第50話 獅子身中の虫

「ウツロが、負けた……?」


 真田龍子さなだ りょうこが絶句する。


 ウツロは敗北した。


 勝利した氷潟夕真ひがた ゆうまは、地面に横たわる毒虫の戦士を、冷たいまなざしで見下ろしている。


「あはは、な~んだ。けっこうなチートだと思ってたのに、ふたを開けてみればたいしたことないじゃん。そんなんでよくパパに勝てたよね? ふふっ、見なよ真田さん、あの無様なかっこう。まさに負け犬だよね。あ、負け毒虫か。ぷふっ、きゃはははははははっ!」


 刀子朱利かたなご しゅりの罵倒は止まりそうにない。


「ウツロ……」


 真田龍子は涙を漏らした。


 ウツロの姿がもとに戻っていく。


 ボロクズのようになって白目をむく彼がそこにあった。


「ウツロっ――!」


 真田龍子は駆け寄ろうとしたが、刀子朱利に制止された。


「ダメよ、真田さん。彼は生け捕りにしてこいって命令されてるんだ。知ってるんでしょ、わたしたちのことは? わたしたちのご主人さまは、ウツロにあいたがってるんだよ。殺さずに連行してこいってことだね。ま、わたしとしては正直不服だけどさ」


「まさか、組織……」


「そ。この国を実質的に支配している組織、その総帥閣下からのお達しなんだよ。真田さん、あなたもいっしょに来てもらうよ? よかったね、彼氏に同伴できてさ?」


「それって、どういう……」


「あなたが持つ治癒の能力。この間はその力に煮え湯を飲まされたわけだけど、組織としても気になっているんだよ。利用する価値があるんじゃないかってね。いずれにせよ、あなたもウツロくんも、楽しい場所ってことにはならないから。ふふっ、その辺は覚悟しておいてね?」


「そん、な……」


 真田龍子は絶望した。


 いったいこれから、どんなことが待っているというのか?


 それを考えると、気が遠くなってくるかのようだった。


 世界がゆがんでいく。


 彼女は茫然としながら、動かないウツロを見つめていた。


「ぐっ……」


「夕真?」


 やにわに氷潟夕真がうめき声を漏らした。


「う、ぐ、あ……」


「ちょっと夕真、どうしたの!?」


 刀子朱利がたじろいでいる間にも、彼は体をかかえて地面へと倒れこんでいく。


「う、ぐう……」


 ひざをついて苦しみ喘いでいる。


「夕真、何よ? いったいなんだっていうのよ!?」


 刀子朱利は驚いてそばへ近寄った。


「おえ――」


 口から吐瀉物をぶちまける。


「な……」


 それを目にした刀子朱利は仰天した。


 アリ。


 人間の指先ほどもあろうかという、毒々しい色合いのアリ。


 その大群がうぞうぞとうごめいている。


「う――」


 そのあまりのおぞましさに、彼女も思わず戻しそうになった。


「これは確か、マラブンタ……アマゾンの奥地に潜んでいるという人喰いアリ……ウツロのやつ、いつの間にこんなものを……」


 アリが内臓を食い破る。


 気の触れそうな激痛に、氷潟夕真はもだえ苦しんだ。


「が、あ……」


 彼の姿もまた、人間のそれへと戻っていく。


「ぐ、が……」


 首や胸もと、腹部をかきむしりながら、地獄の苦しみをひたすら味合わせられる。


 刀子朱利はその光景に恐々とした。


「まさに獅子身中の虫……ウツロのやつ、ただではやられてくれないってわけだ。まったく、すごい執念だよね」


 ああいうタイプは土壇場で強い。


 かつて氷潟夕真が言い放ったセリフを、彼女は思い出した。


 そして同時に、皮肉にもそれを受けているのが彼自身であることに、複雑な感覚がわき上がった。


「ちょっと、どいて――!」


「真田さん……?」


 真田龍子が割って入り、氷潟夕真の体に触れた。


「ちょっと、なにする気!?」


「治すんだよ! このままじゃ死んじゃう!」


「治す、ですって……?」


 彼女の体が光を帯びはじめる。


 そしてその光は潟夕真を包み込んだ。


「何、考えてんの……? それ、意味わかってやってんの……?」


 刀子朱利はわけがわからなかった。


 自分が何をされたのか理解できていないのか?


 これだけのことをされたというのに……


 ましてやすぐそこに、気を失っているウツロもいるのに。


 さっぱりわからない……


 なんなんだ?


 いったい、なんなんだ?


 この真田龍子という女は……


 そんなことを悶々と考えていた。


「ふう、ふう……」


 氷潟夕真が呼吸を取り戻していく。


 体内のアリは姿を消し、傷つけられた箇所も再生していった。


「はあ、はあっ……」


「大丈夫? 氷潟くん」


「ふっ、ふっ……」


 まだ苦しみはあったが、すぐ前とは比較にならないほど楽になった。


 意識もだいぶ回復してきて、彼も刀子朱利と同様、この少女がなぜこんなことをしたのか、まったく理解できずにいた。


「真田、どうして、助けた……?」


 彼は目の前の少女を見つめた。


 そこにはかすかな、しかし決然とした笑顔があった。


「さあ、わたしにも、わかんない……」


 それは本心だった。


 真田龍子の本心がそうさせた行動だったのだ。


 よきにつけ悪しきにつけ、仏のような慈悲の心が、そうさせたのだ。


 二人はしばらくの間、見つめ合っていた。


「ふん、吐き気がする。真田さん、あんたやっぱりムカつくわ。わたしが一番嫌いなタイプだよ。さあ夕真、この二人を早いとこ閣下のところへ――」


 刀子朱利が言いかけたとき。


「お~い、佐伯さえき~。そこにいるのか~?」


 聖川清人ひじりかわ きよと


 彼らとはクラスメイトの学級委員長。


 その声がこちらへ近づいてくる。


「ちっ、聖川か、なんでこんなときに。しかたがない、夕真、ここはいったん引くよっ――!」


「ん……」


 刀子朱利は無理やり氷潟夕真を起こすと、自分の肩を貸し、旧校舎の塀の向こうへジャンプして姿を消した。


「ウツロっ――!」


 真田龍子は急いで、ウツロにも治癒の能力を施した。


 制服こそボロボロのままだったが、少なくとも見た目の傷はだいぶ癒やすことができた。


「お~い、あれ、真田、なんでこんなとこに、って、おい……!」


 横たわるウツロを目撃した聖川清人は驚愕した。


「佐伯っ、大丈夫か!? 真田っ、いったい何があったんだ!?」


 彼は足早に二人のところへ寄ってきた。


「ああ、聖川……実は二人で旧校舎を見に行こうってなって、そこのモミの木を見つけたら、佐伯のやつ、木登りをはじめちゃってさ……」


 苦しすぎる言い訳だったが、真田龍子は必死で場を取り繕おうとした。


「で、落っこちたっていうのか?」


「ああ、うん、そうなんだ……ねえ聖川、お願いなんだけど、保健室までいっしょに運んでくれるかな? あそこに行けば、みやびもいると思うし……」


「あ、ああ。急がないと、佐伯に何か大事があったらたいへんだぞ」


「う、うん。じゃあ、頼むね……」


 真面目な聖川清人は、意外にもうまくだまされた。


 こうして二人はウツロを両サイドからかかえ、ゆっくりと保健室のほうへ向かった。


 ウツロ、真田龍子、刀子朱利、氷潟夕真、そして聖川清人。


 誰ひとりとして気がついてはいなかった。


 ことのあらましをすべて目撃していた、ひとつの影がその場に隠れていたことを――

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