第117話 混迷の上洛戦


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「信長が動いたか」


 織田勢による急襲の報せは、すぐにも本陣の朝倉景鏡の元にももたらされた。

 けたたましい銃声が夜間にこれだけ響けば、変事はすぐにも伝わるというものである。


「敵は鉄砲による一斉射撃を行ってきており、こちらも応戦していますが、なにぶん夜分ということもあって、敵の動きは掴めておりませぬ」


 堀江景実の言葉に、景鏡は考え込む。

 景鏡はかつて朝倉義景に仕えていた時代、総大将として度々信長と戦った経験がある。


 直接会ったのは今回の上洛を含めて二回のみであるが、しかし戦の仕方からその性情はそれなりに知り得ているつもりだった。


「ただの威嚇射撃、示威行為、とは思えぬな」

「と、仰せられますと?」

「こんな夜間に無謀ではあるが、渡河してくるぞ」

「では、真っ直ぐにこの本陣に」


 景実がそう思ったのは、かつての桶狭間のことを知っていたからでもある。

 あの時信長は、今川義元本陣を急襲してこれを討ち、大軍を撃退するに至っている。


「信長の気質ならばあり得ようが、それはこの際どうでも良い。色葉の計略に則るならば、どこを攻められようとも攻められた所は陣を退く手筈になっておる。せいぜい慌てふためいて、混乱を演出し、敵を渡河させる」

「それでは下手をすれば潰走しかねませんぞ?」

「信長を京から引き離せるのならば、それでも構わない、ということだ」


 信長が渡河に至った場合はこれを引き込み、極力深追いさせて洛中から引き離す。

 その隙に色葉や連龍の手勢が二条城を攻める。


 信長がそれに気づいて引き返すならば、その後背を討つ。

 これは信長が先手を打ってきた際の、対応策として色葉が事前に景鏡に言い含めていった戦術の一つであった。


 もっとも言うほど簡単ではない。

 信長の渡河攻撃が早ければ朝倉方の連携がうまくいかず、各個撃破の可能性も大きい。

 というよりも色葉曰く、信長が渡河攻撃に討って出た場合は間違いなく各個撃破を狙ったものであるはずであると。


「わざわざ夜を選んだというよりは、選ばざるを得なかった、と考えるべきだろう。つまり友軍が京に迫っていることは間違いない。となれば信長としては短期決戦を、我々としては逆に足止めに徹することが、戦略上での目的であり、勝利条件になる、ということだ」

「我らは敢えて敵を渡河させた上で、長期戦にもつれ込ませる、ということですな」

「うむ」

「かしこまりました。なかなかに難しい戦になりましょうが、やるしかありませんな」


 覚悟を決めたように、景実は頷く。


「それと景実、色葉の使者として乙葉殿が来ているだろう? 乙葉殿に頼んで色葉へと信長が動いたことを急報するよう、要請せよ」

「はっ」


 乙葉にしろ雪葉にしろ、その表向きの立場は色葉の侍女でしかないのであるが、その実は裏も表も知り得た色葉の側近であり、朝倉家中にそのことを知らない者はいない。


 普段は貞淑を装っている乙葉であるが、戦場に出れば鬼の如く暴れまわることも有名で、景実もまた同じ戦場に立ったこともある。

 特に朝倉方が大敗した神通川の戦いにおいて、追撃する上杉勢を迎え撃ったのが景実であり、その時乙葉はこれに合流して共に戦った経緯があった。


 その時の乙葉は重傷を負い、あわやというところまで追い詰められたものの、景実がこれを助けて命を救ったこともあったのである。

 そのためか、乙葉は比較的景実のことを気に入っているようで、色葉から離れて活動している際は景実の元にいることが少なくない。


 今回もそうで、景鏡の元には護衛として雪葉がいたため、尚更に乙葉は距離を置いて景実の所にいたのである。


「雪葉殿は長殿の所に使者に出す。事は一刻を争う。急げ」

「ははっ」


 こうして夜の乱戦の中、乙葉は急ぎ大原にまで軍を進めていた色葉の元へと向かい、雪葉もまた京に向けて南進していた長連龍の元へと急行した。


 この桂川原の戦いにおいて、京を守る織田勢は約三万。

 朝倉勢は二万余で、後詰を担った荒木勢は約五千。


 戦闘は織田方より仕掛けられて開始。


 鉄砲の応酬の中、急襲を予想した朝倉勢はかねてからの色葉の指示通り、足止めを第一とした臨戦態勢を取った。

 実際に信長自らによる渡河攻撃が敢行されたものの、織田勢は朝倉主力を攻撃するかにみせかけてこれを迂回し、後詰の荒木勢へと襲い掛かったのである。


 これは色葉の策が裏目に出た形となり、受けることを想定していた朝倉勢の対応は遅れた。

 また後方にいた荒木勢も虚を突かれ、この奇襲は見事に成功した。


 この時荒木勢を率いていたのは、村重本人ではなく花隈城主であった荒木元清である。

 織田勢は信長自ら率いたこともあって士気高く、不意打ちとなった荒木勢は抵抗虚しく敗退。


 後詰である荒木勢が急襲され、敗れたことは朝倉方にとっても予想外の展開であり、慌てた朝倉勢は朝倉景鏡自ら荒木勢への救援に向かうことになるが、時すでに遅く、勢いに乗った織田勢に散々に打ち破られる結果となった。

 これは明智勢もまた渡河攻撃を敢行し、朝倉方の姉小路勢を足止めしたことが、功を奏したといえる。


 しかし一方で、松永久秀率いる松永勢は機転を利かせ、逆に対岸の織田勢に対して渡河攻撃を実施。

 これが織田勢にそれなりの損害を与えたことや、渡河されたことを急報により知った信長への引き潮の効果となり、織田勢は速やかに転進する。


 久秀もまた長居は無用とばかりに兵を退き、夜が白む頃には両軍は陣を退くに至った。

 松永勢による咄嗟の判断により壊滅を免れた朝倉主力ではあったものの、朝倉方の敗北は疑いようも無く、この第二次桂川原の戦いは織田方の勝利で幕を閉じたのである。


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 勝利した織田勢ではあったものの、それを率いる織田信長に安堵や余裕の表情は無かった。

 信長が危惧したように、悪い知らせが飛び込んできたからである。

 それは朝倉勢の別動隊が京の北より襲来し、二条城を囲んだというものだ。


 この二条城は天正四年に公家である二条家の邸宅を信長が譲り受けて、自らの京滞在の時の宿所とするために改修させたものである。

 以降、信長はここで居住することになったが、この年の秋には皇太子である誠仁親王に献上する予定となっていた城館であった。


 そのため信長はすでに宿所を本能寺に移し、親王の移住の準備が進められていたのである。

 この二条城は京の中でも防御力に優れた城館であり、ここを落とされることは当然信長にとっては都合が悪い。


 織田勢は脇目も振らずに進軍。

 予想以上に朝倉勢の進攻が早かったことが信長を焦らせたことも、結果的には織田勢の不運でもあった。


 いや、もっと朝倉勢の進攻が早ければ信長はいったん諦め、京からの撤退も考えたかもしれない。

 またもっと遅ければ、迎撃の態勢を十二分にとれていたかもしれない。

 この微妙な時機こそが、信長を泥沼の死闘に誘うことになったのである。


 天正七年七月。


 二条城に向けて進軍する織田勢は、その道中にて長連龍勢の奇襲を受け、朝倉・織田両軍の戦いは市街戦により開始された。

 世に云う、押小路烏丸殿の戦いである。

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