第8章「二つの星」


1. 吉兆の星、災いの星


 一日の執務を終えたあと、竜翔がテラスから郷を見おろす。 

 その光景は以前と変わらない。

 しかし、見つめる先の花山寺に、愛しいものの姿はない。


 鈴瑠がこの世を去って、三年の時が流れた。


 二十三歳になった竜翔には、あの頃の溌剌とした面差しが消え、代わりに不思議な落ち着きと穏やかさが漂っていた。


 鈴瑠を失ったときには酷く荒れた竜翔であったが、やがて統治者としての自覚を取り戻していた。


 そんな竜翔の様子を、本宮や郷の者たちは『芙蓉様によって心の傷を癒されたのだ』と信じていた。

 それはある意味、間違いではない。

 しかし、まったく正しいわけでもなかった。



「竜翔様」


 背後から穏やかな声がかかった。

 籠雲である。

 腕には二歳になる若宮、翔凛しょうりんが抱かれている。


「眠ったか…」


 竜翔は、我が子を穏やかな眼差しで見守る。

 芙蓉との間に出来た子、将来この郷を統治するであろう子、翔凛。


「芙蓉は…」

「呼吸が安定されておられます…。今夜は苦しまれることはないかと…」


 籠雲の説明に竜翔が安堵の息をつく。


 竜翔に嫁して一年の後、芙蓉は翔凛を産んだ。

 そして、再び病の床に伏してしまったのだ。


 幸せにしてやれなかった鈴瑠の分まで愛を注いでいこうと決めていたのに、芙蓉の病状は悪くなるばかり。

 籠雲も懸命の看護を続けている。


 幸い翔凛が健康に育っているのが、竜翔や籠雲のせめてもの慰めであった。



 籠雲は腕の中ですやすやと眠る翔凛に柔らかい眼差しを向ける。

 こうしていていつも感じるのは、まるで、二歳の頃の鈴瑠を抱いているような錯覚に陥るということだ。    

 翔凛は、鈴瑠によく似ていた。何の血の繋がりもないというのに。


 しかし、籠雲は思う。

 まず、芙蓉の持つ雰囲気が鈴瑠によく似ているのだから…と。


 初めて芙蓉に挨拶をしたときには、驚くのと同時に安堵した。

 話し方、笑い方、仕種…どれをとっても鈴瑠の雰囲気だったのだから。

 竜翔が立ち直ってくれるであろうことは、その時に確信した。 



「翔凛は…鈴瑠に似てくるな…」 


 ぽつっと竜翔が呟いた。

 芙蓉を迎えてから、竜翔は滅多に鈴瑠の名を出さなかった。


「竜翔様…」


 それは、芙蓉に配慮してのこと…というのはよくわかっていた。

 しかし未だ、竜翔は忘れてはいない。

 心の底に住みつくのは鈴瑠、ただ一人。


「芙蓉に似ると、そうなって当然か…」


 微かに苦笑して見せ、竜翔は小さな翔凛を、籠雲の手から受け取った。

 健やかに寝息をたてる翔凛が僅かに身じろぎ、小さくくしゃみをした。


『りん…』


 微かに聞こえたのは…。


「鈴の…」


 竜翔と籠雲は、まさかという顔を見交わす。


「竜翔様…今までに…」

「いや、初めてだ」


 籠雲の問いに、竜翔は被さるように即答する。

 その時…。



「?」



 日が落ち、薄闇に包まれ始めた空に、細い光の蹟が走った。


「星が…流れたのか…?」


 竜翔は腕の中の翔凛を守るように抱きしめる。


 光が去ったあとに、一際輝く星が現れた。


「あれは…吉兆の星…」


 籠雲は星を読むことにも長けている。


「良い兆し…か」

「はい、そのように読みましたが…」


 応える籠雲の声が震えていた。


「籠雲…?」


 いつも冷静なこの『導き手』が声を震わせたのは、鈴瑠の身に降りかかった悲劇を知ったときだけだったが…。


「あ…いえ、何事もございませんが…」


 そう言って膝を折った。

 御前を辞する、という挨拶だ。


「あ…ああ、ご苦労だった…」


 竜翔の声を最後まで聞き、籠雲は早足で去っていった。





 花山寺へ帰る道。

 慣れた道なのに、息が上がる。


 今しがた目撃した光の蹟。

 あれは鈴瑠が去ったときに見たものと同じだった。


 そして、そのあとに現れた星。

 それは確かに吉兆の星だったが…。


 しかし籠雲は気づいていた。

 そのずっと後方に、災いの星もまた、同時に現れていたことに。


(鈴瑠…いつ…いつ戻ってくるのだ…)





 そして翌の明け方のこと。

 籠雲はまたあの夢を見た。


 天空から光が降りて籠雲の前に立つ。

 光の中を見ようとするが、目もくらむまばゆい光に、目を開け続けていることすら難しい。


 光がおごそかに言う。


 --御子が降り立つ

   最期の使命を果たすために

   心優しき私の御子が、この地で幸せを分かちあわんことを願う



 光は去った。現れたときと同じように、音もなく。


 寝台から飛び跳ねるように起きた籠雲は、全身に汗を滴らせていた。

 頬を伝うのは、汗ではなく、涙なのか。


(鈴瑠が…帰ってくる…?!)


 あの日から三年が過ぎようとしていた。


 その日一日の快晴を約束するかのように、輝く朝日が昇り始める。







「よっと…」


 まるで少女のような面差しの少年。

 漆黒の髪に黒曜石の瞳。伸びやかな手足は、華奢なままだ。


 彼の上に三年の月日は流れてはいない。



「あっ」


『ボチャン』


「うそっ…」


 目指したのは静泉溜の森。

 最奥の小さな泉のほとり。


 そう、『ほとり』を目指していたはずなのに…。


「どうしてはまるかなぁ…」


 びしょ濡れである。 


「自力で降りてくるのは初めてだからなぁ…。僕、ヘタだな、空飛ぶの…」


 衣を脱いで、絞り、手近な木の枝に掛ける。

 幸い穏やかに風が吹いている。程なく乾くだろう。


 ここは相変わらず人の気配がない。

 しかし、所々に見られるのは動物が草を噛んだ跡。


「秀空だ…」


 竜翔の愛馬・秀空の気配が僅かに残されている。 


 竜翔はこの場所を忘れてはいないのか。

 嬉しさと同時に、胸に痛みが走る。


「竜翔…」




 まだほんの少し湿り気を帯びた衣を纏い、少年は郷へと入っていく。

 森を抜けてすぐのところ、巡礼者のために、寺院への供物を売る店がある。

 一番前に並ぶのは、郷で栽培されている可憐な花々で作られた色とりどりの供花だ。


 籠雲の好きな花があった。

 ジッと見つめていると、店の奥から老人が出てきた。


「いらっしゃい。綺麗な花だろう? どこの寺院へお参り……」


 もちろん顔見知りの老人だ。

 よく可愛がってもらい、いつでもおやつを用意してくれていた、優しい人だ。


「りん…」


 見上げた老人が絶句した。


「…変わらないね。元気そうで…よかった」


 そう言って、可愛らしい笑顔を向ける。


「ね、このお花もらっていってもいい? 僕、今何も持ってないんだ。後で持ってくるから」

「い…いや…花山寺へ供えるよ…。も、もってお行き…」


 老人は目を見張ったまま、漸く言葉を繋ぐ。


「ほんと? ありがと! また遊びに来るねっ」


 駈けていく後ろ姿を呆然と見送る。


「りん…りゅ…?」




 花山寺の御堂。

 明け方の夢を引きずったまま、籠雲は祈りを捧げていた。


 心の中で、鈴瑠の『意味』を問う。

 吉兆の星と災いの星、同時に現れた意味を問う。


 ふと空気が揺らいだ。


 背後に感じるのは、鮮烈なまでに浄い『気』。

 このような『気』を発する人間を、籠雲は一人しか知らない…。


「りんりゅ…?」


 小さく声にしてみた。


「ただいま戻りました。籠雲様」


 届いた声は幻ではないのか。



 ゆっくりと振り返る籠雲。

 視界に入ったのは、ここを去ったあの日からまったく変わることのない、愛らしいままの鈴瑠。


「鈴瑠…」


 立ち上がり、ゆっくりと近づく。

 鈴瑠もまた、ゆっくりと近づいていく。


「ご心配を…おかけいたし…」


 言葉の途中で、鈴瑠は籠雲の腕の中に抱き込まれた。


「信じていた…鈴瑠は必ず戻ると…信じていた」


 力強くまわされた腕が、鈴瑠の緊張を解いていく。


「ごめんなさい…ごめんなさい…」


 何度も繰り返し、鈴瑠は自分の育った場所に懐かしい温もりを感じていた。



 鈴瑠が帰ってきたらしいという話は、あっと言う間に郷中に知れ渡った。

 鈴瑠自身が語った事実として、『断崖から転落して川に流されたあと、遥か下流、もうこの国ではないところまで流されたが奇跡的に救い出され、身体の回復に一年、帰郷に二年がかかった』という話が伝えられた。


 その話を意図的に流したのは、籠雲だ。




「鈴瑠、教えてはくれまいか」


 深夜の花山寺、私室で籠雲は鈴瑠にそう切り出した。


 日が落ちるまで、花山寺は一目鈴瑠に会おうと大勢の僧や郷のものが押し掛け、大変な騒ぎだった。

 やっと落ち着いて二人が話せるようになったのは、もう翌日になろうとしている刻限だ。


 今日、本宮は何の動きも見せなかった。

 郷の騒ぎは十分に伝わっているはず。

 恐らく竜翔は、床に伏せる芙蓉に配慮をしているのだろう。


 鈴瑠は穏やかな眼差しで籠雲を見つめる。


「僕が…戻った意味…ですか?」


 籠雲は静かに頷いてみせる。


「籠雲様はご覧になりましたね」


 鈴瑠は視線を夜空へと向ける。

 その先にあるのは…。


「星…のことだな」


 籠雲もまた、星へと視線を移す。

 昨夜に続き今夜も吉兆の星と災いの星が、近くに、遠くに、重なり合うように輝いている。


「僕は、翔凛にすべてを託すために帰ってきました」


 籠雲は双眸を見開いた。


「鈴瑠…お前は翔凛様のことを…」


 鈴瑠がいない三年間に何があったか。

 正直、籠雲は竜翔からの使いが来なかったことに安堵していたのだ。


 すでに、芙蓉という后を迎え、翔凛という世継ぎをもうけている竜翔。

 鈴瑠に事実を知らせることは、あまりに酷なことだと思うのは、育ての親として当然の情であろう。


 だが、表情を暗くした籠雲に、鈴瑠は穏やかに笑って見せた。


「大丈夫。僕は…大丈夫です」


 期せずして別れてしまった三年前、あの時に比べると、鈴瑠はずっと大人びた表情をする。

 しかし、その外見は三年前と何ら変わっていない。

 鈴瑠は今年十八歳になるはずだ。 

 しかし、目の前の鈴瑠は成年式のまま。

 少年がもっとも成長する時期だと言うのに。


 籠雲は一つ嘆息する。

 鈴瑠は時を止めてしまったのだろうかと。


 ふと、明け方の夢が蘇った。



『心優しき私の御子が、この地で幸せを分かちあわんことを願う』



 鈴瑠の幸せとは…。


「鈴瑠、お前はまた、この地で生きていけるのだな…?」


 それは、籠雲らしくない、気弱な物言いだった。


 鈴瑠はそっと頷く。

 しかし、浮かべたその微笑みが、悲しほど優しかったことに、籠雲は言葉をなくしてしまった。


「もう、どこへも行きません」


 そう、鈴瑠はもう、何処へも行かない。

 何処へも行けない。


 終焉の日まで、この地に在り続けなければならないのだから…。






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