アストロ・ハビテーション
@DrAurora
第3話 慕情
静かの海は、他の、「・・・の海」と呼ばれるところと異なり、中央の方が凸状になった、緩やかな楯状地に近い。
そして、赤道を越えた南にある「神酒の海」にはじまり、反時計回りに「豊かの海」「危機の海」、そして「晴れの海」がぐるりと、静かの海を囲んでいるが、どちらかと言うと、静かの海は「海」ではなく、海に囲まれた孤島のように見えるかもしれない。
静かの海の、標高の一番高くなっているところを等高線をなぞっていくと、一つの頂角が赤道に接した三角形に近い形状をしている。
1969年7月20日に、アポロ11号が着陸したのは、赤道に接しているように見える、その三角形形状地形の「頂角」においてであった。
ズームインして、静かの海に近づくと、アポロ11号着陸地点の北側には、起伏があまりない地形が200キロほど広がる。ただ、よくよく見てみると、小さいクレーターがあちこちに穿たれており、それらが、一見単調に思えてしまうそこの景観に変化をもたらす。
そして、アポロ11号着陸地点から、ほぼ真西に約50キロ、そして、そこから北に向かって、比較的大きなクレーターが重なるように点在する。ザビンやリッター・クレーターは、直径が10キロを越えるもので、クレーターが出来た時のインパクトが大きかったと思われ、クレーターの中央には中央丘のようなものがあり、中央からリムに向かって、クレーター内は「波」を打っている。
「マナーズ・クレーター」は、リッターから真北に約50キロに位置する、直径5キロ弱の”小さい”クレーターであり、クレーターは中央丘を持たない、お椀型というか、パラボラに近い形状を有する。
それ故に、このクレーターは”丸ごと”、電波望遠鏡として使われ、クレーターの外に付属の光学望遠鏡を備えた、「月面天文台」になっている。
私は、この月面天文台の、光学望遠鏡を主に使う天文学者として、そう・・・、もうかれこれ3年、月面にとどまっている。
地球に家族がいるわけでもなく、何よりも、大気や、最近やたらと増えてしまった地球を周回する衛星といった障害物に、悩まされず邪魔されず、好きなだけ天体観測が出来る、この月面から離れる理由がなく、故に、これまでの3年間、一度も地球には帰還していない。
それに、望遠鏡のキャリブレーションやメンテナンスの時、そして、観測スケジュールに空きができた時には、望遠鏡をわざわざ地球に向けることがあり、真空を通して、ブレることもカスむこともない地球を見ることが出来る。
そんな、望遠鏡を通して臨む「地球」を見ていると、地上を歩く人々まで見えてくるような錯覚にしばしば襲われ、本当に自分は月面にいるのか?と思うこともある。
月面に移ってくる前は、私はチリのラス・カンパーナス天文台で研究していて、同じチリのアタカマ沙漠にあるアルマ天文台の電波天文学者達と共同研究をすることもあったので、アタカマ沙漠をよく訪ねていた。
ここ月面も、ある意味「沙漠」なようなものであるが、ここの上空には、アタカマで見た朝焼けから夕焼けまでの表情はない。電波天文学と同じ条件で、光学天文学ができる「夜空」だけが広がっている。
厳密に言うと、地球から見て月齢7前後から月齢23前後の期間は、静かの海は赤道付近にあるために太陽の直射光と太陽電波の「直撃」の影響が大きく、光学天文台も電波天文台もこの2週間ほどは観測らしい観測は行わない。その間、私達天文学者は、それまでの観測データの本解析や論文執筆をするというわけだ。
今ちょうど、データ解析の手を休めて休憩室に赴き、そこでコーヒーを飲んでいる。
普段なら、休憩室には、常に同僚の研究者達が2、3人は来ているのだが、まだ早い時間でしかも2週間の「観測休止モード」に入っているために、私一人だけで独占している状態になっている。
休憩室も含めて、天文台の、観測機器とそれを収めている施設以外の施設は、地下にもうけられているために、どこにも外を眺めるための「窓」というものはない。
休憩室のコーヒーマシンのコーヒーは、正直不味い。
私は元々、重度のカフェイニストで、ここに来た当初は、とても飲めたものでないコーヒーに相当悲観的になったが、ファンデーションが作る様々の種類のお茶を試しはじめて、段々に「お茶派」にシフトしはじめている。
それでも、何かを手っ取り早く飲みたいと思う時は我慢して、こうして、コーヒーを飲んでいる。
コーヒーは不味いかも知れないが、休憩室自体は、ゆったりと寛げるようなレイアウトと色合いになっていて、研究者達の間でも好評だ。 私もここに来ると、頭を休めて寛ぐだけでなく、居合わせた同僚と結構な時間を談笑して過ごす。
「あら、今日は早いのね?」
休憩室に入ってきたのは、同じ光学天文学だけど、別の研究グループにいる女性研究者だった。
私のコーヒーはもうなくなりかけていたが、彼女とならもう一杯コーヒーを飲みながら、と思い、
「一緒にどう?」
と、新しいコーヒーを淹れるために立ち上がった。
「論文書き?それとも、解析?」
「いや、どちらでもないんだ。今、次の研究計画書を書いている。」
「研究、順調そうね。」
「あぁ、幸いね。で、そっちは?」
「うーん、地球からの観測時間申請が増えていて、その調整を行うグループミーティングが、えーと、30分後に始まる予定。」
彼女達の研究グループは、新しい観測手法や機器を割合頻繁にアップデートするために、従来の方法では地球で行うことが出来なかった観測が出来るということもあって、それで、地球からも「観測時間の割り当てが欲しい」という希望が多くなる。
「ハロー!」
もう一人、休憩室に入ってきた。
今入ってきた女性は、電波天文学グループの所属。今回の「観測休止モード」では、電波望遠鏡は完全にオフラインではなく、太陽電波観測に当てられている。
従って、太陽電波の研究者は24時間観測態勢なので、ここには来ない。
電波天文学の彼女は、太陽系外の電波源しか扱っていないので、私達と同様、今はオフィスでデスク・ワーク期間のはずだ。
この月面天文台は、人類の月面有人活動が始まった初期に、アルテミス・アコードの「ザ・ファースト・エイト」の主導で建造されたものだ。従って、初めは、ザ・ファースト・エイトのメンバー国の出身、後に、協力国として参加する国の出身者も、月面天文台の観測機器を使って研究活動を行うことができる。そして、その研究活動は、月面において直接、もしくは地球から観測時間を申請し、ここに駐在する研究者が観測に当たるという、二つの形態に分かれる。
私は、ラス・カンパーナス天文台にいた時に、太陽系外惑星の大気光と、大気光から分かる構成大気の物理的性質の研究を主にやっていたので、地球の「大気」に邪魔されずに、しかも、連続観測が出来るこの月面天文台に移ってきた。チリの天文台を去る時に、同僚達からは、研究条件で多少羨ましがられたが、どちらかと言うと、「月に行きっぱなしになるかも知れない」可能性の方で、あからさまではないが、哀れみの情を示された。確かに、私は、地球に家族も身寄りもなく、研究者として身軽であるゆえに、この選択を行ったのは事実である。
ただ・・・。
「久々に、映画でも観に行かない?」
私の物思いを破ったのは、電波天文学の方の彼女だった。
「うーん、行きたいけど、今日はこれからグループミーティングが始まるし、その終了時間は現時点では不明。明日なら都合がつくけど・・・。」
「あなたはどう?」
電波天文学の彼女が、私に話を振ってきた。
「私は、次の研究計画書を書いているところですが、、、。そうですね、映画を観に行くくらいの時間はあります。」
「ならさ、明日行こうよ?どう?」
「明日なら、OKよ。」
「私も、、、明日なら大丈夫です。」
「よし!それなら・・・」
3人で、明日集合する時間を決めた後、それぞれ、次にすべき自分の仕事に戻るために、休憩室をあとにした。
・・・
セレーネ月面都市とマナーズ・クレーターを結ぶ「地下輸送システム」はない。
セレーネ月面都市は、マナーズ・クレーターの北北東約25キロの位置にある「アラゴー・クレーター」の中に造られている。そして、アラゴー・クレーターの西側に宇宙港があるが、宇宙港からマナーズ・クレーターまではほとんど起伏のない地形になっていて、月面天文台の建設時にも、建設資材や観測機器の宇宙港から輸送は、この地形の利を活かして、表面輸送で行われた。
そもそも、25キロという、比較的短距離な区間は、電気自動車の一種であるルナ・クルーザーを使った方が、輸送システムのメンテナンス費の点からも経済的であった。
月面天文台にあるルナ・クルーザーは、天文台所有の公用物であるが、天文台の研究者達は全て、天文台近接の居住区に住んでいるために、日用品をセレーネまで買出しに行く必要から、よくルナ・クルーザーを使う。
と言うか、ルナ・クルーザーの運転資格を取ることは、天文台に勤める兼住むための必須条件になっている。
ルナ・クルーザーを使用する際に、使用者はIDを登録し、消費した電力量に応じたポイントが、ルナ・クルーザー使用後に引き落としされる仕組みになっている。
例えば、2人でルナ・クルーザーを使用した場合、事前に2人ともIDを登録し、クルーザー使用後、消費した電力量に応じたポイントが二等分されて、それぞれから引き落とされる、というわけである。
ちなみに、クルーザーの最大乗車定員は4名で、そもそも、大きな乗り物ではない。
クルーザーポートで待ち合わせた、私と女性2人は、使う予定のルナ・クルーザーの充電器そばに設置されている「使用者登録機」にまず、登録を行った。
行きの運転は、この”遠足”を言い出した、電波天文学の彼女がすることが暗黙のうちに了承されていたが、帰りは、多分、買出しをするだろうから、その時の”気分”で、誰が運転するか決まるだろう。
彼女ら2人は、光学、電波と違うチームであったが、よく知っている仲らしく、助手席に、光学天文学の彼女が乗り込んで、早速2人の「ガールズ・トーク」が始まった。
私は、後部座席に収まって、彼女達の話を聞きながら、会話には参加せず、ぼんやりと外の景色を眺めていた。
進行方向に向かって右側は、静かの海の「平原」地帯なので、特に見るものはない。
一方、左側は、全く異なる様相を見せている。
遠くに、山脈のようなものが見られる。峰々の太陽光が当たっているところは、光り、白っぽく輝いているが、影になった部分は、全くの漆黒で、真空中において、この白と黒の境界はきっぱりとしている。おまけに、空気もない、音もないので、遠いのだけは何となく分かるが、どれだけ遠いのか、その距離感が全く掴めない。
(ラス・カンパーナス、あそこは違ったな・・・)
この月面の景色を見る度に、私はいつもそう思う。
ラス・カンパーナス天文台から見える、まわりの山々の表情は、実に豊かだった。
朝焼けに、紅く染まる頂上。
薄く雪化粧はするが、白銀にはならない頂上。
一瞬ふと、
(これは、望郷の念というやつか・・・?)
という思いが過ったが、前席の彼女達の笑い声のなかにその思いは紛れ込み、そして、見失ってしまった。
月面平原での、20キロ程度のドライブはあっという間に終わってしまう。
前方にアラゴー・クレーターのリムが見えてきた。そして、リムを越えたところに、セレーネが位置する。
セレーネは、「月面」都市と呼ばれているものの、都市としての機能の多くは、その地下に収められている。従って、セレーネが位置する、実際の月面に見えるのは、宇宙港と、その宇宙港と結ばれた輸送システムの一部、そして、離れたところに設置されている発電施設だけである。
リムを越えると、セレーネのそれらの施設が、濃い、ほとんど漆黒と言ってよいほどの影の中でくっきりと存在感を示す。
(人は、とうとう、こんなものを、生まれ育った惑星の外に作るようになったのか。。。)
ラス・カンパーナス天文台と、それを囲むように聳える山々と、何と対照的であることか!
リムを越えたところに見えてくる景観を目にする度に、私は故郷のように思っているラス・カンパーナスとアンデスの山並を繰り返し思い出すのであった。
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