第2話

きっかけは、ほんの小さな偶然だった。


その日はとても、とても暑い日だった。空気は重くうだるようで、さらに頭上から逆さまにしたヒーターの赤い輪っかでじりじりあぶられているような炎熱にやられ、誰も彼もがフラフラとただ自分の目の前のアスファルトだけを見て歩いているような具合だった。


僕が出入りしていたあの電脳街の一角で、真昼間から声を張り上げ、ラップトップ型のパーソナル・コンピューターを声を枯らして売り込んでいる男女の一隊がいた。みなお揃いの青いTシャツを着て、そこから露出した肌を真っ赤にらし、汗みどろになりながらなにやらゴチャゴチャと書かれたチラシを配っている。


とにかくこの界隈で、ただ彼らだけが元気だった。いや、きっと彼らとて暑さはキツかったはずだが、それを気にさせないようななにか大きな喜びでもあるらしく、瞳がキラキラと輝き、頬が紅潮し、その動きは機敏で無駄がなかった。




当時50万円もしていたラップトップのパソコンなんて、真夏のさなかに売るべきものではない。さすが電脳街につどう住人マニアどもも、その時ばかりは氷水に漬けた瓶入りのコーラかお茶、あるいは棒付きのシャーベットのみを欲し、汗みずくの彼らによる懸命の売り込みには露骨に嫌な顔をし、迷惑そうに手を振って通り過ぎてしまった。


しかしそれでも、彼らはめげない。行き交う人々からどんなに邪険な扱いを受けても、うつむくことも、舌打ちすることもなく、瞳を輝かせたままその次に向かう。いつもならば僕だって、そんな妙な連中の相手なんかしない。でもその日はひどく暑く、そして彼らはキラキラとしていて無垢だった。


なんとなくその様をまぶしく感じて、僕は足を止めチラシを一枚、なんの気なしに受け取ったのだった。




実をいうと、当時まだ個人が使うにはいささか敷居が高かったパソコンというおもちゃに、僕はかなりの興味を持っていた。いやむしろ、なけなしの20数万円ばかりを財布に入れて、どれか一台を買おうと探しに出てきたのだ。だが、一流電気店に並ぶ有名メーカー商品の値札にゲンナリさせられ、これはとても無理だと諦めて家路につこうとしていた時だけに、単なる偶然とはいえ、チラシが渡されたタイミングはまさに絶妙だったといえる。


「ポイント・ニモx86?」

僕は、思わずそこに大書されていた商品名を口ずさんだ。他社の商品群でもよく見かけた、まるで弁当箱のように分厚い筐体のラップトップ・パソコンの不鮮明な白黒写真が数点ならんだ安っぽい手刷りのチラシ。しかしその聴き慣れない名前と、そしてそのあまりの表示価格に、僕は瞠目どうもくした。


「じゅ、19万8千円だって!?」

このときは、かなり大きな声を出してしまっていたらしい。このチラシを渡してくれたお兄さんが、またチラと僕を振り返って、にっこりと笑った。キラキラとした、綺麗な眼だった。


彼は他の通行人と立ち話をしていて、そのときは特にそれ以上話はしなかったのだが、とにかくその表示価格はべらぼうに安いものだった。商品名のとおりインテル製の当時一級のチップを使い、その他の性能諸元も堅実にまとまった高性能パソコンが、破格の安値で売られているらしい。このスペックは、他社だと優に40万円は越える価格帯の製品に匹敵する。


現物は路上には出されておらず、チラシに書かれた略図に従い、大通りから二本裏に入った路地の片隅の店舗で売られているらしい。僕は、とりあえずそこに行ってみることにした。

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