第3話
――ホールの東側夕方、四時くらいには全ての客室の掃除が終わった。
アンリエッタが担当した大部屋も、まあ及第点というところ。
きちんとサラがアドバイスしたところを守っていた。
……若干、サラが担当したベッドだけキレイに見えるが、大部屋に泊まるような宿泊客には気付かれないだろう。
一つの仕事を終えたことで、アンリエッタも少しだけ自信を得られたようだし、まさにいうこと無し。
「ほんじゃ最後に、各部屋の照明器具にこんの魔法クリスタルを取りつけっぺ」
それはつい先日セリカさんにお店で魔力を補充してもらった魔法クリスタルだった。
「まんずはやり方教えねーとな」
「あ、大丈夫です。わかります」
「そっか。んなら話は早いべな。大部屋は頼むかんね」
「はいっ!」
魔法クリスタルを二つの袋に分けてアンリエッタに渡した。
そして、大部屋に向かって駆け出したその時だった。
足を引っかけたのか、アンリエッタが派手に転んでしまった。
声を上げる余裕さえなかったのだろう。
ドスン、ガチャンという音だけが廊下に響いた。
「アンリエッタ!?」
まるでわが子を助ける猛獣のようにサラはアンリエッタに駆け寄った。
「…………っつう……」
良かった。意識はあるみたい。
「だいじょぶけ?」
「……あ、はい。すみませ……」
立ち上がろうとしたアンリエッタがそのままへたり込んだ。
足でもくじいたか、どこか痛むのだろうか。
しかし、痛そうな表情はしていない。それよりも何か、恐ろしい物でも見たような……。
「――ああ!!」
魔法クリスタルの入った袋を開けて、この世の絶望とも言えるような大声を上げた。
何事かと思って袋の中を覗き込んだら、魔法クリスタルの一つにひびが入っていた。
転んだ拍子でひびが入ったことは明白だった。
「ど、ど、ど……どうしよう……」
「なーんだ。んなことか。わだすはアンリエッタが怪我でもしたんかと……」
アンリエッタにはサラの声が届いていないようだった。
体を震わせて目には今にも溢れそうな涙が……。
「アンリエッタ?」
サラが肩を揺すると、急に立ち上がり走り出した。
「待つっぺ!! また逃げんのかや!!」
サラの叫び声に、アンリエッタはびくんと体を硬直させた。
そして、ゆっくりと振り返る。
「……またって、どういう意味ですか……」
サラの心を探るような、そんな視線を向けた。
「理由はわからねけんども、アンリエッタは家出してきたんだっぺ。ってことは、逃げてきたってこっちゃねーの」
「…………」
どうやら、アンリエッタはサラの話を聞くつもりのようだ。
無言のままサラに近づく。
「わだすはそんことをとやかくゆーつもりはねえ。だけんど、こんなことを理由に逃げるんは許さねえ」
「……どうして……?」
アンリエッタの質問に、サラは少しばかり驚いた。
そんなことも言われなければわからないのかと、思ったのだ。
「謝りゃいいことだなや」
「でも……」
また泣きそうな表情をさせた。
怒られるのが怖いのだろうか。
……何となく、違う気がする。
家出は誰かに怒られることよりもよっぽど怖い思いをするってわかっていたはずだ。
現にアンリエッタは一人であの暗い森の中を魔物に追いかけられるような思いまで味わったのだ。
あれだけのことを経験して、怒られるくらいで逃げるような子じゃない。
きっと傷つくのが怖いのだ。
繊細な心を持っているから、誰かに嫌われたり拒絶されたりするのが怖いのだ。
思えば、アンリエッタはいつも失敗しないように心掛けていた気がする。
そして、このマリリン亭に来てから一番心を乱したのは、やはり受付の仕事中に眠って失敗してしまった時だった。
あの時はまだ心を許しているサラとレイナ先輩しかいなかったから耐えられたのだろう。
仕事に対して慎重なのはいいことだと思ったけど、違う。
それではアンリエッタは本当の意味では成長できない。
「なあ、アンリエッタ。おめはここが気に入ったんだべ? だから失敗したことで嫌われるのが嫌なんだべ?」
「…………だって、私は居候で、お金が払えないから置かせてもらってるだけで……私なんかいなくても……ここの仕事は……」
つぶらな瞳から大粒の涙がぽろぽろ零れてくる。
「……あんな、アンリエッタ。そんな泣くほどマリリン亭が好きなら、逃げんと向き合わねーと」
サラはそんなアンリエッタを優しく抱きしめて背中をさすった。
そうすると、しゃくり上げて泣いていたのが、段々と落ち着いてきた。
「――さ、行くべ。わだすも一緒だから」
涙はまだ乾いていないし無言だったけど、頷いた。
サラはキッチンまでの道すがら、自分がどれだけ失敗を繰り返しその度に謝ってきたかを話した。
失敗も、説教も、そしてアンリエッタが一番気にしている嫌われるかも知れないことさえ、サラにとっては小さなことだった。
好きな人たちに嫌われるのは、確かに寂しい。
でも、人の心は自分の思い通りになるようなものじゃない。
だから、人と関わるってことは、その全てを認めなければならないんだ。
酒場ホールで明日の準備に明け暮れているマリリンの姿を見つけた時には、アンリエッタはすっかり覚悟を決めたような表情をさせていた。
「何? どうしたの? って、アンリエッタ、手の平から血が出てるわよ!?」
マリリンに言われて気付いた。アンリエッタは転んだ拍子に手を擦りむいていたのだろう。
大怪我ではないが、確かに血が出ていた。
「……あの、手は大丈夫です。それよりも……」
チラリとサラを見てきたので、ほほ笑んで頷いた。
「ごめんなさい! 私、廊下で転んで、魔法クリスタルにひびを入れてしまって……」
魔法クリスタルが入った袋を差し出して、大きく頭を下げた。
「転んだ!? それで手を怪我したのね? 本当に、大丈夫なの? レイナ! レイナー!!」
マリリンは魔法クリスタルには目もくれず、アンリエッタの手を握って怪我のことばかり気にしていた。
マリリンに呼ばれてレイナ先輩がキッチンの奥から出てくる。
「どうかされましたか?」
「あんた白魔法使えたわよね?」
「はい、少しですけど」
「だったら、アンリエッタの手を治療してあげて」
マリリンがアンリエッタの手の平をレイナ先輩に見せた。
「え? どうしたんですか?」
「転んで擦りむいたらしいのよ」
「わかりました。
レイナ先輩の手の平から緑色の淡い光が発せられて、アンリエッタの手の平を包み込む。
「あ、あの……」
「少しだけ動かずに我慢してください。これくらいの傷ならすぐに治りますから」
困惑するアンリエッタの手をレイナ先輩はぎゅっと握る。
程なくして、解放された時には、キレイさっぱり傷は消えていた。
「……あの、マリリンさん。魔法クリスタルのことは、怒らないんですか?」
袋を差し出した手はそのままでアンリエッタは恐る恐る聞いた。
「ん? あら、そうだったわねひびが入っちゃったんだっけ?」
「は、はい……申し訳ありません。私の不注意で……」
「わだすが楽しよーと思って、半分も持たせっちゃかんね。わだすにも責任はあっペ」
「――サラさん、違います。サラさんのせいなんかじゃ……」
「どれどれ……取り敢えず見せてごらんなさい」
マリリンは袋を受け取って、魔法クリスタルを一つ一つ確認した。
「……って、ひびが入ってるのなんて一つだけじゃない。深刻そうな顔してるから全部壊れちゃったのかと思ったわよ」
「……あの、それだけですか……?」
ホッとしたというより、どことなく拍子抜けしたような顔をさせた。
「なあに、アンリエッタは怒られたいの? あんたその年でMだと人生いろいろ苦労するわよ」
「いえあの、そういうつもりでは……」
「……そうね、正直に謝ったんだから怒るつもりはないわよ。それよりも、次からは気をつけなさい。魔法クリスタルは買い換えればすむけど、体を壊したらそう簡単にはいかないんだからね」
「………………」
アンリエッタはコクコクと首を縦に振って答えた。
うれし涙を堪えようとして、声も出せないみたい。
サラはよく頑張ったアンリエッタを誉める気持ちで頭を少しだけ撫でてやった。
「マリリン、替えの魔法クリスタルってねーべな。ってことは、大部屋の端っこのベッドの照明は使わねーってことでいいんか?」
さすがに個室の照明器具が使えないのはお客さんに失礼だろう。
「そうねえ、今からセレナの店に行くには、ちょっと時間が遅いし……」
「あの、もしよろしければその魔法クリスタルを見せていただけませんか?」
不意に、聞いたことのない声が割り込んできた。
みんな一斉に声のした方へ振り向く。
「――おめ、誰だべ?」
そこにはブレザーにプリーツスカート、ブーツに緑色のマントを身に纏った女の子が立っていた。
腰くらいまである長い黒髪と、意志が強そうだけど優しさに満ちた不思議な瞳が特徴的で、年はサラとさほど変わらないように見える。
ただ、服の下に見える胸のふくらみだけはサラとは比べものにならなかった。
「すみません、一応受付のベルを鳴らしたんですけど、何か深刻なお話をしているようでしたので」
「あらあら、もしかしてお客さん? こちらこそすみません、気付かずに」
マリリンは黒髪の美少女にぺこぺこと頭を下げた。
「それであの、ちょっと話が聞こえてしまったんですけど、魔法クリスタルにひびが入ってしまったとか」
「ええ、あ、でも今はまだ宿泊客はいないから、もし泊まるんだったらお客さんのお部屋の照明はちゃんと使えるものを用意しておきますよ」
「いえ、そうではなくて。それくらいのひびなら直せるかも知れません」
そう言うと、黒髪の美少女はマリリンからひびの入った魔法クリスタルを受け取り、酒場ホールの椅子に座った。
その場にいたサラとマリリンとアンリエッタとレイナ先輩は取り囲むようにして彼女を見ていた。
そして、何やら腰に下げた鞄から魔法クリスタルが半分になってしまったような物を取り出す。
「それは?」
皆息を呑んで見守っていたが、サラは気になったので聞いてみた。
彼女はこちらまでついほほ笑んでしまいそうになるほど優しげな笑みを向けて、答えた。
「空の魔法クリスタルです。といっても、ここまで削ってしまっては何かしらの魔法を宿すことはできませんが」
黒髪の少女は目を細めて真剣な顔つきになった。
さすがにサラも緊張してきた。
「
それは指先から一つの関節分くらいの火を出す簡単な魔法。
でも、彼女が使ったのはサラが知る『
一瞬だけ強烈な火花が指先から出て、半分だけになってしまった空の魔法クリスタルに当たったのだ。
その火花は空の魔法クリスタルを少しだけ削っていた。
パラパラと粉状になったクリスタルが、テーブルの上のひびが入った魔法クリスタルに降り積もる。
彼女はそのクリスタルにも同じように火花を浴びせた。
「ところで、これにはなんの魔法が?」
「
「そうですか、それでは――
彼女が両手に包み込み、魔法を使うと一瞬だけ魔法クリスタルが光った。
「これで他のものと同じように使えるはずです」
マリリンは手渡された魔法クリスタルをつまんで目を凝らした。
「……すごいわ。繋ぎ目がわからない。それに、魔力の補充も手早い。あなた、組合の魔道士じゃないわね」
「……はい。ですが、できれば事情は何も聞かず泊めていただけないでしょうか。私の名はカレン。この通りお金は持っていますので……」
そう言って、カレンさんというお客さんはさっきまでと違い少し自信なさげな表情で懐から金貨を数枚見せた。
「他の宿屋は私が子供だからと断られてしまったので、もうここしか泊まるところがないんです。ですから――」
「安心して、あたしはお客さんの事情を詮索したり、子供だからといって無下に扱ったりはしないわ。ましてやあなたは魔法クリスタルを修理してくれた恩人。何日でも泊まっていっていいわ」
「――マリリン、そんなに顔を近づけちまったら、お客さんは安心できねーべ」
カレンさんは少しだけ顔を引きつらせていた。
「サラ、なんですって?」
魔物でも一瞬で逃げ出すほど顔を歪めてマリリンが睨んできたが、構わずサラはカレンさんの手を取った。
「わだすだちルームメイドも歓迎すっぺ」
「あ、はい。ありがとうございます」
「あんりゃ、そんりゃわだすが先に言わねばならねー言葉だで」
魔法クリスタルを直してもらったお礼を言うべきなのに、先に感謝されてしまった。
「――ちょっと!! マリリンにレイナ!! いつまで酒場ホールでだべってんのよ!! 明日の仕込みを私とジョニーにだけやらせるつもり!?」
突然、酒場ホール内に金切り声が響き渡った。
声のした方に目をやると、ゆらゆらと金髪を揺らし、キリリとした目はつり上がっていて、鼻息荒くリータ先輩がみんなを睨んでいた。
まさに鬼の形相というやつ。
今のリータ先輩に比べたら、この前レイナ先輩が退治した魔物なんて大したことない。
マリリンとレイナ先輩は言い訳することもできずにリータ先輩に引っ張られてキッチンへ戻っていった。
「さ、カレンさんはわだすだちが案内するでよ」
「なんか、忙しそうですけど……い、いいんですか?」
「あんりゃわだすだちの仕事じゃねーんで」
サラとアンリエッタは何事もなかったかのように、ルームメイドの仕事をした。
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