3,未来の見えない僕ら

「よりにもよって、店で一番高いコーヒーを飲み逃げするなんて……」


 午後七時。閉店作業をしながら、ソンミンはまだそのことを言っている。

 彼があのあと店の周囲を探し回ったが、結局和装男子は見つかっていなかった。


「一番高いっていってもたかだか数百円だよ」


 レジの売上金額を確認しながら詩が応じる。

 今日は久しぶりに目標金額に届いたかと思ったのに、その数百円のせいで一歩足らなかった。このことはソンミンには言わないでおく。


「1円だろうと泥棒は泥棒です!」


 ソンミンの怒りは収まらないようだ。


「お金、払い忘れただけかもしれないよ? 思い出したらきっと払いに来てくれる」

「そんなこと本っ気で思ってるんですか!? てんちょー、人がよすぎますよ~……」


 それはよく言われることで、詩としては否定のしようがない。


「そうかもしれないね。でもさ……」


 売上金を金庫に入れ、ふうっと息をつく。


「正直に生きてればちゃんと神さまが見てくれてるよ。そのうちいいことある」


 そして金庫を手に奥へ行こうとした時だった。

近所の飲み屋から流れてきた客が、シャッターを下ろそうとしていたソンミンに話しかける。


「コーヒー飲みたくなっちまったな。兄ちゃん、コーヒーひとつ!」

「すみません、うちは7時までなんです」


 怒りモードから戻れずにいたソンミンの口調にはとげがあった。


「まだ7時3分じゃないか」

「7時過ぎてるじゃないですか」


 表から聞こえてくる二人の声色に、詩は嫌な予感を覚えた。

 このままではトラブルになってしまう。そう感じ、金庫を置いて飛び出していく。

 酔っ払いらしき男は開襟シャツにワークパンツというラフな格好で、風貌も少し柄が悪そうに見えた。

 詩はソンミンをかばうようにして前に立つ。


「お客さま、どうかなさいましたか? 僕が店長の立花です」

「あんたが店長? へえ、あんたみたいなワカゾーに経営がわかるのかよ。バイトもパクだかボクだか知らんが外国人だし。どうせ若者相手のテキトーな店なんだろ」


 男がアルコールの匂いのする息を吐きながら、ソンミンの名札を指で弾いた。


「アナタ! 僕の悪口なら聞きますが、店長と店の悪口は許しません!」


 ソンミンが男に詰め寄ろうとして、詩が慌ててそれを押し留める。


「ミンくん、金庫片付けてきてくれない?」

「えっ、店長?」

「コーヒーがお好きでしたら、ぜひ今度お越しください。営業時間は平日の朝7時から夜7時です。コーヒーは季節にもよりますが、常時10種類ほどご用意しています」


 男には、エプロンのポケットから出した割引券付きのチラシを差し出した。


「10種類?」

「ええ、10種類」


 男は詩の笑顔に気勢を削がれたようだった。


「へえ……」


 詩がにこっと笑ってみせると、男はチラシを見ながら駅の方へと去っていく。

 その背中を見送り、ソンミンがあきれ顔で言った。


「なんであんな人に割引券あげたんですか……。また来られてもトラブルになるに決まってます」


 詩は小声で伝える。


「多分来ないと思うよ? あの人、ばつが悪そうにしてたから。僕たちに怒っちゃって恥ずかしいと思ってる」

「えーっ、そんな殊勝なこと考えるタイプには見えませんでしたよ?」

「人は見た目じゃないから」


 そんなふうに答えながらも、詩の語尾は曖昧なニュアンスになってしまう。

 和装男子がコーヒー代を払いにくるのか、今の酔っ払いが割引券を使いに来るのかなんて未来の見えない人間には知りようがなかった。


 そんな時だった。


「食い逃げだー! 捕まえてくれ!」


 近所の飲み屋から男が飛び出してくる。

 叫んでいるのは詩の顔なじみであるその店の店主だ。


「食い逃げ!?」

「詩くん、頼む!」

「わっ、わかりました!」


 返事をした瞬間、詩の目の前を駆け抜けた男のうち一人は、なんとあの和装男子だった。


「ああーッ、無銭飲食の人!」


 ソンミンが指さして叫んだ。


「ほらー! やっぱり泥棒だったじゃないですか!」


 男を追って駆け出しながら、ソンミンが横目に苦情を言ってくる。

 詩はそんなソンミンの肩をつかんだ。


「その話はあとでっ、ミンくんは金庫よろしく!」

「ああっ、そうでした!」


 飲み屋の店主に頼まれたからには、詩は食い逃げ犯を追いかけなければならないが、開けっ放しの店に金庫を放置したままというわけにもいかない。

 詩は邪魔なエプロンを脱ぎ捨て、調布銀座を全速力で駆け抜けた。

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