第99話 織田鈴鹿(前編)
◇
着替えをすませ、信長が待つ部屋へと入ると、そこには二人の男女が待っていた。
一人は四十代の男で、これが信長だろう。
精悍といえばそんな様で、なるほどそれらしい雰囲気を持ち合わせている。
そしてもう一人の女は――
「――お前!?」
開口一番、思わず叫んでしまっていた。
さてどう猫を被ろうだとか、そんな計算は全て吹き飛んでいる。
信長の横に座していた女は、絶世の美女といっても差し支えの無い容姿をしていたが、初めて目にするものではなかった。
一度飛騨で会ったことのある女。
「これはこれは色葉様。ご無沙汰しておりました。まさかこのような場所で再会できるとは思っておりませんでしたので、嬉しく思いますわ」
非の打ち所の無い完璧な一礼をして、その女――鈴鹿はぬけぬけとそう挨拶してきたのである。
「――――」
「ほう、やはり見知った仲のようだな」
わたしは何も答えられず、その尻尾やら耳やらは逆立ってしまってどうしようもなかったが、必死になって冷静になろうと心掛け、ようやくその尻尾がゆっくりと床についた。
飛騨で出会った時、わたしでは決して敵わないと思った相手である。
その正体は鬼であろうが、今はその妖気を片鱗もみせてはいない。
あれからわたしの力は大いに上がったものの、上杉謙信との戦いで瀕死の重傷を負い、そのせいもあってわたしの妖気はこの女に出会った頃の水準にまで戻ってしまっている。
もちろん、単純にあの頃とは比較できないが、非常に厄介な相手であることには違いない。
それが、どうして織田信長と一緒にいるというのか。
「どうされた? まずは座られよ。そなたが朝倉色葉殿で相違あるまい?」
「…………」
くそ。
余裕ありげだな。
どういう事情だかは知らないが、この女一人連れて入れば、それこそ軽く千の兵に匹敵するだろう。
こちらには雪葉のみ。
乙葉が傍にいれば、まだ何とかなったかもしれないが……。
ええい、ままよ!
「いかにもわたしが朝倉色葉だ。このような夜分に急に押しかけて来るとは、織田信長とは礼を知らないらしい」
半ば開き直ったわたしは、何一つ取り繕うことなく素のままでいくことにし、無遠慮に座り込んでやった。
「ああ、許せ。この者が是非に会いたいとせがむのでな。このような時刻になったという次第だ」
「ふふ……そういうわけですの、色葉様。お許し下さいね?」
「ふん。わたしは名乗ったぞ。二人とも名乗ったらどうだ?」
どうにか気圧されないように気を張りつつ、わたしはぞんざいに言う。
そんな物言いに信長は気を悪くした様子も無く、それもそうだと頷いた。
「織田信長だ」
「織田鈴鹿、ですわ」
「なに……?」
またもや驚かされた。
織田鈴鹿と名乗ったのかこの女は。
それはつまり――
「これは俺の娘ということになっている」
娘……?
この鬼女が?
信長の娘?
――おい、アカシア!
『記録に該当する子弟はおりません』
アカシアの即答に、わたしは小さく唸る。
どうやら史実とは違う――もしくは史書には残らなかった事実が、目の前にあるらしい。
アカシアから得られる知識は、あくまで現代――今から言えば未来だが――に残った歴史書に拠るものである。
つまり、当時の事柄を正確に伝えているとは限らないのだ。
全く伝わっていないこともあれば、真実は一般に俗説と呼ばれる類の方であることも、当然あり得る。
ああ……そうか。
そこで不意にわたしは思い出していた。
かつて貞宗は鈴鹿のことを、鈴鹿山にいたという伝説の鈴鹿御前であると言っていた。
その正体は、鬼だの女神だとの天女だの、あるいは第六天魔王であるとか様々に伝わっている。
そして織田信長の渾名は第六天魔王。
つまり後世にはこのような形でのみ伝わった、ということだろうか。
しかし娘というのは何なんだ。
さすがに聞いてないぞ、と叫びたい気分である。
「ちなみに色葉殿は義景の娘であったと聞くが、まことか?」
――こいつ。
鈴鹿とわたしは飛騨で会っており、その時の鈴鹿は古山城での噂を聞きつけて立ち寄ったと言っていた。
ついでに言えば、わたしが白川郷を奪取する原因になったのは、間違いなく鈴鹿である。
となれば、わたしが朝倉義景の娘でない可能性くらい、気づいていることだろう。
もっとも馬鹿正直に答えてやる義理も無いが。
「信じるも信じないも好きにすればいい。どうせ朝倉義景はすでに滅びている。今のわたしの父は、朝倉景鏡だからな」
「景鏡は養父だったな。しかし景鏡は義景を殺しているというのに、よく景鏡を父と呼べるものだ」
「その朝倉義景を滅ぼした直接の原因はお前だろうに、よく言う」
「それも然りか」
詮無いことを聞いたとばかりに、信長は話題を変えた。
「しかし噂通り、見事な尻尾であるな? やはりひとではないのか」
「この尻尾を褒めたことについては素直に感謝しよう。わたしがひとであるかどうかは、それこそ好きに判断すればいい」
「ふむ……何やらつれない返答ばかりであるな。折角のその容姿だ。微笑でも拵えた方が映えるであろうに」
「これは生まれつきの性格によるものだ。気に入らないのなら帰ってもらってもいいぞ?」
隣に化け物である鈴鹿を従えている以上、のんびりと会話をする余裕が無いのは確かである。
それにこんな緊張感も久しぶりだ。
それだけに、その女が怖いという証拠でもあったけど。
「どうやらそなたを連れてくるべきではなかったな? 色葉殿はよくそなたのことを知っているようで、ずいぶん警戒されておる。今からでもいいから帰れ」
「殿……そのような非道なことをおっしゃらないで下さいな。せっかくこうして数年ぶりにお会いできたのですから、わたくしは是非とも語り合いたいのです」
「――と、言っておるがどうかな?」
御免被る、というのが正直な気持ちであるが、それを許してくれるような相手でもないだろう。
むしろこの機に色々と探った方が得策か。
「いいだろう。わたしも聞きたいことがある」
「よし。ならばまずは二人で語らうがいい。俺は……そうだな。頼綱がおったようだから、しばらくはあいつと碁でも打って待つことにしよう」
そう一方的に告げた信長は、答えも待たずに立ち上がり、部屋を出ていってしまった。
何というか、さばさばとした男である。
ともあれ、これでこの部屋には危険極まりない、目の前の女とわたしの二人きりになったというわけだ。
「で、何の用だ?」
「つれないお言葉ですわね?」
「ふん。飛騨でのことを忘れたわけじゃないだろうな?」
睨んでそう言えば、何のことでしょう? とばかりに小首を傾げる鈴鹿。
まるで本気で忘れているかのような仕草に、イラっとなる。
「……内ヶ島の連中に密告して、わたしたちを襲わせただろう」
半眼になって言ってやれば、ああ、と鈴鹿は頷いた。
「そんなこともありましたわね」
罪悪感の欠片もみせないその様子に、わたしの尻尾は不穏げに動きはしたが、我慢もした。
この女は強い。
わたしであったとしても、見下す対象でしかないのだろうから。
「ですがとても驚きましたわ。あの時の色葉様が、今や朝倉の姫君とは……。あの頃の色葉様よりずっとお綺麗になられて、しかもお強くなられているご様子。とても素敵ですわね」
……こいつ。
「別に姿形はあの頃から変わっていないだろうに」
何気ない口調にそう答えつつも、一方でわたしは思考を巡らせていた。
鈴鹿はわたしに対し、強くなった、とそう指摘した。
単純な妖気だけであるのならば、今のわたしの力は減退しており、あの頃とさほど変わらない。
乙葉や雪葉の方が強いくらいだ。
それでもあの二人と例え戦うことになったとしても、わたしの方が勝るという自信があった。
それは乙葉が寄越してくれた、上杉謙信の魂を得ていたからである。
つまり、毘沙門天に由来する力。
妖気としては反映されない一方で、これまで扱えなかった神通力の類を扱えるようになったのである。
これは妖気とは相性が悪い。しかしアカシアがいたこともあって、これがわたしの妖気に馴染むよう時間をかけて解析しつつ、魂に定着させてくれているのだ。
未だ完全ではないものの、八割方は扱えるようになっていた。
そしてこれは、乙葉やわたしも経験済ではあるが、とにかく妖の類に対して効果が高い。
恐らく、目の前の鈴鹿にも十分通用する力だろう。
しかし通用はするが、まだまだ勝てるとは思えない。
地力が違うからだ。
これを底上げするにはせっせと魂を食べる必要があるのだけど、件の魂を解析・定着中のために、それの邪魔になるとかで、できずにいる。
せっかく越後に出張ってわたし自ら戦場に立ち、魂をかき集めたというのに、今のところ使用できずにいるのだ。
だからあともう少し時があれば、こんな女にでかい顔をされずにすむのだけど……。
「そういうお前も変わっていない。それに何なんだ? どうして織田家に当たり前のような顔をして居座っている」
「ですから殿が申されたように、わたくしは殿の娘ですので」
「信じるとでも思うのか? お前は鈴鹿山の鬼だろうが」
そう言ってやれば、鈴鹿がくすりと笑んでみせた。
肯定らしい。
「となると、今から八百年は昔のことだろう。それが今更何をやっているんだ」
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