第30話 不思議な好感
藤堂は端正な横顔を崩さないままに、さらっと言った。
「……武田観柳斎です」
タケダカンリュウサイ、とはなんだろう……と美弥はきょとんとして藤堂を見た。美弥の耳には、踊りや琴か何かの流儀のように響いた。
「幕末の新撰組の五番隊組長です。最期は新撰組の中でも一、二を争う剣の使い手の三番隊組長・斎藤
まあ……その武田にそっくりです、あきれるほどに。上にはどこまでも媚びへつらい、下には徹底的に傲慢で居丈高。どこかに斎藤一はいないかなって時々思うんですよ。少なくともボクの周りであの人のことを良く言う人間は一人もいない――。だから奥さんが今みたいな考えになるのも無理はないと思います。
ああ……、申し訳ないです。いくらなんでも、あけすけに言い過ぎました」
「いえ、教えてほしいとお願いしたのは私ですから……」
斎藤一なら、かろうじて知っていた。同時に、斎藤一ならここにいます――と言いたかった。もちろん物理的に殺しはしないが……。
「やっぱり会社でも、そういう人間なんですね……。倉重との事は出会いから今に至るまで誰にも相談した事がなかったんで、誰かに聞いてもらいたかったのかもしれません。お休みの日に、ご自宅まで押しかけて申し訳ありませんでした」
そう言って、美弥は頭を下げ、立ち上がった――。
せっかくの休日に嫌いな上司の妻の人生相談で、これ以上時間をとらせるのは気の毒だ。
美弥はそう思ったのだが、藤堂は意外なことを言った。
「奥さん、おなか減ってませんか? メシ食べにいきましょう、すぐそこの王将に。王将でメシくってるところを仮に誰かに見られても不倫とは思われないでしょ」そう言って笑った。
はたと気付いたが、藤堂宅に押しかける緊張で、お昼を抜いてきから確かに空腹ではあった。
それと倉重についてサラリーマンには望みがたい正直な言葉で伝えてくれ、美弥に異性としての興味を全く示さなかった藤堂に不思議な好感を抱いていた。迷惑でないのなら、もう少し話してみたい――。
美弥は「せひ――」と答えた。
駅前の王将まで、ぎこちない距離で並んで歩いた。
美弥は天津飯と餃子を頼んだ。おいしかった。かつて倉重と食べたコースよりもずっと。そして、具なし天津飯をおいしそうに食べた優里の姿が脳裏をかすめた――。
藤堂は、中華丼と唐揚げに餃子を食べながら、ビールを飲んだ。見ていて気持ちいいほどの食べっぷりだ。
「いつも食事はどうされてるんですか?」美弥は思わず聞いた。
「ああ……適当に食って帰ったり、コンビニなんかで済ませます」
「お金かかりません?」
藤堂は激しくウンウンと頷きながら「ほんとそれなんですよ。朝、昼、晩、それに酒代やら何やらエンゲル係数高すぎです……」と言って笑った。「結婚する気もないんで、料理も覚えないとって思ってるんですけどね……。めんどくさくなって、まっいいか……の繰り返しです」
引く手あまただろうに結婚願望がないのか……時代なのかもしれない――と美弥は思った。
「奥さんは料理、得意なんですか?」藤堂が聞く。
「得意ではないですけど……好きは好きです。お金をかけない料理しか知らなかったんで、倉重には貧乏くさいと言われましたけど……」美弥がそう言うと、
藤堂は「あの人は顔が貧乏くさい」と真顔で言った――。
天津飯を口に運びかけた美弥が動きをとめ、笑いをこらえていると、藤堂が「我慢しないでいいですよ」と言った。
そして一呼吸置いて、二人同時に笑い合った―――。
支払いの際、美弥がいくら払うといっても、「どのみちエンゲル係数高いですから」と藤堂は、さもおかしそうに言ってご馳走してくれた。
駅まで送ってくれた藤堂に、丁寧にもろもろの礼を言い、美弥は歩き出した。
「奥さん――」
呼ばれて、美弥は振り返った。
「いや……なんていうか世の中ロクでもないです。ほんとに……。なんですけど、幕末志士の高杉晋作がこんなこと言ってます。
――おもしろき 事もなき世を おもしろく――」
藤堂はそう言って、白い歯を見せて笑った。
励ましてくれているのだろう―――。
美弥はもう一度、深く頭を下げ、駅への階段を下りた。
これでいい、来週中には家を出よう――そう思った。
藤堂は、美弥のその後ろ姿が消えるまでずっと見守っていた――。
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