Ghost In The Rain 11/13

 奥入瀬牧は深く息をつく。


 二の腕あたりで切断されたまま、医学的に何の処置も施されていないのに、独りでに止血したように見える右腕の断面。


 彼女は切り離された右腕を断面に押し当てる。陶器の割れた破片が合わさるか確かめるような、ただそれだけの動作。支えている左手をぱっと放せば床に転がるのが関の山である。


 だというのに、右腕は割創かっそうなどなかったかのように断面と繋がっていた。


 ためつすがめつする牧の意思にって、肘から手首、五指に至るまで支障なく稼働さえしてみせる。握って開いて、曲げて伸ばして、ぐるっと回して。そこまでして尚、腕は落ちない。


 切断された傷は癒着して薄れて消えてゆき、牧の確認作業の間の数秒で“そこで右腕が切断されていた事実”すら認められなくなっていた。


 ───完治していた。


 ありえない奇跡が起きていた。


 牧が起こしたのだ。客観的に見れば腕を傷跡に押し当てただけだが、その際に“右腕が治ることを確信していた。彼女の一挙手一投足がそれを示している。繋がって当然という顔、繋がったことに何の驚きもない顔をしている。


「その程度なら使えるのか」


「この程度でしたら」


 一部始終を見ていた伏人傳もまた、一連の異常な現象そのものは不可思議でない様子だ。ただ事実だけを確認する。


 世間一般からすれば異常極まる空間でも、この二人にとってはそうではないのだ。


「───伏人傳、ここは貴方のセーフハウスと言いましたね」


「言ったね」


「では……ここを覆う結界けっかいのうち、電波を遮断しているものだけでも」


「解除するわけねーだろ。お前が追われてんのと同じように俺も追われてんの。穴なんざ開けたらあっという間に居所すっぱ抜かれてお前の上司にぶっ殺されるわ」


 ───廃店舗オーバードーンは認識を狂わせている。


 イツキは本来感じるべき違和感を奪われて、周囲の誰一人として存在しない街並みを不自然と思えず、それ以外の人間はそもそもオーバードーン一帯の存在を知ることができない。牧でさえ、この街に傳のセーフハウスが存在していた事実を、先刻連れ込まれるまで関知していなかった。


 イツキのスマートフォンが圏外だったのもまた、この場所に作用する異常効果───結界によるものだ。


 隠れ家セーフハウスを管理する傳によって引き起こされているのは容易に推測できることだが、彼女が言っていたのはそれに融通を効かせられないかということだ。


 答えはNo


 とりつく島もない。


 質問した牧自身、『これは無理だろうな』と薄々感じながらのダメで元々だった。

 牧の敵も、傳の敵も、オーバードーンの結界があるから二人の場所を知覚できずにいる。穴を開けるなど許容できないのも、納得はできてしまう。


 逃げようとした牧は右腕を失った。治せはしたものの、次はなさそうだ。


 助けを求めるのも厳しい。身を守る結界が救援を阻む壁になっているからだ。


 その時が来るまでここに引きこもっているのは、傳が許さないだろう。


 では、どうするのか。


 残っている選択肢は追っ手と“戦う”のみである。


 彼女が抱え込んでいるものをイツキに預ければ、彼女は腕を切断した追っ手に対抗できる。


 現状の牧は、例えるならスタントマンが繊細な割れ物を小脇に抱えたまま命懸けのアクロバットに挑戦しているようなものなのだ。失ったのが片腕だったのは幸いだ。敵が狙っているのは牧の命に他ならないことを考えれば、だが。


 荷物を何も知らない一般人イツキに預けられればどれほど楽か。命懸けのアクロバットは途端に平均台程度に難易度引き下げとなる。制限された異能でも右腕を傷跡なく繋ぐことのできる彼女は、本来この程度の追っ手に苦戦するレベルではない。


 唯一にして最大の問題は、その荷物は奥入瀬牧という女にとって、自分の命としても重要と言える価値がある点だ。


 預ければどうとでもなる。だが預けてよいのか確信が持てない。


 思考のどん詰まりに陥っていた牧はそのとき、声を聞いた。


 ───ねえ。


 少女の声だった。


 顔を上げる。


 セーラー服に身を包んだ、イツキと同年代らしき少女だった。


 透明な表情で、彼女は一直線に手を伸ばす。イツキが帰路についた道を指している。


 ───このままじゃ、イツキくんが死んじゃう。


 ───急いで。


 牧の血相が変わる。さっと紅潮する頬。


 どこから現れたのか問うている場合ではない。疑う思考も湧いてこない。根拠も証拠もなしに納得、その事実ないようがなにより恐ろしい。


 彼女の言葉と時を同じくして、別の音が鳴り響く。


 りぃぃぃん、りぃぃぃん、りぃぃぃん。


 ロフトの天井から吊されたモビールが風もないのに揺れ始めたのだ。


「《虫喰み》反応、近いな。───結界のすぐ外だ」


 ぽつりとつぶやいた傳が血相を変える番だった。牧が身をひるがえし、ロフトから飛び降りたのだ。


「おっ、おい! 行くのか!?」


 驚愕は二階の高さから跳躍したことではなかった。


 言葉は果たして届いたのか、彼女はすでに廃車のルーフをクッション代わりに着地をキめ、疾風の速さでオーバードーンを飛び出していた。

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