約3km 超巨大ショベルカーにサインを
立入禁止の鉄柵をよじ登る。
——ジャッ。
飛び降りると、アディダスの底が乾いた土を噛んで煙を立てた。
ここから先は奴の作業場だ。人間に対して敵意はないと言われているが、実際のところどうなのかはわからない。爆弾や薬品を落としたのは、多分上空のアームが届かないところからだろう。人間が傍まで寄っていったら、どうか。
月明りを頼りに、小石に足を取られながらざくざくと進んでいった。
俺はブルゾンのポケットから白球を取り出した。暗闇を白く切り取った球を握り締める。爪を見る。
昔は爪の長さだって気にして切っていた。変化球を投げるために。でも、それもさぼるようになった。どうせキャッチャーがリクじゃあないなら、変化球を投げたって捕ってくれやしないから。ピッチャーに選ばれたときから中学に上がるまで毎日壁に向かって投げていた。でも、今は自主練と呼べるものはなに一つやってない。どうせ一緒にやってる奴らだって、一秒も自主練なんてしてやしないから。
なかなか超巨大ショベルカーまで遠い。もう15分くらいは歩いているのに。
白球をポケットにしまう。
わかってる。どうせ、どうせなんだ。なにかや誰かのせいにしたいだけだ。別にリクが居なくても頑張りゃあ良かったんだ。そうすりゃあリクにあんなことを言われても、鼻で笑えるだろう。俺は真剣さをバカにされたから怒ったんじゃあない。真剣じゃなかったことを見抜かれたから怒りが湧いて来たんだ。恥ずかしいって自覚したら、その場で発狂してしまうところだったから。
冴える風に、思考回路は酷く冷静な道を辿っていた。
気が付いたら超巨大ショベルカーが、本当の大きさで俺の前に立ちはだかっていた。見上げる。月さえ掻き落としてしまうんじゃあないかってくらいの恐竜。
近くまで来て初めてわかったけど、奴はビックリするほど静かだった。騒音で悩まされたことはなかったが、こんなに近くに来てもこれほど静かだったなんて。チヅルの砂時計の話を思い出す。
俺は超巨大ショベルカーが作り上げた山を登って死角に入り込む。頂上からひょっこりと頭だけを出してしばらく奴の動きを確認する。挙動は一定。いきなりおかしな動きをしたりはしない。
「ふう」
吐いて、吸う。
心を落ち着けようと深呼吸をする。でもすればするほど心臓の音が鼓膜に張り付いてうるさくなるだけだった。
ポケットから白球を取り出す。少し滲んだ黒色の線を見つけて、そう言えば自分のサインを書いておいたことを思い出した。
こんなサイン誰が欲しがるんだよ。我ながらアホだな。
そう思ったら少しだけ心臓の音が小さくなった。
大丈夫。ゲームみたいなもんだ。右から左、左から右を行ったり来たりする敵に球を当てるような。レトロゲーってやつだ。
超巨大ショベルカーが背を向けて緩やかな谷を降りて行く。これだけの高低差があればこの距離でも届く。
俺は頂上に立った。大丈夫だ。割と広い。思い切り振り被って投げられる。
マウンドに見立てて、前の土を蹴る。砂埃がびゅうと飛ばされる。ボールを人差し指で二回叩く。ストレートのサイン。
俺は思い切り振り被って、投げた。
白球は夜を切り裂いて超巨大ショベルカーへぐぅーんと近付いていく。キャタピラーで土を噛む奴の背中に迫った。
「あっ」
白球が奴のアームの根っこの辺りで跳ねたように見えた。
——ゴンッ。
遅れて音が聞こえた。当たった。確実に当たった。当ててやった。
その瞬間。
奴の動きが止まった。突然唸り声をあげて、ボディがぐるんと旋回した。アームがスウィング。風を切ってザザザザッと音を立てる。バケットの先端が目の前に迫った。
——こんなに近かったのか!
バケットの両端がまるで獣の目みたいに赤く光った。
「ひっ!」
俺は尻餅を
「いててっ」
どうやら俺は土の山を転げ落ちたらしい。死ななくて良かった。
……じゃあない!
俺は踵を返して走り出した。悲鳴が咽喉から漏れ出そうなのを必死で抑えながら、とにかく遮二無二走りまくった。途中でバカみたいに息が切れた。でも走ることはやめられなかった。止まったら死ぬ。相手は全長94m。一瞬で距離を詰める最強のアームがある。
ああなんでこんなバカなことをやったのか。
逃げ果せることだけに必死な頭とは別に、冷静な頭が後悔を始めた。
俺はただ、意味が欲しいと思った。
激よわのチームでピッチャーをやり続ける意味。リクが辞めても辞めなかった意味。プロになるわけでもないのに辞めない意味。
なんか、あの白球が奴に当たったらぶっ壊れるんじゃあないかって夢想したんだ。そうなったら大逆転の一撃に成り得るだろう? ヒーローになれるだろう? リクに勝ったことになるだろう? そしたらチヅルも振り向いてくれるかもって。まあ物理的に無理だってのはわかってたよ。爆弾も薬品もダメなんだから。でもさ、青春が詰まった白球ならやれるかも知れないって、わけわからない全能感みたいなものに脳みそを侵されていたんだ。
いや、違うか。
俺は多分もう、これ以上逃げられなくなっただけだ。世界の敵みたいな奴に喧嘩を売ったら、カッコイイかなって思っただけだ。仮に死んだとしても、チヅルが一言「カッコイイ」って言ってくれるかなって思っただけだ。
もう疲れた。足が前に出ない。こういうときにあと一歩って前に進めないから、俺はダメなんだ。知ってる。でもマジでもう無理なんだ。
よろよろと膝を突いた。多分振り返ったら奴の車体があるはずだ。音もなく近付いて来ているはずだ。でももういいだろう。だって全力で走った。今までトロトロ歩いていたかも知れないけれど、死に際こんだけ走ったらもう誰も文句言わねえよ。
そう思って振り返った。
奴は。
超巨大ショベルカーは。
——いなかった。
遠くで背を向けているまま。掘削作業を淡々とこなしている。白球を投げる前と変わらない。俺のやったことなんてまるで意に介していないみたいに。
どういうことだ?
俺は立ち上がった。そこは立入禁止の鉄柵が見える位置だった。結構走って来ていたみたいだ。
あれは、もしかしたら全部幻覚だったのかも知れない。
あの超巨大ショベルカーに対する恐怖感が生み出した幻覚。
だとすれば今の状態も納得出来る。
そもそも人間に対して敵意を向けることはないって言ってたんだし、俺にだけ敵意を向けるなんて、考えてみたらありえない話だ。
「はぁ、バカバカしい」
俺はとぼとぼと歩き出し、立入禁止の鉄柵に辿り着いた。よじ登ろうと手を掛けると、格子部分になにか挟まっていることに気が付いた。
月光を白く返すそれは、野球のボールのようだった。さっきは気付かなかったな。格子をグイッと押し広げ、取り出す。手に持って目を疑った。
そこには滲んだ黒色の線。誰が欲しがるのかわからないサインが書いてあった。
振り返る。
しかし超巨大ショベルカーは相も変わらず掘削作業中。
「ははっ」
意味もなく躍り出た笑い声は純度100%に乾いていて、そのくせ白濁しながら空に昇っていった。
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