第8話 若者②
舞い上がる気持ちを抑えながら、伸介は呼吸を整えて意識を集中させる。
境内というものは、それだけで何らかの技令を湛える場所であるのだが、殊にこうした人々の尊崇を集める有名な神社というのはその量も桁が違う。
とはいえ、そのような中でも微細な変化を捉えられねば司書としては落第である。
話をしながら変異のある場所を探っていくが、触れるのも差し控えられるような神々しさが邪を退けるように満ちており、歪な存在など見受けられない。
周りを見回しても、深々と拝礼をする男性が印象的であるだけで、技令士として警戒するべきところはない。
もっとも、若い男女が連れ立って参拝する姿というのが異質であるとされればそれまでであるが。
「あれ、ちょっと緊張してるの?」
「いや、緊張してるわけじゃないんだが、参拝の仕方とか覚えてるかな、って」
伸介がはにかんで誤魔化すと、美夏もまた笑ってそれに応える。
「大丈夫。神社とかだと、お参りの仕方が書いてあるから。それに、お賽銭と気持ちの方が大事じゃない」
「賽銭って、こんなとこまで金なのか」
「うん。地獄の沙汰も金次第って言うでしょ」
二人揃って五円玉を放り、静かに礼をして高らかに手を鳴らす。
首を垂れる合間に伸介は横を見遣ると、その整った顔立ちに沸き立つ邪念をどうしても抑えることができなかった。
車内に戻った伸介は役目を終えた喜びと、この先の予定変更に伴う不安とに苛まれていた。
それというのも昼食の話を出したところ、
「ご飯ならまだいいから、もっと色んなとこ見に行きたいな」
という美夏の一言で城彩苑行きが無くなってしまい、このまま次の目的地へ行っていいものかという悩みが首をもたげてきたのである。
二の丸駐車場からの急勾配を過ぎてからも、何が楽しいのかと思うほどに美夏の機嫌はいい。
日は間もなく天頂に届く頃合いであろうか。
悩みながらも大通りに出た伸介は、そこで決意を固めて白川沿いは三号線に躍り出る。
「よし、決めた。南の方に行こう」
伸介の言葉に美夏が笑顔で答えた。
国道三号線は九州を南北に縦断する大動脈であり、時に蛇行し、時に動脈瘤とも言える渋滞を起こしながら小倉から鹿児島までの主要都市を繋げている。
八女から熊本に至るまでは山間の道が続く一方で、熊本から宇土までは時に橋を挟みながら、開けた道が続く。
白川に寄り添った後は、加勢川、緑川、浜戸川を跨ぎ、九州新幹線の高架と並走する。
宇土駅を過ぎた辺りで右折すると、今度は「あまくさみすみ線」と付き合いながら、やがて
「わあ、輝きが広がってる」
助手席に座る美夏が思わず身を乗り出したのだが、初秋の陽光を浴びた海を前にしては仕方のないことであろう。
海より突き出した電柱は遠くへ連なり、やがて海苔ひびと交わる。
潮が引いたときであればまた違う顔も見せるのであるが、それはまた別の話。
浮世離れした牧歌的な景色に気をとられ、伸介は思わず宇土マリーナを通り過ぎてしまった。
ここで慌てた伸介であるが、
「そっから宇土、三角西港に……」
という浩一の言葉が天啓のように思い出され、そのまま手に汗を滲ませながらハンドルを握る。
美夏は歌うように声を上げている。
動揺を悟られぬようにしながら車を進める。
そうこうするうちに車は三角の突端に差し掛かり、そこで緩やかにブレーキを踏んで減速した。
剥き出しの岩肌が車窓から威圧し、海に迫らせんと身を乗り出す。
伸介はこうした時に無理をすることはなく、緩やかに曲がる。
後ろに迫る白い軽トラックが鼻先まで迫り追い立てるが、伸介は堂々として譲らない。
(人を乗せている。無理をしてたまるか)
意志が目に、手に宿り、やがて至った三角西港へも緩やかに入った。
産業遺産たる洋館と釣り人の連なるのどかさとの対比の中で、二人は昼を摂り、一時間半ほどを過ごした。
流石に緊張も程よく解けてきた伸介は、話を弾ませることができるようになり、帰路には海辺の景色を語り合うほどに余裕が生まれた。
そして、宇土アリーナで飲み物を買い求め、東へ北へと戻っていく。
西日を背にして進む深紅の車体は豊饒の黒い干潟と対を成す。
「でも、楽しかったよね、今日」
「ああ、終わってしまうのがもったいないぐらいにな」
少し遠回りをして日が沈み始めた頃、伸介は一路熊本駅の方に向けて進み、そのまま裏手へと入る。
下馬神社より坂を上り、それにつれて狭くなってゆく道が薄暮をさらに深くしていく。
やがて山の中ほどに差し掛かると、建ち並ぶホテルに、
「あら、今夜は帰さないつもり?」
と美夏にやられた伸介はその手汗を一層ひどいものとした。
それでも、苦手な離合を経て坂を上り詰めると、閉ざされた花岡山の駐車場があった。
「そうか、閉鎖されるんだな、ここ……」
伸介が一つ深いため息を吐く。
「眺めがいいから夜景の方が、と思ったのがいけなかったか」
思えば、今日一日何かとやらかしている。
その後悔が重くのしかかり、目頭が少しずつ熱くなっていく。
「なら、また今度連れてきてよ」
だからこそ、その意外な一言に思わず伸介は間の抜けた声を上げ、美夏の方に顔を向ける。
上がりきったサイドブレーキが合間を分かち、その向こうで飲み物を口にした美夏も伸介に顔を向けた。
「なんでそんなに落ち込んだ顔してんの? 私たち始まったばっかなんだから、また今度、一緒に来たらいいじゃない」
「そうは言っても、さすがに情けなくてなあ。俺も要領悪いのは昔っからなんだけど、それにしてもひどすぎる」
「それはそうかも。でも……」
シートベルトを外した美夏は徐に伸介へ近づくと左手を窓の下に押し当てる。
微かな甘い香りに息を呑む伸介は瞬きも忘れてしまうほど。
それを気にも留めぬように伸介のマスクに指を掛けた美夏は、やにわに引き摺り下ろし、その唇を伸介に押し当てた。
刹那の交わりに、伸介の心の蔵が飛び上がる。
「でも、そんな伸介くんだからいいんじゃない」
呆然と唇に手を伸ばした伸介は、甘い疲れと美夏の言葉に思わず目から流れるものを感じた。
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