幕間  『揺れ動く薄氷下』




 ――その場所は薄暗く、陰気な雰囲気に満たされた地下だった。


 冷たく、汚い血の異臭が立ち込めている。

 空気は淀み、負の根源が蠢き、迎え入れる者を全て腐食してしまうような場所だった。

 

 そこに、硬質な音をたてながら歩く男の姿があった。


「――――」


 鼻を塞ぐような激臭の中、黒いフード付きのコートを頭まで被っているその男は、それを意にも介した様子を見せない。

 そして、目の前の光景だけを一点に見つめながらその方向へと歩いて行く。

 その視線は、哀しげなようでいて、驚いているようでもあった。


「――氷、か」


 耳障りが悪く、低い声がその空間を反響させる。


 そこには、数えるのも億劫になるほどの緑の死体が辺りを埋め尽くしていた。

 その惨劇を見れば、その声が死因の推測のために発せられたものであると気付ける。


 目を凝らすと、そこら中に乾き切っていない水溜りが存在しているのを確認できる。

 その水溜りに浮かんでいる緑の死体の大半が、何かしらの固形物によって身体を歪まされ、無残に破壊されていた。

 

 そこから導き出せる答えはただ一つ――。


「王都に氷を扱える魔術師など――ああ、いたか。ふん……邪魔立てしやがって」


 その男は機嫌が悪そうに吐き捨てる。その男はこの状況を創り出した者に心当たりがあるようだった。


「ユグドラシルの杖も無くなっているではないか……いずれはアークメイジにさせるつもりだったというのに……。チッ、あの小娘め。大人しく森に引きこもっていればいいものを」


 大気中に膨大な魔力が流れ出る。それがその男から発せられたものだということは自明だった。

 しかし、その男は思い直したのか。今にも世界を征服しそうな魔力の拡散を収める。


「ふん、少々計画が狂うが、まあ良かろう。ただ、報告はすべきか……」


 その男は何かしらの結論に至り、黒いコートを翻して人知れずその場を後にした。



 ◇◆◇◆◇



「――陛下。本当に勇者一行を帝国に派遣なされるのですか?」


「バルドゥール。その件については何度も話した。教皇があの様子なら、我にはどうしようもない。やむを得んだろう」


「陛下、エズラ帝国を魔王軍との防波堤として利用するために勇者達を派遣するのです。我々の代わりに帝国民どもに血を流してもらうのです。そのための派遣なのです。ですので、そう悲観的になり過ぎないよう」


「……その通りだな。そこまで深思が及ぶとは流石だ、イグナーツ」


(はぁ……)


 今日もイグナーツは心の中で嘆息する。これで何回目だろうか。数えるのも億劫だと辟易していた。

 それの原因となった、目の前にいる『ロージャス王』ハインケル二世が、その長く貯えた髭を触りながら「ふぁぁ」と暢気に欠伸を漏らす。


 良くも悪くも凡庸。


 それがイグナーツの主への評価だった。暴君ではないが、決して賢王でもなかった。

 今もこうして、大司教の意見をそのまま鵜呑みにするだけで、何も自分で解決策を出そうとしない。


 イグナーツは反対したが、他の『選定侯』が傀儡にしやすいという理由で目の前の人物を王に抜擢させたのが原因なので、それはやむを得ないことかもしれない。しかし、それを行った彼らは無責任過ぎた。

 我らが王は、この動乱の世を導く大国の支配者としては些か頼りないものだと、イグナーツは危惧していた。

 

 ある程度の忠誠は誓っているが、それだけだった。

 何度も自分が王になれば国が更に良くなるだろうと考えた。が、それをするだけの勇気を、野心を、人望をイグナーツは持ち合わせていなかった。

 それに加え、聖界の人間である我が身自身がこの国の王となるのは、他の選定侯――ましてや教皇から無視できない批判が訪れるとも理解していた。


 現に、王宮内の宮中伯らも自国の利を第一に考えている。

 何事も無い平常時ならそれは褒められるべきことだろう。だが、今のこの危険な時代にはその方針を改変する必要があるとイグナーツは思っていた。


 しかし、ロージャス自体が戦線を持たない上に、魔王軍に対抗するために必要となる他国への物資等の輸出での好景気。

 それらが原因で王宮内に緊張感が無いのは致し方ないと、イグナーツは諦めていた。

 恐らくは、他の諸侯達は降って舞い降りた幸運とでも認識しているのだろう。


「――――」


 陛下にはああは言ったが、その防波堤が崩されるとこの国が被る損害は甚大なものになる。ロージャスが保てている平和など、砂上の楼閣と言って差し支えなかった。

 第一、勇者達の派遣が魔王軍を追い返せるかは疑問が残っていた。個の強が軍の強に打ち勝ち、戦況が好転するかどうか怪しかったのだ。


 そのような事情もあり、教皇が『神聖騎士団』をも派遣せよとのお達しがあった。しかしそれでは王国自体の軍事力が弱体化し過ぎ、治安維持が困難になる。

 なので折衷案として騎士団と王宮魔術師のほんの一部、そして勇者の派遣を代替にすることで合意した。

 他国にも行軍を呼びかけていると聞くが、バンケルク王国も自国の戦線に手一杯だろう。どれだけの軍勢を招集出来るのだろうか――。


「ああ、シャルロッテ……」


 ここにはいない、最愛の娘を想う。

 イグナーツの親心からすると、娘の帝国への派遣は是が非でも反対したかった。承知の上で危険な死地に向かわせることと同意なのだ。

 可愛い子には旅をさせろと言うが、現実として当事者になってみると堪ったものではなかった。


 しかし、教皇がそう望まれたならば、大司教であっても拒否権は行使出来ない。そうなれば、怒りの矛先はその派遣の切っ掛けを齎した『神託』に向けられよう。


(あの神託を何度憎んだことか……)


 と、イグナーツは腑を煮え繰り返すのをやめない。

 女神様のお告げに憎悪の念を抱くことなど、大司教としてあるまじき行為ではあるが、それは仕方が無かった。子は何よりも大切だった。


 可憐で、行儀も良く、本当に良く出来た娘だった。

 光属性の才も発現し、誰もが彼女の将来を期待していた。その期待が、あの神託によって望まぬ形で回収されてしまった時の絶望を、イグナーツは今でも覚えている。

 その上、イグナーツは心中穏やかではなかったと云うのに、周りからは寧ろ喜ばれる始末。

 それが皮肉に聞こえ、我慢ならなかった。しかし、体裁は保っていなければいけなかった。


 だというのに、親としての責務より大司教としての、民を護る者としての職務を優先してしまった。その矛盾した行動が今の事態を招いてしまったのだろう。


「冒険者らも、志願する者は勇者達に同行させましょう。少しでも戦力が増強すれば教皇もお喜びになるはずです」


「うむ。それが良かろう」


 国が正規に抱える騎士団とは違い、非正規であるのにも関わらず期待できる戦力に『冒険者』という職業がある。

 事実上、国が運営する『ギルド』で働く冒険者と云うものは、平民でもなることが出来るいわば何でも屋である。


 しかし雑用はさして重要ではない。国が要求するのは『傭兵』としての側面。

 荒事となれば国が金を積んで戦争に従事させ、それで戦況が変わった歴史がある程、彼らの存在は直接軍事力に結び付いている。


 その中には騎士顔負けの戦闘力を擁している人間もいる。それが原因で冒険者に劣らない治安維持部隊が必要となるのだから、一長一短ではあるが。


 だがしかし、王都周辺の害獣も進んで駆除してくれる上に維持費が掛からないので、国としては是が非でも重宝したい人材だった。

 だからこそ多額の支援金を出す価値があった。それでも尚、彼らが与える経済的、軍事的国益は計り知れないのだから存続は必然である。

 そして愛する娘も、今は経験を積むために冒険者として活動していると聞いていた。


「『自治領』の民を代わりに派遣するという手は無いのか? 魔術師としての戦力は馬鹿にならないだろう」


「……エルフで御座いますか。ふむ……彼らのことです。きっと『協定』を盾にして聞く耳を持たない筈です。条約以上の干渉は拒否してくるでしょう。戦力として数えないのが最良と愚考します」


「まあ、そうであろうな。……よし。勇者達に召集を掛ける。派遣の準備は出来ているな?」


「はい。恙無く」

 

「帝国には我らのために奮闘してもらわねばな」


「仰る通りで御座います」



 ――果たして。世界は安寧を取り戻すのだろうか。


 イグナーツの胃痛は、治る所を見せない。


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