第24話 小さな子供


 初めて出会った時から時計屋さんは、魚の死んだような……常に眠そうな、とにかく気怠そうな目をしていた。

 まるで「全てがめんどくさい」と訴えているような瞳。


「……っ、」


 それが今は、『死んだ目』をしている。比喩ではなく、文字通り瞳が死んでいるのだ。


「と、時計屋さん……?」


 呆然と立ち尽くしたまま、どこか彼方を見つめている時計屋さんに恐る恐る近づき声をかける。

 指先でちょんと腕をつついた瞬間、『チョコチップ』と書かれたお菓子の袋が彼の手元からするりと離れ、小さな音を立てて床に着陸した。


「……? 何も入ってない?」

「そう、何も入ってない……何もない……買い置きも、もうどこにもない……全部なくなってしまった……俺はなんで気付かなかったんだ……? 駄目だ……この世の終わりだ……」


 普段、どちらかというと口数の少ない時計屋さんにしては珍しく舌が回る。

 ボソボソと呟いていたかと思えば、おもむろに胸ポケットから懐中時計を取り出し拳銃へ変化させ、銃口を自分のこめかみに当てつつ涙をぽろりと流して一言。


「チョコチップ……」

「ちょっ、ちょっと……!!」


 すんでのところで拳銃を取り上げ、時計屋さんの自殺は未遂に終わらせることができた。

 たかがお菓子一つなくなった程度で大の大人……それも男性が嗚咽を漏らして泣いている光景に、思わずため息が口から漏れてしまう。


「チョコチップ……が、あればいいのよね? 私が買って来るから、時計屋さんはとにかく何も手に持たないで、私が帰るまで大人しくして待っていて?」




 ***




 と、言い残して時計屋さんの家を出るところまではよかったのだが、道中で帽子屋さん他一羽に捕まってしまった。

 現在、隣の席には心底幸せで嬉しそうな笑顔を浮かべ、並々と注がれた紅茶やら大きなケーキを差し出してくるイカレウサギが……そして、少し離れた上座にはつまらなそうにマフィンを頬張る帽子屋さん、その近くに気持ち良さそうな寝息を立ててるネムリネズミがいる。


「ねえねえ、アリス! アリスアリス! このクッキーも美味しいよ! 俺のもあげる!」

「あ、ありがとう……」


 若干反応に困りつつも、差し出された大皿からクッキーを一枚受け取って笑顔を返した。


「えへへ、どういたしまして! あっ……ねえねえ、アリスアリス!」

「なあに?」

「アリスはさ、俺を愛してるよね? そうだよね?」

「……え?」


 愛してる。

 なぜだろうか。イカレウサギが私に投げた問いかけの意味を、頭の中で上手く分解できない。


(どういう意味?)


 それは決して「彼は一体何を言っているのかしら?」という馬鹿にした意図で抱いた感情ではなくて、そのまま――「愛してる」という言葉の意味が、全く理解できなかった。

 まるで、生まれて初めて聞いた言葉のような。


「俺はね、『誰か一人を愛すること』ってどんな気持ちか知らなかったし今でもよくわからないけど、今すごくすごくアリスにそう思ってるってことは俺はアリスを愛してるって事で、アリスも俺を愛してるって事だよね!」

「……イカレウサギもよくわからないって? どうして?」

「どうして……? だって、俺が自分で決めた事じゃなくて、アリスがくれた気持ちだから……そうだよね?」


 質問に対して首を傾げられ、どう答えるべきなのかわからない。

 私があげた?何を?いつ?


「俺に用意された役割は『アリスだけをずっと大事にして愛すること』だから、深い意味とか理由なんてわからないし特別知りたいとも思わないけど、アリスがいるから幸せだよ。アリスが居たらそれだけでいい……他の奴なんて生きてても死んでても、俺のことを好きでも嫌いでも全部どうでもいいんだ! だってアリスが俺のことを愛してるから! そうだよね?」


 絶えず浮かべられる無垢な笑顔が、なぜか恐ろしいと思えてきた。


「イカレウサギ……待って、私……」

「アリスは俺を愛しているから、そう決めたんだよね? 俺にその役割をくれたんだよね? 間違いない、そうに決まってるよ。だって、アリスは愛されたいんだもんね? 特別だって思われて、大切にされたいもんね? 知ってるよ、大丈夫だよ。俺がずっとアリスのことを大事にするから。愛してるよ」


 どこか責められているようにも感じる口調に胸の奥が痛み始め、脳はひたすら「わからない」と無責任に繰り返す。


「……」


 一瞬、黙ってこちらを見ている帽子屋さんと目線が交わり、彼も心の中で私を責めているのではないかという錯覚に襲われた。


「はあっ、はあっ……は、っ……」


 呼吸が、上手く吸えない。いや、違う。ちゃんと、吸っている?吐けていないだけ?

 視界が揺れ始め、思わず目を瞑る。頭の中に霧がかかって、耳鳴りがうるさい。


(たすけて、アリスをたすけて)


 このまま、死んでしまえるのではないかと思った。


「やあ、アリス。こんにちは」


 不意に、低く落ち着いた声が鼓膜を震わせて、


(だれ……?)


 ゆっくりと瞼を持ち上げれば目の前にはミムラスの花が差し出されており、それを受け取って振り返ると、いつの間に来ていたのか……穏やかに微笑む花屋さんと目が合い、


「ちょうどいいところで会ったな」


 彼はそう言って私の目尻を綺麗な指でそっと拭い、頭を優しく撫でてくれる。

 花の香りと、彼自身から漂う甘い香りが鼻をかすめて少しずつ気分が落ち着き、


「やっぱり、女の子は笑っていなきゃな。可愛いアリスには笑顔が似合う」


 キザな台詞をこぼす花屋さんも、今は特別かっこよく見えた。

 

「……何の用だ、飼育係」


 帽子屋さんは小さな音を立ててティーカップを置き、不機嫌そうに眉をひそめて花屋さんを睨みつける。

 一方で、イカレウサギはまるで虫でも見たかのように「げっ!」と勢いよく立ち上がって後ろへ飛び退いたものだから、まさに脱兎のようだと思いながらその様子を眺めていると、花屋さんは椅子に座ったままの私を庇うように目の前を片腕で遮った。


「誰が飼育係だ」

「猫とウサギとネズミを飼っているんだ、お似合いだろ。飼育係に改名したらどうだ?」


 見下すように鼻で笑う帽子屋さん。

 わざわざ挑発するような発言をするなんて、今まで誰が言い合っていようが我関せずの態度を貫いていた彼にしては珍しいことだ。

 それほど花屋さんと気が合わないのだろうか?


「……おいおい、帽子屋。俺は、男には優しくできないタイプだって知ってるだろ?」

「ああ、よく知っている。飼育係は……動物と女と哀れな奴には優しくて、可哀想な奴を放っておけない同情心の強い優男だってことはな」

「……」


 帽子屋さんから目線を移動させ、花屋さんの腕を伝って顔を見上げる。


(……っ!)


 優しい微笑み、自信に満ち溢れた表情……それが、私の知っている花屋さんの顔。しかし今は、私の知らない彼が居た。


(怒って、る……?)


 凍りつくような、冷たい表情。


「……花屋、さ」

「お前の気が知れないな。なぜアリスなんかにそこまで肩入れするんだ? アリスなんて……俺たちを縛り付け不自由にさせているだけで、守るような価値のある『モノ』じゃない」

「……」

「そこまでしてアリスに良く見られたいか? 生きたいと思わせたいか? 虚しい奴だな。このゲームが始まった時点で結局……何をしても、無駄だとわかっているくせに」


 帽子のつばで目元を隠し、淡々と吐き捨てる帽子屋さん。

 けれど……なぜだろうか?「やめて」と心が叫ばない。


(何だろう……)


 なんだか……帽子屋さんの言葉は、私を傷つけようとしているものではない気がするのだ。むしろ、自分自身に向けているような……小さな子供が、泣きながら駄々をこねているみたいに聞こえる。

 そう、例えば、


「……死なないで」

「アリスなんて、死にたいなら勝手に死なせておけばいい」


 私の呟きと、彼の言葉が重なった。

 その瞬間――先ほどもらったミムラスの花弁がふわりと浮かび上がって帽子屋さんを囲み、イカレウサギはいつだかのようにテーブルの上を駆けて帽子屋さんの額にナイフの切っ先を向ける。

 対して彼は、懐から取り出した懐中時計と被っていたシルクハットを拳銃に変化させ、銃口を花屋さんとイカレウサギに突きつけた。

 一瞬の出来事に、開いた口が塞がらない。


「マッドハッター……これ以上俺のアリスを傷つけるのは許さないよ、絶対に許さない。許せない、許せないや。何でそんなこと言うの? 殺しちゃおうかな? ねえねえ、アリスに謝って? 謝れ! 謝れ!!」


 イカレウサギの持つナイフの先が帽子屋さんの肌を裂き、一筋の赤い液体が伝い落ちる。


「……イカレウサギ、アリスが見てる。やめろ」

「うるさいうるさい! お前には関係ない! 謝らないなら殺してやるんだ!」

「やめろ」

「……っ!」


 血を見た花屋さんが釘を刺すように繰り返すと、イカレウサギは一瞬びくりと肩を跳ねさせてからしぶしぶといった様子でナイフを放り投げた。


「よし、いい子だ」

「……」


 なおも納得がいかないような顔で俯いていたかと思えば、ちらりと私を見て申し訳なさそうに眉を八の字に寄せ、耳をしゅんと垂れ下げてしまうウサギさん。


(私の代わりに怒ってくれたのね)


 ありがとうと言う代わりに微笑みを向ければ、少し照れた様子ではにかんでテーブルから降り椅子に座り直す。


「……ねえ、花屋さんもやめましょう」


 それけっこう痛いのよと、今だ帽子屋さんを取り囲んでいる花びらを指差すと、


「嫌味を言うアリスも可愛いぞ。はぁ……まったく、アリスの頼みなら仕方がない」


 わざとらしく二、三度頷き、キザにキメた顔で大袈裟に前髪をかきあげるその姿は、見慣れたいつもの花屋さんだ。


(それが無ければ素敵なのに……少し鬱陶しいわ……)


 口には出さず彼に愛想笑いを向けたあと、帽子屋さんに目をやった。

 見た目は立派な大人なのに、まるで拗ねた子供のような表情。血を袖で拭い、拳銃はシルクハットに戻してテーブルの上に放置したままで、


(……大丈夫よ、帽子屋さん)


 私は、あなたが求める言葉をわかっている。


「……帽子屋さん、私……あなたのことが大切よ」

「……は?」


 帽子屋さんは豆鉄砲でも食らったかのように目を丸くして私を見た。「俺は!?」と聞こえた他一人と一羽の声はあえて聞こえなかったふりをする。


「私、帽子屋さんとのお茶会がとても楽しいわ」


 不思議だ。

 自分より年上の男性を相手に、母性本能にも似た感情を刺激されている。


「だから……帽子屋さん、」

「……そう、なら……いい……それなら、いい」


 焦った様子で慌ててシルクハットを被り、つばを両手でぎゅっと握りしめている。その表情は嬉しそうな、照れくさそうな……頬が朱色に染まっていることだけは確かだ。


「……アリス、」

「なあに?」


 本当に、小さな子供のような帽子屋さんは、迷うように目線を漂わせてから私を見てぽつりと呟く。


「……悪かった」

「ふふ、いいのよ」


 微笑みを向けば彼もふっと小さく笑い、初めて見たその表情に心が温かくなった。

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