第38話 嘘つき

「……っは、……っ!!」


 力の入らなくなった体はぐらりと揺れて前のめりに倒れ、少し遅れて激しい痛みが全身を駆け巡る。


(痛い……痛い、痛い……!!)


 何が起きたのか、パニックに陥った頭では考えることもままならなかった。


「はっ、はぁっ……!」


 ――……背中だ。そこを中心に、激痛が駆け巡っている。

 恐る恐る手を伸ばせば、なにかぬるりとしたものが指先に触れた。


「……?」


 耳の奥で反響する心臓の鼓動を聞きながら、ゆっくりと自分の手を確認する。付着していたのは真っ赤な液体で、『これ』が何なのかは嫌でも理解できた。


(なんで、血が……)

「おかえりー! やっと帰ってきたんだな、遅いよ!」


 耳鳴りに混じって、聞き覚えのある声が耳に届く。

 重い頭を持ち上げると、


「誰かに殺してもらったんじゃないかって、心配で心配で……そろそろ俺から迎えに行こうかと思ったぜ」


 そこには、冷たく笑うジャックがいた。

 口元に綺麗な三日月を浮かべているが、刺すような目で私を見下ろしている。


(なに? なんで、)


 そんな彼の手に握られていたのはいつか見た剣で、切っ先からぽとりぽとりと赤いものが滴っていた。

 状況から考えられる事は一つしかない。私を斬りつけたのは、


「なあ? アリス」

「……っ!?」


 気付いた瞬間、全身の肌が粟立って「逃げなくてはいけない」と心は焦るのに、体が言うことを聞かなかった。

 起き上がろうと少しでも力を入れれば、駆け巡る激痛で動けなくなる。

 ジャックはそんな私を静かに見下ろしていたかと思えば、二、三歩足を進めてすぐ目の前まで来るとその場に屈み込んだ。


「な、なん……」

「何でこんなことするの、って?」


 私の顔を覗き込み、首を傾げて爽やかに笑った直後、


「うーん……自分で考えなよ」


 彼は、凍てつくように冷たい表情へ変わる。


(逃げなきゃ……痛い、怖い。時計屋さん、助けて……)


 ジャックの視線から逃げたくて俯くと、顔のすぐ真横に勢い良く剣を突き立てられた。


「ひっ……!」

「寂しいから、ちゃんとこっち見てよ」


 言われるがまま彼を見上げると、


「よしよし、いい子だな! 大丈夫。“残念だろうけど”まだ殺したりしないからな。アリスには、聞きたいことがあるんだ」


 なだめるように優しく頭を撫でられて、彼が何を考えているのかさらにわからなくなる。

 同時に押し寄せる強い恐怖から涙が溢れると、ジャックは喉の奥で小さく笑った。


「泣いてるアリスも可愛いな。まるで『生』に執着してるみたいな反応されて、俺はちょっと困ってるけどな!」

(なに……? なにを、いってるの?)


 まばたきをすると同時に彼の片手が私の首を掴み、気道を塞ぐように力を込めてくる。


「――っ!? あ、ぐ……っ!!」

「……俺の質問に答えてくれたら、アリスの頼みも聞いてあげるよ。騎士として……アリスとの『約束』も、ちゃんと守る」

(助けて、もらえる……?)


 わかったと言う代わりに必死で頷けば、ジャックは手の力を少しだけ緩めてくれた。


「じゃあ、単刀直入に聞くけど……キングはどこに行ったんだ?」

「!!」


 行き先なんて、そんなことは私が聞きたい。

 いいえ……どこかに行ってしまっただけなら、どれだけよかっただろうか。


(時計屋さん、)


 彼は、もうどこにもいない。


「……え……ちゃ、った……」

「……消えた?」


 時計屋さんに執着していたジャックは、もちろん驚いた顔をして見せる。


「それは想定外だったな……そうか、消えちゃったのか……」


 彼は独り言のように小さく呟いて私の首から手を離し、代わりに両手で脇の下を持ってひょいと抱き起こしてから自分の腕の中に閉じ込めた。


(……? なんで抱きしめられて、)


 不思議に思ったのも束の間。


「〜〜っ!?」


 今までにないほどの激痛が駆け巡り、その原因に数秒遅れて気がつく。

 ジャックが、私の背中を触っている。傷口を、指先で弄んでいるのだ。


「い、やっ……! あ、ああっ……!! い、痛いっ! やめて!!」

「はいはい。暴れない、暴れない」


 咄嗟に彼の体を突き飛ばそうとするけれど、ジャックに強く抱き寄せられてかなわなくなる。


「い、だっ……! 痛い、いやっ!! は、離して、痛っ……!!」

「大丈夫、落ち着けって。な? 言っただろ? アリスのお願いも聞いてあげる、約束もちゃんと守るってさ?」


 言っている意味がわからない。

 私は、こんなことを願った覚えはないのに。「死にたい」とか「殺してほしい」なんて、そんなこと、


(……願った、はず……)

「俺だって、本当はこんな事したくないんだぜ? でもさあ、大事な人に頼まれたら断れないよな。騎士ってそういうものだ」


 そんなわけが、ないのに。

 そう言って、否定すればいいだけなのに。


(なんで、わたし……)


 どうして……「やっぱりジャックは約束を破らない騎士だわ」と、安心しているのだろうか?


「こんなくだらないゲームなんか、もう終わっていいと思うんだよな。俺の大好きなキングも消えちゃったし……アリスもそう思うだろ?」


 大好きなキング。

 瞬間、体中に流れる全ての血が頭に集まったかのような感覚に陥る。

 だってジャックは、まるで……この国で自分だけが時計屋さんを、


「……たし……私、だって……」

「うん、何?」

「ゔ、あ……っ!!」


 ぐちゅりと嫌な音が耳に届くけれど、構っていられなかった。

 腹が立って仕方がない。私だって、


「……っ、私、だって……私だって、時計屋さんのことが大好きだったわよ!!」


 かたく目を瞑り思い切り叫ぶと、心の中でつっかえていた『何か』の外れる音がする。


(……大好き)


 そうだ。やっと、伝えたかった言葉を思い出せた。

 時計屋さんだけじゃない。花屋さんのことだって、みんなみんな……大好きだった。

 好きだから、消えてしまったらとても悲しくて、苦しくて。辛いから、現実に起きたことだと認めたくなかった。

 それなのにジャックは、まるで自分だけが時計屋さんのことを『そう』であるかのように語って……だから、悔しかったんだ。


「ははっ……いつまでも躊躇ってたらこうなるって、わかってたんだけど……あーあ、“あの時”殺しておけばよかったかな。しくじった……それとも、ダイヤの騎士だってアリスに嘘ついてた罰かな……」


 ジャックがぼそりと言葉を落とした途端、今まで背中から駆け巡っていた痛みが急激に薄れる。

 はっとして目を開くと、彼の体からは時計屋さんの時と同じようにたくさんの光の粒子が出始めていた。


(……どう、なって……)

「約束、守れなくてごめんな。アリス……こういう、真っ先に忘れた方が良いことほどしっかり覚えてるんだから俺って駄目だよな!」


 困ったように笑う彼は泣いているみたいに見えて、


「やっぱり……大好きな子を殺すなんて、『俺』には難しかったみたいだ」

(ジャック……?)


 その言葉の意味も、約束の内容も……何も聞けないまま、


「……嘘つきでごめん」


 彼は――目の前から消えてしまった。

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