カナーリス 運河の町の〈外つ国人〉

文月 郁

第一部

第1話 薔薇屋敷の庭師

 秋の森。鮮やかに色づいた木の葉で彩られた木々の間を、ヒュー・グレインはやや急ぎ足で歩んでいた。

 色鮮やかな葉で着飾った梢をつたい食べ物を探す栗鼠りすが、落葉を踏みながら進むヒューに気付き、さっと影に隠れる。

 ヒューが目指していたのは、この森の中にひっそりと建つ廃墟だった。

 薔薇屋敷。その廃墟は、森の東にある運河の町・カナーリスの住民たちからそう呼ばれていた。

 この屋敷は、昔、王都に住んでいたある富豪が別邸として建てたものらしい。しかし、今では誰も住んでおらず、屋敷は荒れて朽ち果てている。

 だが、荒れ放題の屋敷とは逆に、屋敷の庭園には、呼び名の由来でもある薔薇をはじめとした花々が咲き誇っていた。

 この薔薇屋敷には、三年前から男が一人住んでいる。放置されてからは雑草がはびこっていた庭園が、かつての見栄えを取り戻したのは、この男のおかげだった。

 ヒューが今屋敷に向かっているのも、その男に用があるためである。

 道のところどころに残っている石畳を辿っていくと、屋敷の門扉が見えてきた。すでに、ふくいくたる花の香りがあたりに漂っている。

 庭には秋咲きの薔薇が咲き誇り、その他にも孔雀草、秋明菊、ダリアといった秋の花々が咲き乱れている。

 あまり花には興味のないヒューも、目の前に広がるこの光景には思わず足を止めた。

 見たところ、庭にはヒュー以外に人影はない。

(門は開いてたから、どこかにはいるんだろうけど……)

「ロスト!」

 こころみに呼んでみると、ひとむらの薔薇の向こうで動くものがあった。

 男が立ち上がり、ふりかえってヒューを認め、やあ、と笑いかける。

 唇が綻び、垂れ目がちの目が細められる。そうやって笑うと、男の印象はだいぶ柔らかなものになった。

 男は下ろしていれば背の中ほどまで届く黒い髪を、邪魔にならぬよう革紐でまとめ、灰色の丸襟のシャツと紺のズボン、園芸用の厚手のエプロンと長靴を身につけている。その上背はかなりのものだ。二メートル近くあるだろう。

 この男が、薔薇屋敷に住む庭師・ロストである。

 庭師といっても、ロストは人に雇われているわけではない。三年前にカナーリスに現れてから、この屋敷に住み、誰に頼まれたわけでもなく、庭の手入れをしていたのである。

 どうやらロストにはそのための知識が豊富にあるようで、彼が屋敷に住みだしてから手入れが充分行き届くようになった庭は、前にも増して美しくなったと評判だった。

 町から離れた場所で、一人で住んでいるといっても、ロストは決して人付き合いが悪いほうではない。むしろ彼は気の良いほうで、誰かが花のことで相談したいと言えばそれに乗り、また花のことでなくとも、よほど無理なことを言われなければ、彼は快く手を貸した。

 一見すると無口でとっつきづらく見えるロストだが、実際はそうでもないのだと、彼が町に現れて以来のつきあいのヒューにはわかっていた。

 ロストがとっつきづらく見えるのは、おそらくその表情のせいだろう。垂れ目がちなこともあって、ロストの面立ちは柔和なものではあるのだが、彼の顔にはいつも冷ややかに見える陰りがあり、緑がかった黒い目にも、暗い影が揺らいでいるのが見えるときがあった。

 剪定鋏をポケットにしまい、ロストは髪を下ろしてひと息ついた。

 ゆっくりと歩いてくる彼の左腕と両の膝から下は、金属の義肢で補われている。三年前、カナーリスに現れたときから、彼はこの姿だった。

 何があったのか、と、ヒューは以前、ロストに訊ねてみたことがある。ロストは苦笑して肩をすくめただけで、答えはしなかった。

 町に現れたとき、ロストはそれ以前のことを何ひとつ――自分の名前さえ――覚えていなかった。ロスト、という名も、本人が半ば自嘲的に名乗っているだけで、彼の本名ではなかった。

 三年の間に、いくらか思い出したこともあるようだったが、過去のことになると、ロストは途端に口が重くなった。

 そのため、ヒューがロストの過去を訊ねたのは一度きりで、それ以降、彼の過去に触れたことはなかった。

「どうした?」

 顔にひと筋かかる髪をうるさそうにはらいながら、ロストが訊ねる。

「これを届けに来たんだよ」

 ヒューは懐から手紙を取り出し、ロストに手渡した。受け取りつつ、ロストが首をかしげる。

「ルベンはどうした? 風邪でも引いたのか?」

「昨日、犬に噛みつかれてね、二、三日寝てなくちゃいけなくなったらしくて、薔薇屋敷に行くんならって、代わりに配達を頼まれたんだよ」

「そりゃ気の毒に」

 同情的に呟いたロストは、差出人――町長のオリカ・グローゼン――の名を見てぴくりと口の端をひきつらせた。

 そのまま、手紙をエプロンのポケットにおしこむ。

「読まねえの?」

 ヒューが帰ったあと、ロストのすぐ隣から不意に声がかかった。後ろだけ尾のように伸びた黒い髪に、褐色の肌をした少年が、赤い目でロストを見上げている。

「どうせいつもの後見の話だろ。人の気も知らないで、勝手なものだ」

 ロストの目に、ゆらりと影が揺らぐ。

「いっそ後見の話、受ければいいのに。もうずっと言われてるんだからさ」

「馬鹿を言え」

 ロストの語調が荒くなる。

「好きでここに来たんじゃないし、今だってとどまりたくてとどまってるわけでもない。そんなことは向こうだって、よく知ってるはずだろうに……」

「ならこれから俺が行って、いい加減にお前を家へ帰せって行ってきてやろうか」

「やめろ、イスディス」

 ぎろりと少年を睨んだロストの視線には、殺気に近いものがあった。しかしイスディスはけろりとして、冗談だよ、と返す。

「下手に目立つな、余計なことをするなって言いたいんだろ。そんなことわかってるよ。でも言いたくもなるってもんだろ、お前が何回聞いたって、まだだまだだってそればっかりなんだもの」

 門のほうへ駆けていく少年を眺め、ロストは小さくため息をついた。

(一応は読んでおくか)

 ポケットにつっこんだ手紙を取り出し、封を切る。

 予想したとおり、オリカからの手紙には、自分の後見を受けて町で暮らさないかと、何度も見た内容が書かれていた。

 ふん、と鼻を鳴らし、手紙を乱暴にポケットにおしこむ。

「全く、勝手なことを言ってくれる」

 呟いたロストのもとへ、別の影が近付く。

 尻尾をふりながらやってきた犬が、ひと声大きく吠えた。

「ん、どうした、ジュリー?」

 はたと我にかえり、笑って犬を招いたロストは、その金の毛を軽く撫でてやった。ジュリーに笑いかけるロストの表情は、それまでとうってかわって優しいものだった。

「さて、きりもいいし、散歩でも行くか」

 散歩、と聞いてジュリーがちぎれんばかりに尻尾をふる。

 まもなく、着替えたロストはリードを付けたジュリーを伴って町へと向かった。

 ジュリーは三年前、ロストが薔薇屋敷に住みはじめて間もないころ、傷だらけで迷いこんできた犬だった。もともとどこかで飼われていたのか、よく人に慣れた賢い犬で、今も、杖をつきながら歩くロストの歩調に合わせて、ぴたりと隣について歩いている。ロストが義足であることを、よく知っているかのように。

 運河の町、の所以ゆえんでもある町を二分するリエス運河の近くにある水場で、ロストは喉を潤すために足を止めた。

 石の柱に彫刻された獅子の口から、石の水盆へ冷たい水がそそがれている。こうした水場は、町のあちこちにあった。

 ロストが水を飲んでいる間、傍らにいたジュリーは、水盆から溢れた水で鼻面を濡らしている。

 それに気付いたロストはくつくつと笑いながら水気を拭ってやり、行くぞ、と声をかける。ジュリーもひと声鳴いて、主人に続いて歩きだした。

 リエス運河にかかる橋を渡っていたときだった。走ってくる足音を聞いてわきに退いたロストは、後ろから勢いよくつきあたられ、身体の平均を失って、つい二、三歩よろめいた。

「邪魔だ!」

 そう言い捨てて、ロストの横を、橙色の髪を刈りこんだ、レンジャー帯の制服を着た青年が行き過ぎようとする。

 橋の上にも、周辺にも人影はない。青年の行動を見ていた者は他にいなかった。

 青年に向かって、ロストが制止する前に、ジュリーが低く唸る。

 唸り声を聞きとがめ、青年がさっときびすをかえして戻ってくるなり、ジュリーを蹴りつけようとした。

 それを見てとって、素早くロストがジュリーの前に出る。青年の足は、ジュリーではなくロストの足を強く蹴った。

 先よりも大きくよろめいたものの、ロストはどうにかその場に踏みとどまった。

「邪魔だってのがわからないのかよ、この野郎!」

「お前が前を見ていればよかった話だろう。避ける場所はあるんだから」

 彫りの深い、整った顔を歪ませ、噛みつくように怒鳴る青年に、ロストは冷ややかに言葉を返した。

 この青年はローンバート・ソーンといい、町のレンジャー隊員の一人である。彼は町長のオリカから後見を受けており、オリカの気に入りでもあった。

 ローンバートには高慢なところがあり、他人を見下すような言動も少なくない。それで彼を嫌う者もいたが、町長のお気に入りということで、彼を取り巻く者も少なくなかった。

 いちレンジャー隊員にすぎないローンバートが、なぜ町長の後見を受けているのかといえば、その理由は彼の出自にあった。

 〈外つ国人〉。カナーリスの外、メルカタニト王国のそのまた外、この世界の外からの来訪者。他国では御伽噺の類と一笑に付されていた存在。

 かつて、この大陸は戦の舞台となっていた。大国がそれぞれ覇を競うなか、小国のメルカタニトはいつ攻められてもおかしくなかった。

 そんな状況のなかで、時の王が頼ったものこそ異世界、すなわち外つ国の知識だった。

 老若男女を問わず、魔術師、呪い師、魔とつくものをわずかでもかじった者を呼び集め、幾度も実験をくりかえし、召喚術を完成させた。

 そうして、その召喚術によって、これまで大勢の〈外つ国人〉がメルカタニトに呼び寄せられた。彼ら〈外つ国人〉がもたらした知識によって、メルカタニト王国は戦乱の時代を生きのびたのである。

 今でも定期的に〈外つ国人〉の召喚は行われており、召喚術も改良が続けられているという。

 それぞれの世界からメルカタニトへ召喚された〈外つ国人〉は、すぐに元の世界へ戻されることがほとんどだったが、中にはそれを拒む者や、何か不手際があって元の世界に戻れない者もいた。

 そういった者たちが、文化も習慣も違う異国でできる限り不自由なく暮らせるよう、考え出されたのが後見人制度だった。

 後見人となるのは貴族や富豪、その土地の名士などが主であった。

 また、〈外つ国人〉の後見人となることは、今のメルカタニトでは一種のステータスとなっている。それゆえ後見人となることを希望する者は多かった。召喚された〈外つ国人〉も、慣れない異国での衣食住の面倒を見てもらえるとあって、よほどのことがなければ、後見の申し出を断ることはなかった。

 つまり、ローンバートがオリカの後見を受けているのは、この制度を利用しているためであった。

「町に住んでもいないくせに、どの面下げて来やがった!」

「町に住んでなきゃ、外を歩いちゃならんってことはないだろう。言いがかりもたいがいにしろよ、ソーン」

 わずかに顔を歪め、ロストは正面切ってローンバートを睨みすえた。緑がかった黒い瞳には、ローンバートをたじろがせるほど冷たい光が宿っていた。

 ち、と舌打ちをして、ローンバートが忙しげに駆けていく。後悔するぞ、と吐き捨てて。

『ふん、狐野郎が』

 ロストが半ば口の中で低く毒づく。その言葉は、メルカタニトで使われているものとはまるで違っていた。

 足が止まったままの主人を不思議そうに見上げたジュリーが、ちょんちょんとその手をつつく。

「ああ、悪い。行こうか」

 ゆっくりと橋を渡り、住宅街を少し歩いたところで、庭の花壇の雑草を抜いていたネイ・スローンが、ロストに気付いて彼を呼び止めた。

 リファの花を植えたいが、どこに植えればいいかと相談され、ロストは庭を眺めつつしばらく考えて、日あたりの良い一角を指さした。

「あのあたりがいいだろうな」

「ありがとう。よかったらちょっと寄っていかない? 今朝ケーキを焼いたのよ」

「そうだな、いただこうか」

 母親の後を継いで仕立屋を営むネイの家の中は、彼女が作ったらしい明るい色のキルトの壁掛けで飾られている。

 ロストが通された居間の奥には小部屋があり、境のカーテンは今開かれていた。小部屋には濃茶のドレスを着せられたトルソーが置いてある。

 たっぷりとひだを取った長い裾と、細い首まわりには細かいレースが縫いつけられ、袖は形よく膨らんでいる。光沢のある生地が、柔らかく灯りを反射していた。

「それ、コルセーさんの娘さんのよ。来週のコンサートで着るんで頼まれたの」

「流石だな」

 ティーセットとフルーツケーキを運んできたネイが、得意げに胸をはる。

 話に出たデヴィッド・コルセーはカナーリスの商人で、主として宝飾品を扱っていた。他の町とも取引をしており、家にある金庫には金がうなっていると噂されている。

 そんな彼には十三になるリサという娘がおり、デヴィッドはこの娘を掌中の珠と慈しんで育てていた。

 確かにデヴィッドなら、娘のために衣装を新調するだろう。それが例え一晩限りの衣装でも。

「コンサート、あんたも来るのよね?」

 ネイの何気ない問いかけに、ロストはほんのわずか、まばたきひとつする程度の間だけ、表情を強張らせた。

「そうだな。都合が悪くならなきゃな。今年は講堂じゃないんだったか」

「ええ、講堂はまだ改装中だから、今年は公民館の下に舞台を作るんですって」

 そうだったな、とうなずいて、ロストがフルーツケーキを口に運ぶ。刻んだドライフルーツをたっぷりと混ぜこんだケーキは、口に入れるとほのかに洋酒の香りが鼻に抜けた。

 垂れ目がちの目が満足そうに細められ、ネイは彼がケーキを気に入ったことを察した。

「よかったら少し持って帰らない?」

「いいのか?」

「もちろん。一人じゃ食べきれないもの。そうだ、干し肉も少し余ってるから、一緒にどう?」

「もらうよ、ありがとう」

 やがて、ネイに送られて外に出たロストの腕には、フルーツケーキと干し肉の包みが下がっていた。

 あたりにはもう薄闇がおりはじめ、道端の街灯には灯がともっている。

 鈍い痛みが身体に走り、ロストは思わず顔をしかめて空を見た。

 黒い雲が、夜空を覆いつつある。

 雨になりそうだ、とロストは口の中で呟いた。

 雨は好きではない。花にとってはありがたいが、古傷が痛む。

 それから薔薇屋敷に帰ってくると、ロストは住まいにしている庭の隅の小屋――かつては雇われていた庭師が暮らしていたと思しい――から、火を入れた角灯を持ち出し、屋敷の門扉と小屋の入り口にそれぞれぶら下げた。

 門には門灯があり、小屋の入り口にもあかりはあったが、どちらも決められた言葉を唱えて中の魔石を光らせるもので、ロストはその言葉を知らなかった。

 だがもし知っていても、彼はそれを使わなかっただろう。魔法というものを、ロストはことのほか嫌っていた。魔法使いにいたっては、半ば憎悪していたと言ってもいい。

 そのため、ロストは町の雑貨屋で角灯を買い、それを門灯として使っていた。

「なんだ、帰ってたのか」

 頭に落葉を載せたイスディスが、ひょっこりと顔を出す。夕飯の準備にかかっていたロストは、ちらりとイスディスを見るなり目を尖らせた。

 イスディスの頭には、一対の曲がった角が生えていた。

 ロストはこのことを知っていた。そして、人外の証とも言えるこの角は決して人目にさらすなと、ロストはイスディスにきつく言いつけていた。

 一見すれば褐色の肌の少年としか見えないイスディスが、かつて自分と契約した妖霊だと、他人に知られたくなかったからである。

 咎める視線に、イスディスが肩をすくめる。

「森にいたんだ。心配するな、誰も見ちゃいないよ」

「……それならいいがな」

 そっけなく答え、ロストはフライパンを傾けて焼いていた卵を皿に滑り落とした。

 パンをひと切れと焼いた卵をテーブルに並べ、黙々と食べはじめたロストの向かいにイスディスが座り、じっとその顔を見つめる。

 はじめは無視していたロストだったが、イスディスの何か言いたげな目つきがどうにも気になり、ついに食事の手を止めた。

「何だ?」

「いつものことだけどさ、ずいぶんあっさり信用するんだな、俺のこと」

「こんなことで嘘をつくお前でもないだろう」

「よくご存知で」

 皮肉か嘆息か、どちらともとれる調子で言葉を返したイスディスは、そのまますっと姿を消した。少年が神出鬼没なのに慣れているロストは、眉ひとつ動かさず食事を続ける。

 ネイにもらったケーキも食べ、皿を洗っていたロストは、風の音を聞いて手を止めた。

 物置から風よけの覆いを出し、ぱらぱらと降ってきた雨のなか、ロストは慣れた手つきで花を囲っていく。

 痛む身体に顔をしかめながら、花を囲って小屋に戻る。ほとんど同時に、雨が激しく小屋の屋根を叩きはじめた。

 大きく息を吐いて、どさりと椅子に腰を下ろす。近付いてきたジュリーが、気遣うように小さく鳴いた。

 黄金きんの毛を、指先で軽く撫でる。

『いつまでここで暮らさなきゃならないんだろうな、なあ、ジュリー?』

 独り言がこぼれる。

 カナーリスに住む〈外つ国人〉は、何もローンバート一人ではない。ロストもまた、〈外つ国人〉だった。

 ローンバートは三年前、正規の手順で召喚された後、故郷へ戻ることを拒み、以来、オリカの後見を受けてカナーリスに住んでいる。

 しかしロストの召喚は、どこにあるとも知れない召喚陣が偶然起動した事故であった。

 その陣が特定できしだい、彼は故郷に送りかえされることになっていた。

 異世界召喚は、どうやらどこの召喚陣でもいいというわけではないらしい。

 召喚陣の特定を請け負ったのは町長のオリカなのだが、この三年、オリカから届く手紙は後見の申し出ばかりだった。召喚陣の特定はどうなっているのかとロストが訊ねても、まだわからない、と言われるばかりだった。

 後見を受けるつもりは、昔も今も全くない。

「俺は俺だ。メダルでも勲章でもないんだよ」

 いつか、レンジャー隊長のイザクに、なぜ後見を受けないのかと聞かれたとき、ロストはこう答えた。自分がステータスとして扱われることが、彼には我慢ならなかった。

 第一、自分はそれに値するような人間ではない。それに自分の望みは故郷に帰ること。ここで暮らすことではない。

 他に相談しようにも、ロストには相談先のあてはなく、結果として、彼はオリカからの連絡を待つより他にしようがなかった。

 重い溜め息をついた主人を、ジュリーがじっと見上げる。それに気付いたロストは、弱々しい微苦笑を口元に浮かべた。



 翌朝、ロストはいつもより遅く目を覚ました。昨夜は激しく降っていた雨のせいで、身体が痛んでなかなか寝付けなかったのだ。

 雨は夜明け前にはやんでいたが、ロストがようやく眠ったのは、空が白んでくるころだった。

 冷たい水で顔を洗って眠気を飛ばし、パンを食べているところへ、屋敷の門扉についている呼鈴が鳴るのが聞こえてきた。

 来客は、デヴィッド・コルセーの屋敷の使用人・クロードだった。

 ゆっくりと歩いてきたロストを見て、クロードが眉をくもらせる。

「何だか顔色が悪いようだが、大丈夫か?」

「なあに、たいしたことはないよ。寝たら治るさ」

「それならいいんだが……」

「それより、あんたが来たってことは、また薔薇の配達か?」

「そうだ。来週のコンサートの日の昼までに、食卓に飾る薔薇の花束を二つと、お嬢様の髪飾りに使う白い薔薇を一輪、屋敷まで……いや、誰かに取りに来させるから、用意しておいてもらえないだろうか」

 庭を見返って、ロストはしばらく考えこんだ。

「ふむ……わかった。ただコンサートの日なら、そっちは何かと忙しいだろう。俺はどうせたいした用もないんだ。屋敷まで届けるよ」

「そうしてもらえると、正直なところありがたいんだが、大丈夫なのか? 何かと用もあるんじゃ」

「問題ないさ」

「助かるが、無理はしないでくれよ」

 念を押すクロードに、わかっているさ、とうなずく。

 デヴィッドが花をロストに頼んでくるのは、これがはじめてではない。月に一度か二度、薔薇や他の花を届けてくれ、とデヴィッドかクロードがこうして頼みに来る。

 デヴィッドも以前、オリカと同様に、ロストに後見を申し出たことがある。ロストは無論、丁寧に、しかしきっぱりとその申し出を断った。

 それ以降、デヴィッドはロストから花を買う、という形で関わりを持っていた。ロストのほうでもそれを断る理由はなかったので、頼まれるたびに花を届けていた。

「そうだ、何か困っていることはないか?」

「いや、特にはないよ。コルセーさんにもよろしく言っておいてくれ」

 帰っていくクロードを見送って、忙しくなりそうだ、とロストは誰に言うでもなく呟いた。

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