第26話 信濃巫(前編)
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「そうだ。いったん谷を封鎖しろ。上城戸もだ。侵入者は一人とは限らん。動ける者は私に続け。色葉様の元に向かう!」
谷の警戒態勢を整え、人員を配置し、万全とした上で貞宗は色葉の向かった下城戸へと急いだ。
普段は尊大で冷酷で無慈悲な主ではあるものの、家臣に対しては不思議なくらいその責任を果たそうとする傾向がある――少なくとも貞宗はそう思っていた。
自身も脅迫され、否応なく色葉に仕えることになった身の上であるが、不思議なことに悪い主でもなかったような気がするのだ。
ただの思い上がりかもしれないが、色葉が貞宗のことを一番厚く遇していることは、嫌でも伝わってくる。
家臣が増えたことで、相対的にその印象は尚更だった。
それが不思議でならない。
一番初め、貞宗は色葉のことを問答無用で殺そうとしたし、実際に矢を放ち、心の臓に命中させている。
結果、配下は皆殺しにされ、自身も殺されるところを何の気紛れか奴隷として扱われることで、辛うじて死なずにすんだだけである。
それは今でも続いている。
そしていつの間にか、目の離せない存在になりつつあった。
「何の因果か……。こうしてあの方のために万事整えるようなことをすることこそ、ひとの世への裏切りなのかもしれないが」
こうやって骸の兵を指揮し、率いているのは何の皮肉かとも思わないでもないが、色葉なりのこれが意趣返しであるのならば、まあそれも良いだろう。
複雑な葛藤は時折今も沸き起こるが、それも後だ。
貞宗は集まってきた骸兵を率い、下城戸に向かって急行した。
/色葉
どれほど繰り返したか分からない。
その攻防の中で、わたしはいい加減認めることにした。
お前は強い。
わたしよりもずっと。
振り下ろした刃が、あるは掴もうと伸ばした指先が、爪が届かない度に、思い知らされる。
案外自分は弱かったのだと。
だから最初は苛立った。
もどかしかった。
しかしそのうちに、気づく。
最後はわたしが勝つと。
少しずつ、女の動きが捉えられるようになってくる。
僅かとはいえ、かすり傷を負わせることができている。
一方で、これまで百発百中だった女の攻撃が、二回に一回、あるいは三回に一回と、その頻度を下げている。
一つは単純な体力や、生命力の問題。
それらは明らかに、わたしの方が圧倒的だ。
そしてもう一つは――恐らく女も気づいていることだろう。
わたしが少しずつ、強くなっていることに。
経験は、やはり力だ。
一撃必殺ならばどうにもならないが、女の攻撃はどれも軽い。
わたしを殺しきることはできない。
ならば最後は――わたしの勝ちだろう。
そう気づいた時点で、愉しくなってきた。
知らず笑みが浮かぶ。
それはもう、邪悪な笑みだろう。
そうして、その瞬間はやってきたのだ。
「っ……」
どす、と音がして、女の直刀がわたしの心の臓を貫いていた。
さすがにこの場所は他とは違い、その痛みは尋常ではない。
それどころか一気に脱力感に襲われる。
このまま放っておけば、いつかのように意識を手放すことになるだろう。
それは僅かな時間のことかもしれないが、この女を前にしては致命だ。確実に敗北する。
でも、踏みとどまることができたのなら?
答えは簡単だ。
わたしの勝ちになるだろう。
「つかまえた」
倒れそうになりながら、わたしは懐に入り込んでいた女の両腕を引っ掴む。
「ふふ……あはははは。これ、詰みだろう……?」
「くっ……!」
血塗れになりながら、わたしは笑った。
それは凄絶なものだったのだろう。
女がさすがに表情を変えた。
「あなた、まだ――?」
「まずはこの腕、握り潰してやる」
女の抵抗など意に介さず、その細腕にじわじわと力を込めていく。
ミシミシと軋みだす女の腕。
同時に潰すつもりが、利き手の方がやはり力が籠っていたようで、最初に砕けたのは女の左腕だった。
「っあ……!」
それでも大声で悲鳴を上げなかったのは褒めてやる。
でも、いつまで我慢できるのか……愉しみで仕方がない。
さらに左腕に力を込めようとしたところで、何かが飛来してそれを邪魔してくれた。
鋭い痛みが肩に走る。
矢だ。
突き刺さりはしていなかったものの、かすめた肩口からは血がにじみ出している。
これ、は――……。
そうこうしているうちにもう一本。
それはわたしではなく、目の前の女の肩に深々と突き刺さり、命中していた。
完全に不意をつかれたせいか、女には苦悶の表情が浮かぶ。
さらにもう一本。
今度はわたしを狙ったもの。
しかしこれは不意でも何でもなく、しかも遅い一射だった。
わたしは女から手を放すと振り返り、飛来する矢を掴み取る。
その視線の先には予想通り、弓を構えた貞宗の姿があった。
「……どういうつもりだ?」
手の中で矢をへし折りながら、貞宗を睨みつける。
解放された女が慌てて間合いをとったが、追いはしない。
「ご無礼を、色葉様。しかしこうでもしなくては、そちらの方が色葉様に殺されてしまうと見受けましたので」
「…………。つまり、この女に味方した、というわけか」
声が冷たくなるのが分かる。
もし貞宗が手の届く範囲にいたならば、即座に縊り殺していたかもしれない。
それくらい、苛立ちが心中に沸き起こってくる。
「そうではありませぬ。しかし……そのお身体を傷つけた罪は、後程如何様にも」
「後、だと? 今殺してやるぞ?」
「……ならば致し方ありますまい」
観念したように、貞宗は弓を放り投げる。
ふうん、いい度胸だ。
なら望み通りに――そう、思ったその時だった。
「――やっと、お会いできました……!」
「っ?」
何かが、抱き着いてきたのである。
さすがに驚いた。
それは今まで死体だと思っていた少女であり、ちょうど足元に転がっていたのである。
それが身を起こし、足に抱き着いてきたのだ。
「お……な、いや……?」
しかもこの少女、とんでもなく冷たい。
抱き着かれた――というか、縋り付かれた足から、得も言われぬ寒気が全身を駆け抜ける。
それが、冷や水のように、わたしを冷静にさせてくれた。
興奮が、収まっていく。
逆立っていた尻尾が元に戻り、落ち着いて地面に触れた頃にはもう、ある程度我に返っていたといっていいだろう。
……冷たいけど。
「おい――離せ。蹴り殺すぞ?」
「いや、です……! せっかく、ここまで来て、お会い、できたのですから……」
息も絶え絶え、といった様子のくせに、必至に縋り付いて離れない。
相手が自分よりも年下の少女と認めた時点で、手を出す気にはなれなくなっていた。
「……貞宗」
「――は」
「こいつを引き離せ。それでさっきのことは――不問には付さないが、弁明なら聞いてやる」
「と、申されましても……」
困ったような顔になる貞宗。
使えない男である。
溜息をついたわたしは、ともすれば強引に、少女を抱きかかえた。
引き剥がされるとでも思ったのか少女は嫌々するが、知ったことではない。
腕の中で暴れる少女を、改めてまじまじとのぞき込んでみる。
青みがかった黒髪に、白装束。
氷でも抱えているかのような、冷たさ。
その胸には大きく切り裂かれた痕があったが、血の類は出ていない。
出血は無いようであるが、その存在力はひどく低下しているようで、重傷には違いないようだった。
「ひと、じゃないな」
『雪の精の類かと思われます』
落ち着いたらしいアカシアが、いつもの口調で補足してくれる。
「雪の精……?」
「まさか、雪ん子ですか?」
「雪ん子?」
貞宗が言うのは何やら可愛らしい名前である。
「何だそれは?」
「この越前では越娘ともいうらしいですが……いわゆる雪女のことです」
雪女。
なるほど。
あっさりと得心がいった。
妙に冷たいわけである。
「その雪女がどうして――って。死ん……ではいないか」
その雪ん子とやらはわたしにしっかりしがみついたまま、意識を失っていた。
『放っておけば消滅すると推察致します』
「そうだな」
わたしでもそれくらいは分かる。
しかしこんなものを抱きかかえたまま、さてどうしたものかと視線を巡らした。
そこには先ほどまでわたしと死闘を演じた女がいる。
別段油断していたわけでもないので、今までずっと牽制はしていたのだけど……片腕を砕かれ、また矢で射られたことで、さすがにこれ以上の戦闘は不可能と悟ったらしい。
逃走の機会を伺っていたのかもしれないが、そんなことを許すつもりもない。
しっかりと殺すつもりだった。
ただ――冷静になったことで、どうして貞宗がその邪魔をしたのか、確認する必要もあったけれど。
「貞宗、言いたいことがあるのなら言え。わたしはあの女を殺したくして仕方がないんだ。あまり、我慢させるな」
「は……しからば」
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