第217話 新府城にて(後編)
「戯れだ。許せ」
「……色葉様の言葉は心の臓に悪うございますぞ。このようなことが他の諸将の耳に入りでもしたら、これ幸いと排斥されかねませぬ」
「む? そうなのか?」
何でそうなるのだ、と小首を傾げると、答えたのは雪葉だった。
「……昌幸様は、家中にあっても姫様の信厚き臣でありますれば、妬み嫉みを一身にお受けなのですよ」
「よくわからんぞ?」
どういう理屈でそうなるのだろう。
第一、昌幸はつい先日まで武田家臣であったわけだから、わたしの側近ですら無い。
それにわたしが贔屓しているとするならば、貞宗あたりがもっともその対象として適当だろうに。
この前だって鈴鹿が持ってきた茶器をそのままやったりしたから、ずいぶん他の家臣どもから羨ましがられていたはずなのだが。
「姫様は時々とても無頓着ですね」
「それがしもそう思いますぞ。やれやれ……」
何だか責められているようで、でも思い当たる節もなく、わたしは不満げに頬を膨らませた。
その顔を見て、雪葉が苦笑して話してくれる。
「朝倉家にあって、姫様が側近として信を置く方は幾人かおられます。ですが、その方々は皆……むしろ家中にあっては同情されているのです」
「同情?」
「はい。例えば貞宗様などは、如何にも苦労人という雰囲気がにじみ出ておりますし、事実、もっとも姫様の我が儘をお聞きになっておられる方です」
我が儘って。
「……具体的には?」
「時折、お召し物のお着替えを手伝わせるのは如何なものかと」
「む……」
今では雪葉や乙葉、華渓などが、わたしの身の回りの世話はほとんどやってくれる。
が、雪葉と出会うまではそういった者もいなかったので、貞宗にさせていたのだ。
なので今でもあまり抵抗無く、つい命じてしまうのである。
特に今回の遠征で、雪葉が傍にいなかった時にはあれこれと貞宗にさせていたような。
「みんな知っているのか?」
「それはもう」
そうなのか。
でも大したこととも思えないぞ……?
「なんでそれで貞宗の奴が同情されるんだ?」
「大日方殿は世にも恐ろしきことを為して、よくも命無事でいられるものだと、みなに同情されていましたぞ」
何なんだ、それは。
昌幸の捕捉説明に、わたしは首を傾げるばかりである。
「他にも姉小路頼綱殿なども、この前の上洛の際には色葉様にこき使われ、加えて宿舎まで同じに変えられた挙句、雑用全般を仰せつかったとか。まこと、ご苦労されたことでしょう」
「そんなこともあったかな」
「つまりそういうことです」
「いや、納得できないぞ」
「して下さい」
「むぅ……」
まあ、どうにか理解するとするならば、わたしに近い臣どもはその分、わたしにこき使われているわけで、その寵愛を妬まれる前に苦労を同情されている、というわけか。
「じゃあどうして昌幸は羨望されるんだ?」
「それがしの家と朝倉家は縁続き。それだけでも色葉様の寵愛とみることができましょう。加えて朝倉領である飛騨一国を与えられる破格ぶり。他家の家臣であるにも関わらず、です」
「なるほど」
確かに異例の存在ではあるかもしれない。
「だが自分で言うのも何だが、わたしもお前にそれなりに無理難題を押し付けてきたような気もするが」
「まったくです」
「なんだと?」
「い、いえ……。たしかにそのようなこともありましたが、それがしはほとんど飛騨におってのことでありますし、あまり朝倉家ではそのようなことは明らかにはならないのです」
実際には昌幸も貞宗や頼綱同様、色々とこき使ってきたのであるが、あまりそれが知られていない、ということか。
それでさっきの話に戻る、というわけである。
「ならわかった。これからは皆の前でこき使えばいいわけだな?」
「そういう発想は是非ともよしていただきたいところですが……」
「早速だ。疲れたから抱っこしろ」
「むむ……」
わたしの要求に、顔を引きつらせる昌幸。
「……色葉様はそれがしに何か恨みでもございますのか」
「ん? そんなものあるわけないだろう」
「な、ならば是非とも撤回して頂きたく」
「嫌だ」
「むむむ」
「お前をからかうのは楽しいからな」
実際楽しかったので、自然と笑みがこぼれてしまう。
「ゆ、雪葉殿。貴殿からも何か言ってはくれまいか」
「……昌幸様。これは姫様のご下命。お受けされるがよろしいかと」
普段なら助け船を出す雪葉は、今日に限ってはわたしを支持してくれた。
珍しいこともあるものである。
調子に乗ったわたしはにんまりと笑い、更に昌幸を追い詰めてやる。
「何をしている。早く抱き上げろ」
「ご、ご無体な」
「何が無体なものか」
「……雪葉殿。お恨み申し上げますぞ……」
恨みがましくそう言われ、雪葉も困ったような顔になった。
多少、葛藤するところがあったような、そんな感じである。
「……どのような類の笑みであれ、久しぶりに姫様が笑われたのです。今この瞬間においては、それを守りたく思いますゆえ」
「む、むぅ」
何やら含みのある言い方ではあるが、それでも今回の雪葉はわたしの味方であり、これでは昌幸に逃げ道などありようはずもない。
「ほら、ほら」
子供が親に対してそうするように、抱っこをねだる素振りをみせてやれば、昌幸もついに観念して抱き上げてくれたのだった。
力強いが慎重に、細心の注意を払って昌幸はわたしを抱き上げる。
いわゆるお姫様抱っこ、というやつだ。
「ついでに耳を撫でろ。優しくだぞ?」
「……ご要望が多ございますな」
「これが気持ちいいんだ。早くしろ」
普段は雪葉にしてもらっているが、それ以外の者ではなかなかしてくれる者はいない。
貞宗ですらさすがに辞退してくるので、そういう意味では昌幸はなかなかの強者であるのかもしれない。
「昌幸、評価を上げたぞ?」
「この場合、素直に喜べませんな……」
素直じゃない奴である。
「いいか、しばらく、このままで……いろ」
律儀にわしわしと耳を撫でてくる昌幸へと、本当に気持ちよくなってきたわたしはついうとうとしてしまう。
瞼が重くなり、それが完全に閉じてしまうまでに、さほどの時間はかからなかった。
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