第2話
朝っぱらから大きな出来事で今日という日が始まったが、まだまだ始まりに過ぎない。
いや、正確にはまだ始まってもいない。
いわばここまではプロローグというやつ。
酒場ホールの開店時間はいつもは夕方なのだが、週末だけは昼から開けている。
ジョニーさんの料理が通の間で人気とかで、それ目当ての旅行客が昼から訪れるのだ。
団体客の予約なんかも受け付けていて、週末の昼は酒場というよりはレストランのよう。
客層もいつも酒場に来る人たちとは全然違った。
立地条件が悪く、また女将も大男のようななりをしている……逆か。大男が女将のようななりをしているので、マリリン亭は実際のサービスに比べて低い評価を受けている。
故に、貧乏人や変わり者、あるいは訳ありの客が主な客層だった。
それが、この日だけはあのホテル・マクシミリアンに泊まるような、身なりの整ったお客さんが訪れる。
前日からその準備に余念がないのはそのためであった。
昨日と同じく酒場ホールにはルームメイドが集められた。
……遅番だったレイナ先輩を除いて。
「さ、これからお昼までに最終確認をしてもらうわよっ! 気合い入れて仕事に取りかかりなさい!!」
『はい!!』
今日は全員の声が重なった。
「リータはあたしと酒場の準備! サラとアンリエッタは部屋の準備を整えるのよ!」
『はいっ!!』
返事をするや否や、サラたちは自分たちの仕事をするために酒場ホールから出た。
リータ先輩とマリリンはジョニーさんのいるキッチンへ。
サラとアンリエッタは取り敢えず二階へ。
最終確認、といってもサラたちの今日の仕事は簡単なものだった。
何しろ掃除自体は昨日の内に終わらせているのだ。
今日掃除する部屋は一つしかなかった。
カレンさんが泊まった部屋だ。
二階の一人部屋にカレンさんは泊まっていった。
掃除道具と替えのシーツと枕カバーを持って、階段を上がってすぐ目の前の部屋に入った。
日の光がカーテンの開けられた窓から差し込む。
窓ガラスを開けて空気を入れ換えながら空を仰ぐと、サンサンと太陽が輝いていた。
今日は暑くなりそうだ。
そう思いながら額の汗を拭い、メイド服の袖をめくった。
「んじゃ、軽く片付けちまうべ」
「はいっ」
……本当にアンリエッタは見違えるほど変わった。
小気味好い声が返ってきたので、自然とサラの体もキレが増す。
掃除とベッドメイクは、ものの十分ほどで終わってしまった。
後は最終確認だけだ。
サラとアンリエッタは二手に分かれて各部屋の確認をすることにした。
――と、いっても本当に見るだけで確認はすんでしまう。
サラが本気で掃除した部屋に抜かりがあるはずはなく、アンリエッタだって掃除が下手ではない。
一応大部屋はサラが確認したが、特に問題はなかった。
……さて、どうしよう。
開店まで二時間以上もある。
忙しそうなキッチンを手伝いたいところだけど、料理の手伝いはサラにはできなかった。
今後のためにも、空いてる日に料理を勉強しておいた方がいいかな。
いや、しかしその前に字の読み書きを覚えないとダメか。
せっかく余った時間だ。
何か有効に使いたいところだけど……。
レイナ先輩を起こして字の勉強をするのはリスクが大きかった。
寝起きのレイナ先輩にはできる限り関わりたくない。
「そーだ。アンリエッタは字の読み書きできっか?」
「え? あ、はい。できます……けど、それが何か?」
「わだすだちがキッチンに行ってもきっど迷惑になっからさ。わだすに字ーを教えてくんねか?」
サラはアンリエッタに、レイナ先輩から字を教わっていることを話した。
言葉は父と母から教わった。
だから、訛りはあるけどしゃべることは問題なかった。
それができなければここで働くこともできていないわけだが。
だけど、集落で暮らしていた時は字を書く必要がなかった。
使わないものを覚えても意味がないわけで、教わらなかった。
……あるいは、父と母も字の書き方は知らなかったのかも。
とにかく字を書くことができなければ、読むこともままならない。
マリリン亭で働く内に、お客さんの言葉を聞いて新しい言葉も覚えたりはしているが、それだけでは足りない。
集落から出て世界が広いということを知った。
今はもっと世界のことを知りたいと思うようになっていた。
「わかりました。師匠に私がものを教えるなんて、なんか不思議な気がしますけど」
アンリエッタは快く引き受けてくれた。
「レイナー! サラー! アンリエッター!」
開店三十分前。
階下からサラたちを呼ぶマリリンの声が聞こえてきた。
「呼ばれちまったら仕方ね。今日はここまでだなや」
「はい。でも結構進んだんじゃないですか?」
「んだな。今度レイナ先輩に教わる時が楽しみだっぺ」
字の勉強を切り上げて部屋を出た。
すると、目の前を噂のレイナ先輩が通る。
「あら、二人ともおはようございます」
「あ、ああ。おはようごぜえます」
「お、おはようございます」
見るからに寝起きそのものだったので、今朝のことを思い出して少し尻込みしてしまった。
アンリエッタは初めて出会った時のようにサラの服の袖を摑んで隠れてしまった。
よほどショックだったのだろう。
サラでさえ、あの状態のレイナ先輩にはあまり近づきたくないくらいだから。
「よく眠れたかや?」
「ええ。もうぐっすり」
それは何よりだ。と思ったら、レイナ先輩は少しだけ考えるような仕草をして、言葉を続けた。
「でも、私遅番だったのに……起きたら自分のベッドで寝ていたんですよ。いったいどうしてかしら……?」
やっぱり寝ぼけていた時のことはまるっきり覚えていない様子だった。
「そ、そんなことより、早くマリリンのとこへ行かねーと」
「あ、そうですね」
聞かれても困る話だったので、早々に切り上げて一階の酒場ホールへ降りた。
すると、すでにテーブルの一つに五人分の昼食が用意されていた。
というか、すでにマリリンとリータ先輩は食べている。
「あんたたちも今の内に昼食食べちゃって。開店したら、食べてる暇なんてなくなっちゃうんだから」
「はい」
サラたちは椅子に座り、揃って「いただきます」を言った。
昼食として用意されていたのはカツ丼だった。
いつもの昼食はもっと軽くて簡単に作れる賄い料理なのに。
しっかりと食べておかないと仕事にならないということだろう。
「アンリエッタも残さず食べとった方がえーよ」
小食で割と食事を残しがちなので注意しておいた。
倒れでもしたら困る。
「……はい」
胃もたれでも起こしそうな表情でアンリエッタは返事をした。
昼食が終わると、朝礼の時のように酒場ホールでサラたちはマリリンを前に横一列に整列した。
「リータとレイナはあたしと一緒に酒場ホールの接客。サラとアンリエッタは宿屋の受付をやってもらうわ」
「え……」
サラはちょっと訝しげな表情をさせた。
土曜日に酒場ホールがどれだけ混むのか知っていたから。
全員でウェイトレスをやってちょうど良いくらいなのに。
「マリリン、だいじょぶなんけ?」
聞くと、マリリンはサラを引っ張って耳打ちした。
「……クソ忙しい酒場ホールにアンリエッタは立たせられないでしょ。かといって、受付にアンリエッタを一人にできると思う?」
それは、初めて出会った頃のアンリエッタに対してなら、納得できるもっともな理由だっただろう。
でも、サラのアンリエッタに対する評価は変わっていた。
確かに、まだ初めて会う人に対する遠慮しがちな部分はあると思う。
それは引っ込み思案の性格がそうさせてしまうのだろうけど、仕事となればアンリエッタは接客だってしっかりこなせるはずだと思った。
さすがに今日の酒場ホールに立たせるわけにはいかない、っていうのはマリリンと同じ意見だけど。
受付くらいは一人で任せても平気ではないだろうか。
そのことをコソコソとサラも耳打ちして返した。
「……あんたは、そう思うの?」
「ああ、んだな」
マリリンは腕組みをして考えながら、アンリエッタをチラリと見た。
「……わかったわ。サラの見る目はそれほど間違ってはいないからね。でも、開店の時はさっき言った配置でお願い。ただし、ウェイトレスが明らかに足らなかった時は、サラに酒場ホールに入ってもらうわ」
「わかっただ」
そして――酒場ホールは開店の時間を迎えた。
お昼頃という時間も重なって、観光目的のお客さんや、お隣の国へ向かう途中に食事をするためのお客さんが入ってくる。
この宿場町はサラの住む国――クライフライトと、お隣の国ザンガを結ぶ街道にあり、おまけにクライフライト側最後の町でもある。
この先街道を進むと、国境を越えるまで宿屋も町もない。
つまり、ザンガへ向かう観光客はこの町で食事をとることが多かった。
それなら平日も昼頃から酒場ホールを開けておけば儲かるんじゃないだろうかとも思うかも知れない。
しかし、そんな簡単なものではなかった。
何しろマリリン亭は町外れに建っている。
平日は仕事で街道を通る人が多く、食事をせずに町を抜けていってしまうか、マリリン亭のところまでくる前に宿屋を決めてしまう人が多い。
なので、それほど来店もなく、用意をする経費のが高くついてしまうと、マリリンは言っていた。
「いらっしゃいませ。本日はお泊まりですか? それともお食事ですか?」
家族連れだろうか、父と母と娘。三人組のお客さんが入ってきた。
庶民的な布の服を見るに、旅行をしている雰囲気ではない。
隣町のクロードスーズ辺りから来たのだろうか。
職人というよりは、商人をやっている気がする。
「ああ、食事をさせてもらいたいのだが」
サラは内心、自分の見立てが正しかったのだと笑った。
職人は言葉遣いががさつな人が多い。
店員に対する態度から、この父親らしき人は商人だと確信した。
「それでしたら、このまま右側の道を奥までお進みください。ウェイトレスがご案内いたします」
「そうかい、ありがとう。お嬢ちゃん」
三人家族は軽くアンリエッタにお礼を言うと、右側の道を進んでいった。
すると、また玄関の扉が開かれる。
「いらっしゃいませ――」
アンリエッタはさっきと同じように、にこやかにお客さんを出迎えた。
サラは別に仕事をサボっているわけではない。
アンリエッタの接客を一歩後ろに下がって見守っているのだ。
もし何かあったらすぐに助け船は出す。
でも、それまでは一人でこなしてもらいたかった。
サラの見込みが間違いではないことを、証明して欲しかった。
この様子だと、間違いなくサラは酒場ホールでウェイトレスをやらなければならなくなる。
その時に、安心してこの受付から離れるために。
しかし、これで何組目だろう。
ほとんどが酒場のお客さんだが、もう結構な数になる。
そろそろ酒場ホールの座席数を確認しておいた方がよさそうだ。
座席がないお客さんを酒場ホールを案内してしまっては、なんのための受付かわからなくなってしまう。
「今日はずいぶんお客さんが来ますね」
やっとお客さんの流れが途切れたので、アンリエッタは一息ついてそう言った。
「だなや。昼飯ちゃんとくっといてよかったべ?」
「あ、はい」
唯一残念なことは宿屋のお客さんはまだ二組だけだった。
サラは受付から少し身を乗り出して酒場ホールの様子を見る。
リータ先輩とレイナ先輩が足早にテーブルの間を忙しなく歩いている。
いや、それは食事を運んでいる時だけで、注文を取る時はほとんど走って席まで行っているようだった。
すでに、ほとんど満席。
カウンター席にさっきの家族連れが見えたということは、もうテーブル席に空きはないということか。
こうなると、厨房が追いつかないんじゃないか。
何しろコックはジョニーさんだけ。
マリリンが手伝っているのだろう。いつもはカウンターでお客さんの相手をしているのに、一向にマリリンの姿が見えなかった。
マリリンはお客さんの相手が好きで、よほどのことがない限りカウンターから姿を消すことはない。
……一部の常連客からは、それがマリリン亭が流行らない原因ではないか、と囁かれている。
「な、アンリエッタ。もうここを任しても大丈夫かんね?」
「え……」
まるで、置き去りにされた子犬のような表情をさせた。
それでサラは自分の間違いに気付いた。
そうではなかったのだ。
今のアンリエッタに必要なのは――。
「いーや。言い方がわりかったな。アンリエッタに、ここを任してーんだ」
それは、サラがアンリエッタの仕事を信頼しているという意思表示でもあった。
「はいっ!」
サラの気持ちが伝わったのか、アンリエッタは即答した。
サラは真顔で頷き、戦場となっている酒場ホールへと向かった。
「ちょっと、私たちの注文は聞いてくれないの!?」
「はい、ただいま。お聞きしますだ」
酒場ホールに入るなり、声を上げていきり立つお客さんがいたのですぐさま応対した。
リータ先輩とレイナ先輩に目配せをする。
アンリエッタは一人でも受付ができるから、こっちを手伝う、と。
三人は顔を見合わせて頷いた。
お互いに打ち合わせをしている時間さえ惜しいのだ。
そこはもう、阿吽の呼吸というやつだった。
「はい、本日のおすすめね」
リータ先輩がキッチンから料理を運ぶ。
「それでしたら、こちらのお酒などがお口に合うと思います」
レイナ先輩がお客さんの質問に答える。
「ただいまご用意いたしますだ。少々お待ちくだせーませ」
サラは待ちくたびれたお客さんの文句を聞いた。
「こっち、六番テーブルの料理よ。それから次は三番テーブルの料理ね!」
キッチンではマリリンができあがった料理をお盆に載せて、次の料理に取りかかっていた。
「………………」
ジョニーさんは相変わらず無言で料理を作っている。
「申し訳ございません。ただいま酒場ホールは満席になっておりますので、お急ぎでなければこちらでお待ちいただけます」
アンリエッタが滞りなくお客さんを案内する。
忙しくて大変なのは間違いないけど、それ以上にみんな楽しそうだった。
……ただ、アンリエッタがここに自分の居場所を見出したのだとしたら、それはそれで複雑な気持ちにさせる。
あの子には帰る場所がある。
いいや、帰るべき場所がある。
ここは、仮初めの居場所でなければならないはずなのだ。
酒場ホールから、受付で生き生きと仕事をするアンリエッタを見ながら、サラは改めてそう思った。
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