彼は刀を正眼に構えた。
「……ああ、その剣、その構え、その顔!」
獣が吠え猛る。どす黒く鮮烈な、憎悪を叫ぶ。その殺気はびりびりと空気を震わせ、氷の礫のように頬を切り裂いた。
「貴様さえ──貴様さえ、いなければ!」
「生憎と、おれに化け物の知己はおらん。名乗れ」
「貴様らに名乗る名など持たぬ!」
鋭い爪が、無造作に佇んだままのタケルの喉元を狙う。それはまさしく、大太刀の一閃にも相当しようという重い一撃だ。不味い。咄嗟にシグレは走り出しつつ鯉口を切るが──。
「我が裔よ、目に焼き付けておけ」
タケルはニヤリと唇の端を歪めて笑った。かと思えば、無造作に握ったままの刀を素早く下段に構える。怪物の鋭い爪はまるで死の具現だ。それでもなお、タケルは迫る死を恐れることなく立つ。
瞬間、雷が天へと昇った。
何が起きたのか、他の者たちには、否、他ならぬタケルと、間近に見たシグレ以外には理解さえ及ばなかったことだろう。
実に、実に見事な、斬り上げの一閃であった。憎い仇の命を刈り取ろうとする爪を、いとも容易く根元から斬り捨てたのだ。
「な──」
「普賢一刀流、免許皆伝──タケル、参る」
タケルは地を蹴って、痛みによろめく敵との距離を一気に詰めた。獣の目に浮かんだ憎悪は困惑に、やがて怒りに変わる。
その剣撃に、シグレは見惚れた。歴史に名を残す剣豪とだけはある、と、素直に感嘆した。敵の武器を心ごと砕く雷光の如き剛剣は、幼い日にナグシャムで見た、剣舞のように華麗ですらあった。煌めく鋼が空を裂けば血の色が舞い、白い毛皮に赤い傷跡を残していく──。
そして、異形の獣が振り上げるべき爪も牙も失った頃、タケルは徐に獣の喉に刀の先を突きつけた。
「ようやく大人しくなったな。では聞くが、何故、おれを、普賢一刀流を恨む」
「知れたこと……貴様らが、誇りを汚したからだ」
「まあ、おれは誇りだとかその手のものが元々嫌いでな。だが他者の誇りまで、いたずらに踏み躙るべきではないと理解はしている」
「ならば──」
獣の双眸に滲んだのは怒りと、憎悪と、そして──悲しみか。
「なぜ、彼女を殺さなかった!」
獣が吼えた……その時である。タケルと獣の前に割って入る影があった。大太刀を負った、小柄な少女である。
「……サクラ」
「タケル殿、彼女を斬っては駄目……」
「何故」
「それは──」
サクラの足元から、首輪の鈴を鳴らしてひょこひょこと一匹の猫が現れる。その姿に、アルドとシグレは目を疑った。
「あの猫……まさか……」
二又に分かれた尾。白い毛並み。魔力の類は感じないが、おそらく紅葉街道で見た、イザナで戦った、そして今まさに満身創痍となっている、あの猫ではないか。
「アズサを、許してあげてください」
……アズサ。
そう呼ばれて、異形の獣が小さく呻く。まるで子猫のように。
「其奴はうちの門弟を幾人も傷つけた」
「責任ならば、わたしが」
「そういう問題ではない。血の味を覚えた手負いの獣など、往来に辻斬りを立たせておくのと変わらん」
「……ですが」
言い淀むサクラに、タケルははっきりと告げる。
「過去と未来の、巳の国すべての民のために、斬らねばならん。退け、サクラ」
返す言葉も見つからず、だがそれでも何かを訴えようと一歩前に踏み込んだサクラの背後から──彼女の長い髪を舞い上げるようにぶわりと突風が起こった。
獣の巨体を呑み込む、青い光。アルドたちがここへ来た時と同じ『穴』が、そこにはあった。困惑するサクラたちを追い抜き、咄嗟にアルドとシグレは穴へと走り寄る。
「……アズサは」
「きっと元の時代に戻ったんだ。オレたちの時代に」
「その穴に飛び込めば、おれたちもそちらの時代へ行けるのか」
「あまり勧めないけどな。帰ってこられる保証はないし……」
「……そうか、それは困る」
小さくため息を吐いて、タケルは懐に手を遣った。中を探って小さな巾着袋を取り出し、シグレの前に差し出す。サクラの足元で、アズサと呼ばれた白い猫が巾着を見上げた。
「煮干しだ。アズサの好物でな」
「……なぜ、それを俺に?」
タケルは笑い、それを困惑するシグレの手に握らせる。
「お前ならば斬れる。普賢一刀流を、継ぐ者なのだから」
「ですが、なぜこれを」
彼は、青い光の中を見遣った。
「……きっと、腹を空かせているだろうからな」
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