第2話
翌朝、穂乃果と雑談をしていた菜月は、後ろの席に座ったままの心春を見つけた。しきりに廊下を気にする彼女を手招きする。
「どうしたの?」
菜月が訊くと、心春は焦り気味に、
「凜ちゃん休みかな」
「今朝はまだ見てないけど。遅刻寸前に滑り込むことも多いし、そのうち来るんじゃない?」
言うと心春は、「そうだよね」と重い足取りで戻っていった。
――確かに今日は遅い。
この春から凜が遅刻したことはなかった。
――初遅刻か。
担任が教壇に立ち、淡々と
気が沈んだまま一日を終えた。早く帰ろうと靴を履きかけた菜月の肩に腕を回す者があった。
「ああ、穂乃果」
バスケ部の見学は、と問いかけると、彼女は菜月の耳元に口を寄せた。
「私ね、凜を呪ったの」
片足だけ革靴に足を突っ込んだまま硬直した菜月に、穂乃果は囁き続ける。
「いつも平然な顔して、人を皮肉って、上辺だけで愛敬振り撒いて――独りでも生きていけますって感じでさ。菜月もムカついたことあるでしょう? でもああいう子ほど、叩ける人間が周りから消えたら、寂しくて引き籠っちゃうのよね」
だからちょっとだけね、と拳でこつんと空を叩く。
返す言葉が出てこないまま、穂乃果は去っていった。
――呪いなんてあるわけない。
何度も心の内で呟いたが、昨日の今日で凜が休んだことが、呪いなど馬鹿馬鹿しいと笑い飛ばすことの出来ない不気味さを孕んでいた。
まだ耳に残っている穂乃果の囁き声を思い出す。昂揚と微かな緊張の綯い交ぜになった声。
呪いの効果かは分からない。しかし、確かに穂乃果は凜に鏡を向けたのだ――菜月はそう確信した。
二日経っても凜は欠席のままだった。何度もメッセージは送ったが、一度も返信は来ない。
三日目の休日、菜月は居ても立っても居られず、凜の家へ行こうと決意した。あまり早くても迷惑だから、と朝食後に着替えた後、ベッドに座ってスマホを眺めていた。すると電話が掛かってきた。凜からだった。「もしもし」と弱弱しい第一声だったが、確かに凜の声だ。
「もしもし、大丈夫? 私、気が気じゃなくって、今から家へ行こうと思ってたんだよ」
「ありがとう。少し熱が出ただけなの。久々に風邪ひいちゃって、あんまり身体が怠かったから連絡できなかった」
ごめんね、と凜は謝る。
しばらく二人で話をした。主に学校でのことを菜月が一方的に伝えていただけだったが、凜はいちいち相槌を打って、笑ったり同情してくれたりした。
「そろそろ切ろうか。横になって休まなきゃ」
そう提案すると、凜は「もう二、三日欠席するから、顔が見たい」と言う。
「じゃあビデオ通話にするね」
「せっかく向かいにいるんだから、本物の菜月と会いたいよ」
凜の願いに、それもそうか、とベランダへ出る。
同じタイミングで、白い寝間着姿の凜が外へ出てきた。互いに手を振り合う。
「早く元気になってね」
繋いだままの電話でそう言うと、「うん、必ず」と返事が聞こえた。
電話を切って部屋へ戻ろうとしたとき、菜月の視界を何かが掠めた。――鳥の影かな。そう思って振り返るが、辺りには何も飛んでおらず、胸のすくような蒼天が広がっているだけ。頭をひねりながら窓を閉める。向かいのアパートで、凜が室内から手を振って微笑していた。
深夜、あまりの寝苦しさに菜月は飛び起きた。四月というのに全身から汗が噴き出している。不意に倒れそうになって小机につかまり、喘ぐように母親を呼んだ。
救急外来へ飛び込んだ。四十度を超える熱だった。ウィルス性の感染症ではないらしく、点滴を打ってから、抗生剤と頓服の解熱剤を貰って帰ることになった。
明け方、家のベッドに横になりながら、菜月は穂乃果の言葉を思い出していた。
――私ね、凜を呪ったの。
呪われた凜は高熱を出した。
――鏡を相手の家に向けて。
ベランダで何かが視界を掠めた。振り返ると凜がこちらを見ていた。
――呪いをかけられても、別の人に返せば大丈夫なんだから。
もしも凜が、穂乃果から呪いを掛けられたと信じていたら、次は誰にうつすだろうか。叩ける相手を失わず、呪いを掛けた穂乃果を最も苦しませる相手――。
刺すように痛む
――私が呪われるのは必然だったんだ。
ぼんやりとそう思いながら、菜月は眠りについた。
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