いつかどこかで
私は葬儀屋という仕事柄、数えきれないほどこんな風に突然亡くなった人から発せられた声を聞いた。その声は「本当に死んだの? 嘘でしょう?」と、自分の死を受け入れられず混乱し、錯乱している人もいれば「まだ死にたくない。やりたいことがまだたくさんある」と訴えてくる人もいた。それに比べて、隼人は自分の死をしっかりと受け止めた上に恋人である菜穂を思いやっている。きっとそうできるのは、彼の優しさと穏やかな人間性によるものだろう。
でも、本当は。本心は。無念だったはずだ。突然訪れた死に、戸惑いが全くないはずはない。愛していた恋人と道半ばで、永遠に別れなければならないのだから。その思いを想像したら、息苦しくなるくらい胸が詰まる。
隼人は、その目に最後に焼き付けるように愛しそうに泣き続ける彼女の背中を見つめていた。それを私はただ見守るしかない。どうか彼に安らぎを。そう願うことしかできない。
「もう、十分だろう! 早く出て行ってくれ!」
突然、菜穂の咽び泣く声も雨の音も掻き消すほど大きく隼人の父の声がホールに大きく響いた。菜穂の震えている肩が怯えるように大きく跳ね上がる。悲しみに打ちひしがれている人間を踏み潰しているような声。隼人にはそれが聞こえない。気づくことなく、ただただ彼女を切なく見つめている。隼人にあの声が届かなかったのがせめてもの救いだと思う。実の父親が愛する恋人を怒鳴り散らす声なんて聞きたくないはずだ。
私は奥歯をぐっと噛んで、隼人の父の攻撃的な視線を遮るように美穂の斜め後ろに立った。そして、私は振り返り遠いところでふんぞり返って座る隼人の父を容赦なく睨みつける。まともに私に睨まれた父はぎょっとした顔をして口をへの字にして飛び出す準備をしていた言葉を慌てて飲み込み、目を白黒させていた。
私の睨みには定評がある。『
「菜穂さん」
突然、名前を呼ばれて驚いた顔をして顔を上げ真っ赤になった目を私に向けた。初めて彼女の顔をまともに見る。化粧は涙でほとんど流れ落ちているはずなのに、肌もきめ細やかで通った鼻筋に形のいい口元はそんなこと気にする必要がないほど、美人だ。充血した目でもその中心の瞳は茶色く透き通っている。涙の幕で一層透明度が増して見えた。人を見抜く力には、自信のある私は、菜穂は心まで美しい人なのだろうと確信する。
だから、私は彼女に告げる。
「どうか最後は笑顔を向けてあげてください。彼がこの先もずっとあなたの笑顔を覚えていられるように。あそこで彼が見ていますよ」
私は、その方向に顔を向ける。隼人は私が菜穂に何を言ったのかわからない。彼は不思議そうな顔をしてこちらを見ていた。菜穂は、一瞬戸惑いを見せたが、真っ赤に充血した瞳をゆっくりと隼人の方へと顔を向けた。
真っ赤になった鼻と泣きはらした顔が隼人がいるところより少しずれて向けられると途端また菜穂の目に見る見るうちに涙が溜まって呆気なく決壊していた。
「隼人……ごめんね……」
震える声で謝罪の言葉を口にして、ぽろぽろ涙を落とす。嗚咽しそうなのを抑え込むように菜穂はハンカチで口元をさえる。泣き続け、拭い続けたハンカチは水の中に落としたように濡れていた。
そんな彼女に私の胸は掴まれたように苦しくなる。本当は今すぐに言ってあげたかった。あなたは何も悪くない。謝る必要なんてないんだと。
すると、突然菜穂の目は大きく見開かれて、涙が止まった。何度も瞬きを繰り返し長い睫毛を揺らす。彼女の中にどんな変化が起きたのかわからない。菜穂には、隼人の姿は見えてはいないはずだ。だけど、隼人を掠め逸れていた視線が真っすぐに隼人の瞳を捉え始めていた。そんな様子の彼女に堪らず隼人は『菜穂!』と叫んだ。棺の横にいた隼人は階段を駆け下りて、菜穂のすぐ横に立ち懇願するように『菜穂』とまたその名を呼ぶ。
合っていたはずの隼人と菜穂の視線は、急に縮まった距離に追い付かず完全に外れる。未だに彼女はずっと棺の横を見つめている。遠くを見つめる菜穂を見て隼人は、自分を嘲笑うように悲し気に微笑んでいた。私は、たまらず菜穂に横に隼人がいると口を開きかけるが、それより早く菜穂はゆっくり隼人へ顔を向けていた。隼人の目が見開かれ自嘲は消えて驚きの表情に変わる。菜穂は、隼人の大きな目を真っすぐに見つめて、その道に乗せるように綺麗なピンク色を唇を小さく開いた。
「隼人」
彼女は鮮明な声で彼の名を呼ぶ。
二人の悲しげだった瞳は交差すると、隼人の目に初めて涙が浮かんでいた。菜穂は、細く長い白い手を隼人の方へとゆっくりと伸ばしてゆく。隼人はその手を握ろうとしたがすり抜けてそれが叶わなず、空を切る。すり抜けた手は、強く握られ震えていた。
『菜穂……』
隼人の瞳から耐え切れなくなった涙が頬を伝ってゆく。
ポトリと落ちた大きな涙が、一粒。菜穂の伸ばした手に滑り落ち、濡らすと菜穂の瞳が瞬き一つせず大きく開かれていた。手に落ちた雫をしばらく見つめていた彼女は、大切に仕舞い込むように胸の前でぎゅっと両手で握り、目を瞑っていた。程なくして、また菜穂の閉じた長い睫毛から涙の道が作られて行く。絶え間なく流れ続ける水を塞き止めるように、菜穂はゆっくり目を開け真っすぐに隼人を見据えていった。
「隼人、今までありがとう。また、いつかどこかで……」
思いを込めた菜穂の最後の言葉は、遠くの空へと繋がっていくように高く優しく響いていた。
涙に濡れた菜穂の目は、ゆっくりときれいな曲線を描き、目の周りにいくつも散りばめられていた水が星のように輝いて微笑んでいた。その顔に隼人は、大きく目を見開き、また一筋の涙が滑り落ちていた。
彼女の声は彼には聞こえない。私は、彼の耳に届けと強く願う。でも、きっと私がそんなこと願わずともきっと届いている。
『菜穂……ありがとう。どうか、幸せに』
隼人が穏やかに微笑みながら彼女を腕の中に包み、そう言った言葉はその証だ。
透き通った体はきっと、彼女のぬくもりも感触も感じることはできないはずだ。だけど、きっと菜穂にもちゃんと伝わっている。彼は、菜穂との思い出をその手の中から手繰り寄せるように目を閉じると呼応するように菜穂は静かに目を閉じていた。
きっと、二人は確かに何かを感じ取っている。互いの声も姿も見えない。けれど、目に見えない何かが二人を確かに繋いでいる。互いを思い合う愛しさと、別れを惜しむ悲しみが、この場に流れる空気も二人を包んで離したくないと訴えているようだった。
だが、隼人の透き通った身体は段々と薄くなり、彼の黒髪も青いジーンズも色を失って、輪郭もぼやけていく。惜しむように、ゆっくりと。 菜穂から涙が床に落ちると、色を失い薄くなった体が今度は粒子に姿を変えていった。その粉は、キラキラと光を放ちながら空へと飛び立つように舞い上がていく。それに気づいたように、菜穂は追うように上を見上げていた。
消えていく隼人と見送る菜穂を見守りながら私は思う。
隼人は何にも代えがたいものを胸に旅立ち、菜穂はそれを胸に歩いていく。互いに行く道は違えど、菜穂がこの世に生きている限りその思いは消えることはない。
菜穂のまたいつかどこかで会いたいという気持ちと、隼人が一人残された彼女に幸せが訪れることを願う気持ちがどこかで交わり繋がり、また出会えたなら。その時は、道半ばではなく最後まで一緒にいさせてほしいと、願わずにはいられなかった。
菜穂は最後の一粒が消えるまで胸に深く刻み付けるようにじっと見つめていた。彼女の瞳からは、また涙がいくつも流れ落ち濡らし続けていることも気付かずに必死に見送り続けていた。
隼人の父も、何かを感じ取ったのか沈黙し、母の目に涙が光っていた。
隼人の最期の光が消えてしばらくその場を動かなかった菜穂だったが、我に返ったようにずっと握りしめたままだったハンカチで涙を拭うと、深々と私と少し離れたところにいる隼人の両親に頭を下げて、足早に葬儀場を出てまた冷たい雨の中に戻っていった。
あれだけ怒っていた隼人の父親も、消沈したように無口になっていた。
その後――
滞りなく隼人の儀式を終え、彼の身体は葬儀場を出て荼毘に付される頃には、冷たい雨はやんで、細い隙間に時折青空が見え始めていた。その隙間の青に自分の新たな居場所を見つけたように彼の身体は空に還っていった。
隼人の両親の目には無数の涙が浮かんで消えていた。
すべてが終わり、私は隼人の両親を呼び止めた。
帰宅の途につこうとしていたところを止められて少しむすっとしながら濡れた傘を持て余している父に謝りながら、腕に納められた隼人を大事そうに抱える母に顔を向けた。二人の目にもう光るものはなかった。緊張が抜けて、忘れていた疲労が見え隠れしていた。
引き留めたことを申し訳思うが、隼人に託された言葉を伝えないわけにはいかない。私は静かに息を吐いて、隼人の母を見た。
「お母様。一つお願いがございます。隼人さんの机の右側の一番上の引き出しに入っているものを菜穂さんにお渡しいただけますでしょうか? それが、菜穂さんへの誕生日プレゼントだったそうです」
突然、そんなことを言い出す私の言葉に二人の顔に、わかりやすく疑問符が浮かんでいた。当然だろう。今日知り合ったばかりの葬儀屋の従業員にそんなことを言われたら、誰だって困惑する。
それに、それ以上に。隼人の両親の顔には、事故に遭った時に持っていたものが菜穂へプレゼントのはずだし、何故私が隼人の机の中身を知っているんだと、わかりやすく書いてあったが、それに対する説明が面倒で私は構わず続けた。
「それと、隼人さんが最後に持っていたプレゼント。どうされましたか?」
あまりに突飛なことばかり言い出す私に不信や困惑は、回りまわって信じる方向に向いてくれたようだった。
母は、瞳を左右に揺らしながら記憶を辿り「あぁ……。菜穂さんに渡そうかどうしようか迷って、そのまま家に」といった後は、私にそのあとの答えを求めるように私の瞳をじっと見つめていた。
母の思いを受け止めた後、私は今度は父の方を真っすぐ見据えてはっきりと答える。
「それは、お父様へのプレゼントだったそうです」
父の顔に大きく動揺が走る。
「何を言ってるんだ? あれは、どうみてもネックレスだ」
「中身は確認しましたか?」
私の質問に蹴落とされたように、目を見開いたままを瞳だけ下へ落とす。
「お父様、あと一週間で退職されるそうですね? 細長い形だから、ネックレスが入っているように見えるかもしれないけれど、あの中身はお父様へのプレゼント。『筆』だったそうです。退職後、趣味である書道を楽しめるように、あの日に買いに行ったそうです。そして、家族旅行の時に渡そうとしていたそうです」
隼人から『筆』の話を聞いたとき、あの祭壇の横にあった立て札の中に書道サークル一同とあった。あれは、隼人の仲間のものではなく、隼人の父が所属していたサークルだとその時初めて気付いた。
一瞬、絶句した父は、止まっていた息を吐くように「どこからそんな出まかせを……」と苦し気に呟いていたが、その瞳は左右に忙しなく揺れていた。
「信じられないのも無理はありません。ですが、騙されたと思って、帰宅されたらご確認を」
ぴしゃりと言い切る私に、父は口を引き締めて黙り込み、たじろぐ。瞬きを忘れた目の中にある瞳は一点を見つめたまま止まっていた。
それを視界の端において、もう一度母を見る。驚きを隠せずにいる母に私は深々ともう一度頭を下げる。
「お母さま。菜穂さんもまた、ご家族同様、大事な隼人さんを失ってとても傷ついています。
この先、彼女が前を向いてこの先歩いていけるように、お渡し願えますでしょうか?」
呆然する一方で、しっかりと隼人の母は私に視線を交えて頷いてくれたのを確認して、私は隼人の両親への最後の言葉を伝える。
「誰のせいでもない。みんな仲良く元気で。隼人さんは最後にそうおっしゃっていました」
はっとした二人の顔にまた涙が滲んでいく。薄い水の膜の向こう側の瞳の中心で「どうして、知っているの?」と聞きたそうな色が浮かんでいた。
私はその質問を空に還すように見上げる。
降り続いていた雨はすっかり止んで、雲の隙間から太陽の光が柔らかく降り注いでいた。
「晴れてきましたね。
どうか、お元気でお過ごしください」
太陽の眩しさに目を細めながら、私は二人に別れを告げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます