第2話 隊士、蟹江真帆

 凪義なぎは東京へ向かう連絡船のトイレで、朝食べたものを嘔吐していた。


「はぁ……はぁ……」


 ――胃が、植物性のものを受けつけなくなっている。


 美しい黒の長髪を持つこの少年は、秀麗な顔を苦悶に歪めて息を切らしていた。

 凪義は二年前、弟と妹をサメに食われ、父親は人をサメに変えることのできる呪術師・鮫辻浄頭さめつじじょうずによってサメ人間に変えられてしまい、母は鮫辻が飼っていた巨大ザメの餌にされてしまった。

 そして凪義自身も鮫辻のしゅを受け、サメに変えられてしまうところであった。しかし、「総身集中の呼吸」を常時行い、さらにサメの血を服用することによって何とかサメ化を遅らせている。


「……体がサメに近づいている」


 サメは肉食の生き物だ。野菜や穀物のような植物性の食物を段々受けつけなくなっているということは、自分のサメ化が進んでいることを意味する。鮫辻を討ち果たした彼であったが、その呪はまだ消えていないということだ。


 ――もう自分は、人間には戻れない。


***


 もう十月ということもあって、日が落ちるのも早くなった。吹き寄せる風は、涼しいというよりは生暖かいといった方がいいような、そんな風である。

 夜空の下、雑踏の中を歩く二人の少年がいた。一人は艷やかな長い黒髪を持ち、緑と黒の市松模様の羽織を着ている。もう一人の羽織は黄色で、如何にも白人系といった風な金髪碧眼をしている。


 黒髪の少年炭戸すみと凪義と、金髪の少年アッガー・フラウ・ゼーニッツ。この二人は、サメを討伐する自警団「鮫滅隊さめつたい」に属する隊士である。二人はある密命を帯びて、海から遠く離れた東京西部のとある駅に足を運んでいた。二人の肩には大きな縦長の肩掛けカバンがかけられているが、この中には得物が入っている。流石にサメと戦うための武器をむき出しで持ち運ぶことはできないからだ。


 凪義はさっきから、何度か鼻をかんでいた。本土に上陸してから、何かと彼は鼻をかむことが多くなっている。


「……もしかして花粉症pollen allergyデスか……?」

「分からない。杉花粉にはよく反応していたが……この季節では初めてだ」


 実は、このことは凪義にとって大いに懸念事項となりえるものである。というのも、彼の持つ卓越した嗅覚が鈍ってしまい、索敵に支障を来すからだ。


 駅の改札を通ると、その向こうでツインテールをした少女が手を振っていた。彼女の着ている黒い詰襟の軍服のようなものは、鮫滅隊の隊服である。隊服の背中には「鮫」の一文字が印字されているのだが、正面からでは見ることができない。


「炭戸凪義さんとゼーニッツさんですか? 私、鮫滅隊青梅おうめ支部の蟹江かにえ真帆まほといいます! よろしくお願いします!」


 やけにはつらつとした、まるで真夏のひまわりのような声であった。凪義もゼーニッツも、こういった手合いはあまり得意ではない。凪義は少しばかり表情を渋くし、ゼーニッツは凪義の後ろに半身を隠して縮こまっていた。


「僕が炭戸凪義だ。よろしく頼む」

「あ、あの……アッガー・フラウ・ゼーニッツです……よろしくお願いしマス……」

「聞いています! あの鮫辻を討ったんですよね! 凄いです! 握手お願いできますか!?」


 興奮気味にそう言うと、真帆は右手を差し出してきた。凪義は一瞬逡巡しゅんじゅんする様子を見せた後、渋々といった風に握手に応じた。少女の暖かい手は、ほんのり汗で湿っている。凪義は軽く握り返しただけであったが、少女の方は強く握って上下にぶるんぶるんと振るった。


「ゼーニッツさんもお願いします!」


 少しく不愉快な表情をしている凪義を余所に、真帆はゼーニッツにも握手を求めた。おずおずと差し出された白い手を、真帆はまたしても無遠慮に大きく上下に振った。対するゼーニッツは、そのハイテンションぶりについていけずに困惑の色を顔いっぱいに浮かべている。


「あー……ワタシはサメツジと戦ってないデスけど……」


 ゼーニッツは、真帆に聞こえるか聞こえないかというぐらいの声量でぼそりと呟いた。彼は直接、鮫辻と戦闘していない。凪義と射地助が出払っている間、彼は留守を任されて鮫人間シャーク・ヒューマンの襲撃に備えていた。

 これはゼーニッツが彼と友誼を結んだ水泳部の少年に聞かされた話であるのだが、敵の攻撃で気を失ったゼーニッツは、意識のない状態であるにも関わらず刀を振るい、避難所で暴れる鮫人間たちを瞬く間に切り伏せたのだという。だが、何分気を失っている間のことであるので、ゼーニッツの頭の中には何の記憶も残っていない。


「それにしても、お二人ともイメージと違ったので驚きました! もっと筋肉モリモリマッチョマンでイカツい感じだと思ってたんですけど、意外と細い? 感じですね。しかもすっごく可愛い……」


 順繰りに二人の顔を眺めながら、真帆は恍惚としていた。




 この時、三人の後ろで、じっと彼らを見つめる存在があることに、真帆も凪義もゼーニッツも、誰も気づかなかった。

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