第10章「永遠の闇」




1. 漣基れんき



 いつにない寝付きの良さで、翔凛が眠った。


 今日、三歳の生誕祭を迎えた翔凛は、昼間の儀式の疲れからか、寝台に行く前からすでに鈴瑠の腕の中でうとうととしていたのだ。

 いつもなら、毎夜鈴瑠が聞かせる話に目を輝かせ、なかなか眠ってはくれないのだが。


 健やかな寝息を確かめてから、翔凛の肩までそっと布をかけ、鈴瑠は立ち上がる。

 向かうのは奥の宮殿の中庭。

 それは奥の宮殿の住人、つまり『本宮』竜翔と『若宮』翔凛のためのまったくの私的な庭である。

 そこに、鈴瑠を待つ人物がいる。



 翔凛の祝いの日に、亡くなった芙蓉の弟、天子の第二皇子・漣基れんきがやって来ると知らされたのは、ほんの数日前のことだった。


 漣基は、都を離れることができない天子と、兄である第一皇子の代わりに、精力的に国内を視察してまわる活動的な皇子である。


 折良く近隣まで来ていることから、甥である翔凛の生誕祭に出席すると使いをだしてきたのだ。


 漣基が到着したのは一昨日のこと。

 その日の夜から、漣基はこうして夜の中庭に鈴瑠を呼びだしている。



 ここしばらく、竜翔は本宮として、鈴瑠は翔凛の養育係として、生誕祭の準備に追われていた。

 生誕祭に向け、自然と竜翔と鈴瑠が交わす言葉数も多くなっていったのだが、しかし、それは以前にも増して竜翔の心を締め付けていく結果になった。


 見せない笑顔、あわせない瞳、他人行儀な言葉使い、そして、絶対に口にはしてくれない自分の名前。


 距離を置いていればわからないことも、なまじ交わす言葉が多くなった分だけ、見てはいけないものを見、感じてはいけないものを感じてしまう。


 鈴瑠は相変わらず竜翔の事を『本宮さま』と呼ぶ。

 その落ち着いた声と落ち着いた物腰は、成年式のまま時を止めてしまったかのようなその外見と酷く反する。


 そして、それはあくまでも竜翔の前で、だけなのだ。


 竜翔は知っていた。

 籠雲の前での鈴瑠は、昔の鈴瑠となんら変わっていないことを。

 可愛らしい微笑みを見せ、自分のことを『僕』と言う、あの日のままの鈴瑠であることを。


 そして竜翔だけではなく、鈴瑠もまた、本心を悟られまいとするあまりに、極度の緊張を自身に強いていた。

 そんなときに現れた漣基の、太陽のような明るさとおおらかな態度に、鈴瑠は知らず安らぎを求めていた。




「翔凛は眠ったのか」


 中庭にはすでに漣基の姿があった。

 今宵は満月が明るく庭を照らしているから、燭台の数も多くはない。

 石造りのベンチに腰を下ろしていた漣基は、鈴瑠の姿を認めると、にこやかな笑顔を向けてやって来た。


 芙蓉の優しさとは正反対の精悍な顔つきに、逞しい身体。

 しかし、それらを押しつけがましく見せないのは、漣基自身が内部から滲ませている優しさの故かもしれない。それこそが、漣基と芙蓉が似ている点なのだろうか。


「はい。今日はぐっすりと。昼間のお疲れがでたのでしょう」


 鈴瑠もまた、いつもの緊張から解放されて少し疲れ気味の笑顔を向けた。


「すまなかったな、疲れているのに今夜も呼び出して」


 そう言うと、漣基はフワッと鈴瑠の肩を抱き、ベンチへと誘った。


「いいえ、漣基様のお話は楽しいですから…」


 それは本当のことだった。

 天子の代理として国中を巡回している漣基は、豊富な知識を持ち、またそれらを巧みな話術で聞かせてくれるのだ。


 この国は広い。

 しかし、拓けているところが多いわけではない。

 まして高度に発展している地域は、都と創雲郷の他には数が知れている。

 漣基はそれらの地域の他に、普通なら目の届かない場所にまで足を運んでいた。


「今夜は鈴瑠の話を聞かせてくれないか」


 抱いた肩を離さずに漣基がいう。


「私の話…でございますか?」

「そうだ。鈴瑠のことが知りたい」


 不思議そうな顔を向けた鈴瑠に、漣基はいたずらっ子のような笑みを見せた。

 竜翔の三つ年下の従弟、漣基は大人びた容姿を持つのに、時にはこんな顔も見せるのだと、鈴瑠はおもしろそうにその表情を見つめた。


「私は…生まれてすぐに花山寺の門前に捨てられていました。そして、座主の籠雲様に育てられ、十五の歳に本宮様への終世誓約をいたしました…」


 鈴瑠はそこで言葉を切った。


「それで?」


 漣基は先を促したのだが、鈴瑠は小さく首を振った。


「残念ながら、それだけです。これが私のすべてです」


 言いながら空を仰ぐ。

 月の明かりが強すぎて、星が見えない。

 夜毎姿を見せる、吉兆の星も、災いの星も、今夜は月明かりの背後に、気配を埋めている。


「三年の間、行方がわからなかったと聞いた…」


 ポツッと言った漣基の言葉も、鈴瑠には予想が出来ていた。


「あれは…」

「いや、いい。詳しいことは泊双から聞いているから。…その三年間に、姉上が嫁いでいたという訳か…」


 漣基は姉想いの皇子だったと聞いていた。


「芙蓉様とは、一度だけお会いできました。もっと、お側にいたかったです…」


 知らず、言葉が涙で震えてしまった。

 無理に命を引き延ばし、苦しめてしまった芙蓉の三年間を思うと、いつも涙が止まらなくなる。


「鈴瑠…」


 漣基は、肩を震わせる鈴瑠をきつく抱きしめた。


「姉上を恨んではいないのだな…」


 思いもかけない言葉に、鈴瑠は弾かれたように顔をあげた。

 その表情に、漣基は安堵したように微笑み、何かを言おうとする鈴瑠の唇を、自分の唇で塞いでしまった。


 一瞬身体を固くする鈴瑠。

 しかし、すぐに抗い始めたのを、漣基はさらに強く拘束した。

 そして口づけを深くしていく。

 やがて鈴瑠が抵抗をやめると、漣基もまた、ゆっくりと鈴瑠の身体を離した。


「竜翔は、お前に執心だったと聞いていた」


 静かに言う。


「あの日がなかったら、姉上がここへ嫁ぐことはなかったのだろう…」


 暖かい親指で、鈴瑠の涙をそっと拭う。


「都を離れる日、姉上は私に言ったんだ。『大切な約束があるの』ってな。それは幸せそうだった。私はてっきり、元気になって竜翔の元へ嫁げることが嬉しいのだと思っていたのだが、姉上の最後の手紙を読んだとき、姉上はもっと大切な何かを抱えていたんじゃないかと思った」


「芙蓉様の最後の手紙…」


 頬を大きな手でくるまれたまま、鈴瑠は呟いた。


「姉上は誰かが帰ってくるのを待っていた。私は…それを確かめにここへ来た。もちろん、竜翔とは何年も会っていなかったし、翔凛にも会いたかった。 けれど、それよりも私は、姉上が誰を待っていたのか知りたかったんだ」


 漣基は、今度はそっと鈴瑠を抱きしめた。 


「お前を見たとき確信した。姉上はお前を待っていたんだ…」


 ジッと見つめられた瞳は、逸らすことが出来ないほど真剣に絡んでいた。


「姉上とお前の間に何があったのか、教えてはくれないか」


 鈴瑠は絡め取られたままの視線をふと和らげた。


「芙蓉様は、翔凛様の養育係に私をお選びになりました。私が三年の時を経て戻ってきたのは、本当に単なる偶然です」


「鈴瑠っ」


 思わず声を荒げた漣基に、鈴瑠は悲しそうに瞳を伏せて見せた。


「信じてはいただけないのでしょうか…」


 睫を震わせるその姿は、漣基の胸を突いた。


「…すまない…。許してくれ…」


 大きな体で鈴瑠の小さな身体を抱き込む。

 柔らかく、優しく。


「私は、翔凛様のためにここにおります。戻って来られたのも、きっと天空様のお導きです」


 そう、自分は翔凛を守り育てるために帰ってきたのだ。

 竜翔を愛するためではない。

 そう何度も繰り返す。自身に言い聞かせるように。


「鈴瑠…」


 漣基は募る愛しさを押さえきれずに、いつまでも鈴瑠を抱きしめていた。

 

 そして、月明かりに照らされる二人の姿を、ジッと見つめる暗い瞳があった。



 深夜、鈴瑠が部屋へ戻ると、翔凛が勢いよく掛布を飛ばしていた。

 その様子に微笑んで、鈴瑠はずれてしまった布を丁寧にかけ直し、再び静かに寝室を出る。


 向かう先は、もっとも奥の祭壇、鈴瑠が地上人としての命を終えたところ。

 鈴瑠は毎夜、自身の就寝前に必ず祈りを捧げに祭壇へ行く。

 そしてそれは今夜も同じように…。



 祭壇の間へ入った鈴瑠の耳に、何かが聞こえてきた。


 人の声、押し殺すように、誰かを呼んでいる。

 声はテラスの方から聞こえてくる。

 声の主は…。その声が呼ぶ名は…。


「鈴瑠…」


 想いのすべてを詰め込んだその呟きに、鈴瑠はきつく唇を噛みしめた。

 そうしないと、自分もまた、その人の名を呼んでしまうから。


『竜翔』…と。


 瞼が熱くなる。しかし、ここで涙を流すわけにはいかない。

 口にしてはいけない名をグッと飲み込み、踵を返そうとした鈴瑠に、声がかかった。 


「りんりゅ…か?」


 竜翔の問いかけに、鈴瑠は静かに深く息を整え、出来るだけ静かに応える。


「お邪魔をいたしまして申し訳ありません」


 竜翔が祈りを捧げていたのではないくらい、みればわかることなのに、それでも鈴瑠はそういい放った。  


 沈黙が居座る。

 その間ずっと、鈴瑠は背後に突き刺さるような眼差しを感じていた。

 しかし、振り向くわけにはいかない。

 今、竜翔がどのような表情で自分をみているのか、嫌と言うほどわかっているから。



 やがて、竜翔が大きく息を吐いた。


 芙蓉を愛した三年間を後悔するつもりはない。そしてその結果、翔凛という命に恵まれたことにも、心から感謝している。

 しかし、竜翔の中に住む人間はただ一人。

 その人は今、目の前で、背を向け全身で自分を拒絶している。

 もう二度と、あの愛らしい顔で自分に微笑みかけてくれる日は来ないのだ。


 そう確信したとき、竜翔の心を余すところなく絶望が覆う。


『永遠に失ったと思っていた頃に比べると、今こうして目の前に鈴瑠がいるだけでも…』と思っていた。


 しかし、それが大きな勘違いだったと竜翔は思い至る。

 自分は、鈴瑠の心を、もう永遠に失ってしまったのだ。

 やはり自分の愛する鈴瑠は四年前に死んでしまったのだ。


 そして、殺してしまったのは…自分なのだ。


「鈴瑠……四年前、お前がここから落ちたとき、私も後を追えばよかった…」


 思いもかけない竜翔の言葉に、鈴瑠の肩が強ばる。


「そうすれば…お前一人を辛い目にあわせずにすんだのもを…」


 鈴瑠の胸が、不吉な予感に警鐘を鳴らす。

 今の竜翔の状態は普通ではない。

 恐る恐る振り返る鈴瑠の目に、表情をなくした竜翔が映った。


「この郷も、翔凛も、お前がいれば大丈夫であろう…」


 そういった竜翔の身体は、すでにテラスの手すりを越え、そして……。


 竜翔の心は、四年前を求めて……飛んだ。


「竜翔っ!!」


 落ちて行く身体、遠ざかる意識の中で聞いた、鈴瑠の声……自分の『名』を呼ぶ声に、竜翔は幸せそうに微笑んだ。


 鈴瑠…生涯共にあろう…。


 誓いの言葉は、呟きとなって、谷底深く、落ちて、いく……。



2.永遠の闇


 確かに飛んだ。

 この身体は落ちていったはず。


 ぼんやりとした意識の隙間に入ってくるのは誰かの声。



『はい…祭壇の間のテラスで…』

『倒れておられたと…』


 しかし、その声はまた遠ざかる。


 落ちていく自分の身体を誰かが抱いてくれた。

 弛緩しきった身体を、力一杯抱き留めてくれた誰か…。


 細いが、暖かい腕だった。

 そして耳元に囁かれたのは…『竜翔…』という言葉。

 あれは…鈴瑠の…声?



 体中に虚脱感を覚えた。

 鈴瑠は知らず、自身の身体をさすっている。

 自分一人飛ぶのは雑作もないことだが、自分より一回り以上大きな竜翔を抱き留めるのは、かなりきつかった。 

 落下をくい止めるのに精一杯で、谷底から宮殿まで飛ぶのにはかなり時間がかかった。


 深夜でよかったと思う。

 こんなところを誰かに見られていたら…。



「鈴瑠…」


 竜翔の様子を見ていた籠雲が、鈴瑠の元へやって来た。


「何があった? 泊双には『テラスで倒れていた』と言ったそうだが」


 穏やかな表情だが、その視線は鋭い。

 鈴瑠は、やはり籠雲は騙せないのだと諦める。


「…テラスから…身を投げられたのです…」


 出来るだけ静かに言ったが、それでも籠雲は大きな衝撃を受けた。


「身を投げたとは…。ご自分の意志でということか」


 鈴瑠は籠雲の目を見て頷いた。


「追いつめたのは、僕です…」

「鈴瑠…」


 切れんばかりに唇を噛みしめるが、赤いものが滲んでくる気配はない。


「帰って来なければ…よかった…」


 絞り出すように呻いた鈴瑠はそのまま床に膝をつき、崩れた。

 籠雲は無言でその身体を支え、抱き起こしてやる。


「僕さえ帰ってこなければ、竜翔があんなに苦しむことはなかったのに…」


 椅子に座らされながらも、鈴瑠は荒く息を継ぎながら訴える。


「鈴瑠、お前はなぜそんなにも竜翔様を避けるのだ。私には理由がわからない」


 それは、泊双にも漣基にもわからないこと。

 今まで何度訊ねられようが、一度も答える事はなかった。


「それは…」


 竜翔が目の前で身を投げたという事実が、鈴瑠の心をも崖っぷちに立たせていた。


「僕たちがまだ、想い合っているから…です」

「鈴瑠…っ」


 籠雲はらしくもなく、鈴瑠の両肩を掴んで揺すった。


「それではわからない。私たちにも、竜翔様にもっ」


 沈黙の後、鈴瑠が言葉を吐いた。 


「僕は…あの日、死んでしまった…そのままなのです…」

「な…何を…」


 驚愕する籠雲に鈴瑠はゆっくりと話を始めた。


「僕は確かにあの日、地上での命を終わりました。今ある身体は見せかけだけのもの。僕は天の子ですから、この命は天にあります。だから、僕はもう死なないし、歳も取らない」


 鈴瑠は籠雲にそっとしがみついた。

 自分の身体を支えるようにして。


「僕は、地に住む人とは愛を結べないのです…」


 聞き取れないほど小さく漏れた告白に、籠雲はその身体をしっかりと抱き留めることで応えた。


「竜翔様の想いには応えられない…と言うことなのか?」


 鈴瑠は静かに頷いた。


「地に住むものは『有』、天に住むものは『無』。…僕と愛を結ぶと言うことは、その人の『死』を意味します。それも…『永遠の死』を…」


「『永遠の死』…?」


 不安げに眉を寄せる籠雲に、鈴瑠は『そうです』といい、次第に落ち着きを取り戻し始めてきた。


「人は皆、死ぬと輪廻へ帰っていきます」

「それは…生まれ変わると言うことか?」


 天空信仰の中で、『輪廻』と言うものはあまり大きな意味を持ってはいない。

「生前」に浄く生きることを本分とし、「死後」は安らかな世界が待つだけとしているためだ。


「どのような人も、必ず輪廻へ帰り、いずれまた生を受けます。けれど、僕たち『無』と交わると、その人は輪廻へ戻れず、永遠に闇の中を彷徨うことになります」


 鈴瑠は顔をあげてはっきりと言った。


「これが…『永遠の死』です」


 重く長い沈黙が辺りを支配した。

 籠雲も口を開こうとはしない。


「愛しているから…そんな目にあわせたくない……」


 それがすべてだった。 


 やがて、籠雲が鈴瑠の頭を抱き、あやすように髪を梳きはじめる。


「想いを交わして愛を結ぶと…竜翔様は二度と生まれ変われないということなのだな…」


 その言葉を肯定するように、鈴瑠が悲しい瞳で籠雲を見上げる。


「お前は…鈴瑠、お前はどうなるのだ…」


 籠雲は親として、鈴瑠の身を案じている。

 鈴瑠にはどのような災いが降りかかるのか…。


「僕には…自身のことはわからないのです」

「わからない…?」


 天の子に、『わからない』などと言うことがあるのだろうか。


「僕はただ、自身に課せられた使命を果たすだけなのです。その後、どうなるのか…。永遠に生きるのか、それとも永遠に死するのか…。それすらも僕にはわからないのです」


「そんな…」


 それではあまりにも残酷ではないか、と、籠雲は身体を固くして息を詰めた。

 しかし、目の前の鈴瑠は、諦めたように目を伏せている。


「では…鈴瑠、お前の使命とは?」


 再び訊ねた籠雲に、今度こそ鈴瑠は首を振った。


「いずれ、お話しする日が来ると思いますが…今は、申し上げられません」


 一片の迷いもない口調。

 籠雲はこの事については、これ以上問うても無駄と悟る。


 しかし、もう一つ聞いておかねばならないことがある


「竜翔様は…何とする…」


 身を投げてまで鈴瑠を追った竜翔を、このままにしてはおけないことくらい、鈴瑠にもわかっていはいた…が…。


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