隣のあなたに届けるために(連結版)

鈍感難聴系な僕にもわかるように、よく聞こえなかった言葉の意味を恥ずかしがりながらも丁寧に解説してくれる人造人間さん

 愛を伝える。

 基本的で、ありきたりなコミュニケーション。その大事さを知ったのは、彼と出逢ってからだった。


「おはよう?」


 声をかける。

 彼。

 聞こえていない。


 そっと、袖にふれて。ほんの少しだけ、引っ張る。


 彼。無表情だった顔が、こちらを向いて、少しだけ軟らかくなる。


「おはよう?」


 口を大きめに開けて。聴こえなくても、分かるようにはっきりと動かす。


「おはよう」


 彼の返答。そして、やさしい笑顔。


 さあ。

 学校に行こう。


 あなたと一緒に。



******



 基本的に、保健室にいる。


 体調が悪いとか、クラスに馴染めないとかではない。

 単純に、この学校で取るべき単位を取りきったから。出席もする必要がなかったけど、なんとなく学校には来ていた。

 保健室には、ベッドがある。一日中、寝転がって暮らせる。先生も、私が何をしていてもとがめない。


「あ。彼が来たわ」


 学校の駐車場。なんか無骨で主張していないけどかっこいい車が停まった。


「先生。デート?」


「そう。デート。貴重な休みよ」


「へえ」


「私がいない間、保健室頼めるかしら?」


「まあ、いいですけど」


 救護関連や教職免許も、あらかた取っている。諸々の才能はあった。

 ただ、やる気だけがない。


「じゃ、おねがいね」


 保健室の先生。口紅の塗り加減だけを確認して、窓から外に降りていった。


 別に、誰が来るというわけでもない。

 わたしひとり。

 ベッドに寝転んで、なんとなく、ぼうっとしてる。


 ノック音。


「はぁい」


 人が来た。めずらしい。


 扉が開く。


 見知らぬ男子生徒が立っている。


「どなた?」


 全校生徒の顔と名前は頭に入っていた。この男子生徒は、この学校の人間ではない。


 彼。周りを見渡して、きょろきょろしている。さっきの自分の声が、聞こえていないらしい。


「ここです。ここ」


 あらためて声をかける。

 反応があって、ベッドの方を彼が向く。


「ごめんなさい。もしかして、何度も声を」


 か細い声。


「いえ。そんなにでは」


「耳が聞こえないときがあるんです、ぼく」


 聴覚に異状ありか。


「転校してきた手続きとかですか?」


「あ、はい」


 彼。なんとなく、突っ立っている。

 しかたがないので、ベッドの隣に座るように促した。


 おとなしく座ってくる。


 ベッドサイドから、ノートとペンを取り出して。名前や学年などの具体的な事項を書くように促す。


 彼。おとなしく、それを記入する。


「書けました」


 小さな声。おそらく、自分の声にびっくりしないように声が自然と小さくなっているのだろう。


「あ、個人情報なので、それはわたし見れません。ノートを閉じてください」


 聴こえなかったときのために、身ぶり手振りを交えつつ喋る。伝わったらしい。彼がノートを閉じて、渡してくる。


 それに、メモ用紙で書き置きをして。


「はい。これで大丈夫です」


 聴こえなかったらしい。


「はい。これで大丈夫です」


 やはり、聴こえない。


 彼の袖に、ふれて。ほんのすこしだけ、引っ張った。彼が、気付く。


 もういちど、喋ろうと思ったけど。意味がない気がして。


 彼に向けて、にこっと、笑った。


 彼も。それを見て。やさしく、笑い返してくれた。


 それが、彼との出会いだった。


***


 帰り道。


 なんとなく、彼の笑顔のことを考えながら、歩いた。あの笑顔のやさしさは。軟らかさは。どこからくるのだろう。ときどき音が聴こえないという残酷さが編み出した、生き抜くためのコミュニケーション方法なのだろうか。


「ねえちゃん。学校帰りかい?」


 また来た。

 後ろに向かって、本気で回し蹴り。躱された。


「荒っぽいな。気が立ってんじゃねえの?」


 男。


「何度も言わせないで。わたしは、正義の味方になんて興味ないの。街の平和なんて、どうでもいいわ」


 よく、こんな感じで勧誘が来る。

 正義の味方。街の平和。能力を活かせる仕事。


 どうでもよかった。わたしの能力は、わたしのもの。使わないのもわたしの自由。


「ねえちゃん。頼むよ。最近人が足りてねえんだ」


「じゃあ、街なんかなくなってしまえばいい」


「そういうわけにはいかねえ。たくさんの人が住んで、たくさんの営みがあるんだ、この街には」


「こんな街。ミサイル一発で終わりよ」


「そう。ミサイルも飛んでくるかもしれん。沖合いの空母は行方不明だ。街の監視カメラには不具合が出ている。あんたの才能は、街に欠かせない」


「ないわよ。才能なんて」


 他の人より、ほんのすこし頭が良くて。ほんのすこし身体が動かせて。ほんのすこし心がしっかりしている。それだけ。わたしは普通。普通の人間。


「なあ。頼むよ」


「しつこいわね。殺すわよ」


 袖を掴まれた。

 振り払う。

 拳を突き込もうとして。

 かろうじて、ぶつかる直前で止めた。

 勧誘してきた男ではなく、保健室に来た男子生徒が立っている。


「おっと。俺はこれで失礼するよ」


 勧誘してきた男。立ち去る。


 彼と、わたしの。ふたりだけになった。


 とりあえず、突き出した拳を元に戻して。なんとなく、気まずい雰囲気だと、思った。訊かれただろうか。


 彼の顔を、見て。


 どきっとした。


 にこっと、やさしく笑っている。


「聞こえてた?」


 訊いてみる。


「聴こえてなかった。なんか大変そうだったから、つい」


「そう」


 男の勧誘を断るときの、わたしの顔。どんな表情をしていたのだろうか。


「一緒に。帰りませんか?」


 彼。小さな声。


「わたしのことは」


 断ろうとして。うつむきながら出したその言葉が、彼に届いていないのを、なんとなく理解した。


 せっかくだから。


 俯いた顔を上げて、笑顔で返す。


「一緒に帰りましょう。ぜひ」


***


 その日の夜。

 保健室の先生から、電話があった。


「デート、楽しかったですか?」


『楽しかったけど、最後まではいけなかったわ。彼に急用が入っちゃって』


「先生せっかく午後休取ったのに」


『しかたないわ。彼、正義の味方だから』


「正義の味方」


 愛よりも重要な、正義なんて。

 滅びて消え去ればいいのに。


『で、わたしがいないうちに。人が来たでしょ』


「ええ。ときどき耳が聞こえなくなる、不思議な男子がひとり」


『明日の朝も、迎えに行ってくれるかしら』


 住所と名前。とりあえずメモした。


「わかりました。でも、今日も普通に学校来ていたし、無理に付き添わなくてもいいんじゃないですか?」


『狙われているらしいのよ。あの子』


「狙われている?」


『うん。わたしは正義の味方じゃないから、分からないけれど。今日学校には、わたしの恋人の車で来たのよ』


 だから、先生と入れ違いに入ってきたのか。


『あなたに任せたいって、わたしの恋人が言っていたんだけど』


「そうですか」


『いやなら、やめてもいいのよ。あなたは正義の味方ではないし』


「いえ。やります。しばらく、付き添いを。どうせやることもないですし」


 それから、彼に付き添う日々が始まった。


 彼といると。

 心が、どこまでも安らいだ。

 喋って、それが聞こえなくても。彼の隣にいるだけで、なんとなく、心が落ち着いた。


 彼の笑顔のせいかも、しれない。彼の笑顔は、とにかくやさしくて、軟らかい。


 彼のことが、好きになった。


 そして、彼がわたしの近くにいる間。面倒だった正義の味方の勧誘も、姿を現さなくなった。


 彼のことを考える。

 普通に授業を受ける彼の隣にいて、分からなそうなところを教えてあげる。お昼には、一緒にごはんを食べる。彼は、お弁当を2つ作ってきてくれて。わたしに、くれた。美味しかった。


 ある日、ちょっとだけ気になって。ときどき耳が聴こえなくなるのに、料理をするのは危なくないのかと、訊いた。

 彼はにこっと笑って。この街に来てから、料理を教えてくれるひとが周りにたくさんいてくれたのだと、小さな声で囁いた。


 でも、彼はひとり暮らしのはずだった。わたしもひとり暮らしだから、なんとなく、分かる。住んでいる場所が近いのも、ひとり暮らしの人間が好んで住むマンションがたくさんある地帯だからのはず。


 彼の笑顔。

 それを見て、なんとなく。

 不安が、よぎった。


***


 いつものように、彼と帰ったあと。彼が部屋に入るのを見届けてから。


「いるんでしょ?」


 道端で止まって、声を出す。


「まさか、ねえちゃんと仲良くなるとは思わなかったな」


 男。彼が袖を掴んで助けてくれたときに勧誘してきたやつ。


「勘のいいねえちゃんのことだ。もう薄々気付いてるんだろ?」


 彼の笑顔。


「人を軟らかい気分にさせる、笑顔」


「そう。あの男の子の笑顔は、人を懐柔し、ありとあらゆる命令を可能にさせる。要するに、完璧なヒューマンエラーを起こすことができる」


「わたしは、操られてないわ」


「そうだな。俺も操られてない」


「ねえ。なんで男の変装なわけ?」


 勧誘してくる男は。女だった。


「完璧なヒューマンエラーに対処するためだな。あの子の警護も、それなりに面倒なんだ。自我を保つのがな。ぼうっとしてると、あの笑顔ですり抜けられちまう」


「それほどまでに」


 気付かなかった。


「ねえちゃん。あんたは、ヒューマンエラーを起こさない。分かってるんだろ」


「やめて」


 それだけは、言われたくなかった。


「あの男の子は、ある国に狙われている。条約改正とか戦争の仲裁とかに、あの子を同席させて無理矢理笑わせて有利な交渉をしようって話だ」


「なによ、それ」


 肚の底から。怒りが少しだけ顔をもたげた。


「官邸と街の意向が珍しく一致してな。あの男の子は、この街で普通に暮らさせたい。笑顔だけが特殊で、それ以外は普通の男の子だからな」


「でも、彼を狙う国が存在し続ける限り、彼は。安全にならない」


「だから今官邸が攻撃チームを組んでるんだけど、残念なことに人が足りない。いま、街は立て込んでてな。知ってんだろ?」


「知ってるわ」


 街は、電子機器の異常と空母の失踪、そしてミサイルの危機の渦中にいる。


「だから、しばらくでいい。あの子を、守ってほしい」


「違う」


「なにが?」


「違うわ。守っていてもらちが開かない」


 怒りがもたげるままに、覚悟を、決めた。


「わたしがその国を滅ぼしてくる。攻撃のための情報をよこして」


***


 国王がテロで暗殺された国。王制と民主政治の移行の過程で、一触即発の雰囲気。


「この国ね」


「そうだ」


 目の前。管区の総監と、知らない男性。街にいる正義の味方の顔は知っているが、この男は見たことがない。


「彼の笑顔を狙っているのは、民主制のほう。それも、最も民主政治に意欲的な組織だ」


 見知らぬ男が、組織についての説明を始める。


「人の笑顔を利用しようとするのは悪逆非道な行為だが、向こうは民主政治の上での要請を行ってきている分、たちがわるい。ようするに、正式な依頼なんだ」


「でも、そのせいで彼の笑顔が使われるのは。気にくわないわ」


「だから頼む。この民主制の組織を、穏便に始末してほしい」


 見知らぬ男が、頭を下げる。


「あなたは誰。さっきから、この国の事情に精通してるみたいだけど」


「彼は」


 総監が、口を挟む。


「国王だ。この国の」


「暗殺されたはずでしょ?」


「ややあって、暗殺が偽装されて、今はこの街の正義の味方のひとりさ」


「そうなの」


 なんでもよかった。


「分かったわ。この民主制の組織を、全員殺す」


「分かっているだろうが、穏便に、だぞ?」


「心を殺せば、足はつかないわ」


 ヒューマンエラーを起こさない自分に、ぴったりな仕事だった。


***


 仕事は、暗澹たるものだった。


 ぎりぎりの戦いを潜り抜けて、なんとか民主制の組織全員の心を殺した。これで、組織はただの民主制移行のための機械になる。


 最後は、腹と胸を撃たれたところでステルスヘリに拾われて国を出た。


「おいねえちゃん。生きてるか?」


 応急処置をしてくれる手。勧誘してきた人間だった。


「このまま街近くの村の病院に運ぶ。どんな傷も3日目で治る魔法の病院だ。だから、それまで耐えな」


「ごほっ」


 血を吐き出した。これで、喋れる。


「おい。喋ろうとするな」


「腹に弾が当たって。ちょっと、安心してるの」


「胸にも当たってるぞ。動脈が危ねえ」


「わたしも。ヒューマンエラー。起こすんだなって」


「ああ。そうだな。最初から完璧な人間なんていない」


「ちゃんと処置してよね」


「やってるよ。いま必死に。死なれたら、勧誘した俺の後味が悪い」


 かなり、血を失っている。視界が霞んできた。


「おねがいが、あるわ」


「あの子を呼べってんだろ。もう村の病院に待機してる。だから病院に着くまで必死で生きな」


「どれぐらいかかるの?」


 また、血を吐いた。視界。ぼやけたりはっきりしたりで、安定しない。


「もうすぐだ。もうすぐ。大丈夫。もうすぐ着く」


 せめて、もういちど。


 彼の笑顔を見てから。


 死にたい。


***


 袖を、軽くふれて。ほんのすこしだけ、引っ張られる、気がした。


「ねえ」


 声をかける。


「うん」


 彼の声。


「わたしね。言ってなかった、ことが。あるの。聞いてほしい」


「うん」


 彼の声。小さいけれど。聞こえる。


「わたしね。アーティフィシャルヒューマンなの。人が作った人間。たまたま試験管で生まれた」


「うん」


「見た目は人と変わらないけど。わたし。ヒューマンエラーを起こさないの。それがね。わたし。いやで」


「うん」


「普通の人間でいたくて、正義の味方とか、自分の能力を活かした仕事とか、したく、なくて」


 喋るのが、つらくなってきた。


 彼の応答。ない。


「わたしね。でも。あなたの笑顔が、見たくて。あなたのことが、好きで」


 聞こえなかったのか。


「わたし。あなたのためなら、なんでもできる。ヒューマンエラーもこわくない」


 それとも、わたしの耳が、聞こえなくなったのか。もう、目はずいぶん前から見えていない。


「わたしね。あなたのことが」


 好き。


 好きよ。


 聞こえているかしら。


 聞こえなかったら、聞こえるまで。


 何度でも言うわ。


 あなたが好き。


 好きだから。


 また、いつものように。


 笑ってほしいな。



******



 あなたと一緒に。

 学校に行こう。


 さあ。


「おはよう?」


 声をかける。

 彼。

 聞こえていない。


 そっと、袖にふれて。ほんの少しだけ、引っ張る。


 彼。無表情だった顔が、こちらを向いて、少しだけ軟らかくなる。


「おはよう?」


 口を大きめに開けて。聴こえなくても、分かるようにはっきりと動かす。


「おはよう」


 彼の返答。そして、やさしい笑顔。


 基本的で、ありきたりなコミュニケーション。その大事さを知ったのは、彼と出逢ってからだった。

 愛を伝える。


「退院。おめでとう」


「ありがとう。もうどこも痛くないし、大丈夫です」


「よかった」


「好きよ」


 返答を待つ。


 彼。笑顔。


「うん?」


「好き」


 彼。応答はなかったけど。


「大好き」


 顔が朱くなっているので。どうやら、伝わったらしい。


「ぼくもすき」


 返ってきた声は。小さいけど、やさしかった。

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