第67話 宮田下銀の望みは

 草飼さんが教えてくれた場所は、いかにもな高級料亭だった。多分この塀の向こうには、たくさんの鯉が泳いでいる池とししおどしがある庭があるのだろう。


 普段だったらすげー場所だぁって門の前で立ち止まって息をのんじゃうな。でもいまはそんな時間すら惜しいんだ。本日貸し切り営業、なんて書かれた看板なんか関係ない。


 俺は勝手に門を開け料亭の中に入る。店員――料亭で働いてる人にはもっと別の言い方があるんだろうな――の、


「なんですかあなた!」


 声を無視して、龍と松の絵が描かれた襖を、ドンッ! と思い切り開ける。


「その縁談ちょっと待ったぁあああああ!」


 中にいた五人の視線が汗だくの俺に集まる。


 俺だって、この後のことを全く考えていなかったから頭の中がパニック状態。


「なんだね、君は?」


 しわがれた、だけど鋭い威圧感のある声が聞こえる。吉良坂さんの隣に座っているから、あれが吉良坂さんのおじい様ってことか。なにあの形の髭、板垣退助でしか見たことないんですけど! ってか眉間のしわチョーこえー。


 だけどこんなことで怯んでいられない。


 だって、顰めつらのおじい様の隣に座っている吉良坂さんは、いまにも泣きだしそうな顔で俺を見つめているのだから。


「宮田下、くん」

「俺はもう逃げないって決めたんだ!」


 吉良坂さんだけに向けて叫ぶ。


「すべてに立ち向かうって決めたんだ! だから俺の言うことだけ聞けぇ!」

「ちょっと、なんですかあなたは」


 吉良坂さんたちの対面に座っていた三人のうちの一人、五十代くらいのおばさんが立ち上がる。


 この人が春中由隆の母親か。


 ってことはその隣でぽかんと口を開けているのが春中由隆張本人。


 ……くそぉ、こんな阿呆面でも整った顔とかふざけやがって。


 ってことはそのさらに隣で眉尻を吊り上げているのが春中由隆の父親か。


「俺はこの縁談を破壊しに来た男だ!」


 なんか勢いのあまり変な言葉使っちゃってるぅ!


 ああもういいや、しーらね。


 なるようになれ!


「破壊? ふざけないで。この縁談は両家にとって価値のあるものなの!」

「少し落ち着きなさい、良枝よしえ


 感情的になっている春中由隆の母親の肩に手を置いたのは、春中由隆の父親だ。


「だが君、すべては私の妻の言ったとおりだよ。この縁談は両人ともが納得して承諾している。部外者の君がどうこうできるものではない。そもそもこんな無礼なことをする君の言うことを、われわれが聞く必要はない」

「んなこたぁ関係ねぇんだよ!」


 俺は春中由隆の父親を睨み返す。


「俺が嫌だから壊すんだよ! 俺は帆乃が誰か別の男と手をつないでるのが嫌なんだよ! 抱き合っているのが嫌なんだよ! 想像したくもねぇんだよ! 帆乃のすべてを独り占めしたいんだよ! 俺の隣にいてほしいんだよ! 俺だけを見て欲しいんだよ! なんか文句あっか!」

「皆のもの、少し落ち着きなさい」


 吉良坂さんのおじい様がドスの利いた声で場を制圧しにかかる。


 周囲の人間を無条件にひれ伏させんばかりの声圧に、俺以外の全員が口を閉じた。


 俺だってヤバかったよ。


 身体が勝手に土下座するところだったんだから。


「落ち着いてられるかっ! あんたはこれでも大事な孫娘をこんな男に渡すのかっ!」


 俺は歯を食いしばって、ずかずかと両家が囲んでいるテーブルのそばまで歩くと、机の上にドン! っと一枚の写真を叩きつけた!


 ってやべぇ!


 いま勢いで吉良坂さんのおじい様に向かって『あんた』なんて言っちゃった?


 ああヤバイすぐに防弾チョッキ買いに行こう!


「……こ、れは」


 吉良坂さんのおじい様が写真を手に取って、じっくり凝視する。その厳つい表情を変えぬまま春中由隆に写真を突きつける。


「由隆君。これはどういうことか、説明してくれるかな?」

「え……あ、こ、これは」


 春中由隆は目を見開いた後、脱力したように肩を落とした。


「ちょっとなんですか?」


 と春中由隆の母親が写真を見て、


「なに、由隆。この写真は」


 とめまいに襲われたのか、ふらふらと畳の上に手をついた。


「おい由隆! この格好はどういうことだ!」


 春中由隆の父親がものすごい剣幕で息子を睨みつける。


 俺が草飼さんに託されて持ってきた写真。


 そこには森本由隆が写っている。しかも彼? 彼女? は屈強な男と腕を組んで仲良さそうに、ラブホテルへと入って行こうとしていた。


「こ、これは……」

「どういうことだ由隆! ええ!」


 息子の胸倉を父親がつかむ。


 吉良坂さんのおじい様は、


「これは間違いなく由隆君かね?」


 と静かに問いただしている。


 ……なんだ、このカオス状態。


 もちろん俺がすべての元凶なんだけど、これ俺は悪くないよね?


 どうしたらいい?


 もうどうもできないって知ってるけれども!


「ああもううるさいなぁ! ちょっと黙れよ!」


 俺が心の中であわあわしていると、春中由隆が怒号を上げながら父親の手を払いのけた。


「ったくふざけんな。せっかく隠してきたのに。あーあ、まじ意味わかんな」


 春中由隆はそう憎たらしげに呟いた後、俺の方を見て小さく笑った。


「ああそうだよ! 俺はゲイだ! 心は女なんだ! こんな小便臭い女より、むしろこうして女のために縁談の場に乗り込んでくるような、度胸の据わってる年下のかわいくて勇敢な男の方が好みなんだよ!」


 ああやばい、さらなる超ド級の爆弾が投下されました。


 開き直ったオカマほど無敵なものはない。


 核爆弾すら股間の金属バッドで打ち返しちゃうと思う。


「ななな、なんだそれは! ふざけるな!」

「ちょっと由隆。あなた、正気なの?」


 両親の戸惑いと怒りと失望が混じった言葉に、春中由隆は、


「うるせぇ! これが俺だ! 文句あっか!」

 

 と宣戦布告。すぐに父親と取っ組み合いの喧嘩をし始める。そこへ吉良坂さんのおじい様が、


「うちの孫娘が小便臭いとはなにごとだぁ!」


 と加わってもう後は地獄絵図。


 蜘蛛の糸はどこかなぁ。


 よしっ!


 一刻も早く逃げよう。


 俺、こいつらの喧嘩なんかしらーね。


「行こう、帆乃」


 俺は呆気に取られている吉良坂さんのそばに駆け寄り、その手をしっかりと握る。


 ああ、この手の細さ、やわらかさを、俺はもっと感じていたい。


「連れて行くことは、禁じられてないだろ?」


 俺が笑いかけると、吉良坂さんはゆっくりと頬を緩ませ、


「……うん」


 頷いた拍子に、目から透明な涙が零れ落ちる。


 ああ、本当にきれいだ。


 可愛いな。


 大好きだ!


 俺は帆乃を引っ張り上げるようにして立たせ、そのまま料亭から二人で走り去った。


「ねぇ、これ、私たち駆け落ちだ」


 夜道を当てもなく走っていると、後ろから弾んだ声が聞こえてくる。


 振り返ると笑顔の帆乃がそこにいた。


「ほんとにそうするか?」

「私を、全部、独り占めしたいんでしょ? 膝枕も! おっぱいも! 心も! 私も!」


 短く吐き出される息の合間を縫って、そんな声が続けて聞こえてきた。


 ばっかそんなこと叫ぶんじゃねぇ!


 でもこの最高の開放感は嫌いじゃない。


 そのせいにさせてくれ。


 みんな許してくれるさ。


 きっと明日には恥ずかしくなっているだろうけど、今日だけは、こんなやりとりも悪くない。


「それで帆乃はいま幸せか?」

「死ぬときまで、添い遂げたときまで内緒!」

「嬉しいけど、厳しい答えだなぁ」

「だってもっと一緒にいろいろ経験したいから! 今日を、いまを幸せだって決めちゃうのはもったいない!」

「それは小説のためにか?」

「私たちのためだよ!」


 夜道を走っている間に、俺たちは握る手を恋人つなぎにしていた。


 俺が引っ張るのではなく、並んで一緒に走り始める。


「じゃあ俺さ、たぶん才能ないから、俺がモデルになった話じゃないと演じられないんだ!」

「だったらまだまだいろいろ経験しないといけないね! 私、銀が主人公じゃないと書く気おきなーい!」

「俺も帆乃が書いたものじゃないと演じる気おきない!」

「それ役者を目指すものとしてどうなの?」

「そっちこそ小説家を目指すものとしてどうなんだよ?」

「私は、私が幸せな方を選ぶからそれでいいの」

「俺もだ。ずっと一緒にいて、いろんなことしよう!」

「もちろん。銀の言うことならどんなえっちなことでもなんでも聞いたげる!」


 髪の毛を振り乱し、汗の粒がおでこに張りつかせながら帆乃は全力で笑っている。


 本当に美しい。


 二人で笑っていると、どこまでも、どこまでも走っていける気がした。


 もちろん本当にこのまま電車に乗って二人で逃避行しようなんて思っちゃいないけど、この夜だけは、夜が明けるまでずっと二人で走っていたいと思った。


 世界の夜明けを、温かな朝日を見届けるのは、いつだって君のそばがいい。

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