2嫁 ルクシュナ(2) 気怠い幸福

 後宮の一室。




 落ちかかった夕日が、柔らかく室内を照らしている。




(暇じゃ……)




 未だ慣れないベッドに仰向けに横たわりながら、ルクシュナは手持無沙汰に編み棒を繰る。




 嫁入りしてから一月経ち、ようやく一通り王宮の生活のイロハは理解したものの、未だ馴染むというには程遠い状況だ。




 なにせ、故郷とここでは生活のリズムが違いすぎる。




 物心ついた頃から遊牧生活を営んでいたルクシュナは、姫とはいえ、ジャンのように絶対的な身分差がある扱いを受けていた訳でははなく、平民と同じように働いていた。




 朝は日の出と共に起き出し、家畜の乳を搾り、朝食を準備する。




 食事を終えたら、放牧に出かける。のんびりと家畜に草を食ませるのを見ていればよい――ということはもちろんなく、餌遣りをしながら水くみもして、さらに次の放牧地をどこにするかを偵察する必要もあった。それに加え、『先視』の能力を有するルクシュナは、敵対する部族やモンスターの襲撃がないか、常に気を張る生活を送っていた。




 夜になれば、満天に瞬く星を観察しながら『星視』の技術を磨き、移動する必要があれば、それにふさわしい日と時間を占う。季節と必要に追われる生活に、物思いにふける時間などなかった。




 それに比べて、ここでの生活はどうだ。




 いつ起きて、いつ寝ようが、誰にも文句は言われない。




 手を叩けばメイドがやってきて、食事は勝手に出てくるし、服を脱げば代わりに洗濯された清潔な衣服がやってきて、メイドが手ずから赤子にするがごとくルクシュナに着せてくれる。




 もちろん、堅牢な城と世界最強の夫殿に守られた後宮はこの上なく安全で、移動する必要などない。




 代償として、外出することはおろか、用を足すの一つにしても誰それの許可やら、護衛やらが要るのだが、それは些細なことだ。




 いや、些細なことなのだろう。他の多くのジャンの嫁にとっては。




(窮屈じゃ、などと言ったらばちが当たろうが……。まるでわらわ自身が家畜になったようじゃの)




 ルクシュナは自嘲気味に笑った。




 ジャンが精一杯自分を厚遇しようとしてくれているのは理解できるし、ありがたいと思う。




 遊牧生活から定住生活になることは、嫁ぐ時から覚悟していたことであるし、不満はない。




 しかし、自分が何の役にも立たずタダ飯ぐらいに甘んじているといのは、まるで『姫という立場こそが重要で、お前個人に存在意義はない』と宣告されている気がして、虚しい気分にさせられる。




 ゴーン。ゴーン。ゴーン。




 鐘が三回鳴る。それは、後宮に主が到来する合図だ。




(おっ。夫殿がいらっしゃるのじゃな。果たして、今宵はどの娘の下を訪れることやら。―


 ―ま、わらわではなかろうの)




 ルクシュナはだらしなくベッドから脚を投げ出しながら、編み物を続ける。




 メイドから聞いた話によれば、夕方、必ずジャンは後宮にやってきて、気に入った嫁を選ぶ。




 そして、彼女と食事を共にし、一夜を過ごすのだという。




 その際にはそれはもう、夢見心地になるような素晴らしい経験をさせてくれ、故にジャンの嫁たちはみんな彼に選ばれることを心待ちにしているのだというが、生憎とルクシュナは未だ彼のお眼鏡にかなったことはない。




 コンコン。




「ルクシュナ、入っていいか?」




「コホン……どうぞ入られよ」




 ルクシュナは慌てて姿勢を正した。




 同時に、彼の気遣いに感謝する。




 皇帝である彼は、本来ルクシュナに入室の許可を求める必要はないのだから。




「どうだ調子は? 環境が変わって風邪とか引いてないか?」




「夫殿のご高配で快適に過ごしておる。それで、本日は何用か?」




 部屋に入ってきたジャンに、ベッドから立ち上がったルクシュナは優雅に一礼する。




「ああ。そろそろ、王宮の生活も一通り経験して、あれこれ不満も溜まっている頃だろうと思ってな。様子を見にきた」




 ジャンがルクシュナの心を見透かすような真っすぐな瞳で見つめる。




「夫殿には良くしてもらっておる。何も不満なことなどない」




 ルクシュナは微笑み返したが、狙いすましたようなジャンの訪問のタイミングに、内心驚いていた。




「ふーん。まあいいや。飯は――まだちょっと早いか。ともかく、外で飯でもぶらつきながら色々話そうぜ。嫌か?」




 ジャンはそう言って小首を傾げる。




「嫌な訳なかろう。夫殿のお望みならば喜んでお付き合いするのじゃ」




 ルクシュナはそう言うと、さりげない仕草でジャンの左腕を取る。




 それくらいの処世術は、ルクシュナも心得ていた。




「おっけー。じゃあ、いくか。――『我、ジャン・ジャック・アルベールは願う。世界を支配する4の真実と、宇宙を司る二柱の加護に依りて、理を超越せんことを』」




 ジャンは右手で聖剣を抜き放ち、空中に四角形の印字を切る。




 とてつもない魔力の奔流に、ルクシュナの肌がビリビリと震える。




 この感覚は前にも経験がある。きっと、何らかの転移魔法だろう。




 しかし、通常の転移魔法は都市と都市との間の移動でも、七日七晩儀式を行わなければいけないほどの高等魔術である。




 それをこの男は一瞬で成し遂げようというのか。




 いや、そもそもちょっと王都にでかけるくらいで、そこまでする必要があるのか?




「お、夫殿? 何故転移魔法を詠唱なさるのじゃ? 外の街に出るなら歩いて行けばよかろう?」




「ん? ああ。外といっても、これから俺が行こうとしている所は、歩きや馬車では行けない場所にあるからな」




 遠慮がちに尋ねるルクシュナに、ジャンは軽い調子で答える。




「歩きや馬車では行けない? ――おお! そうか! 夫殿はわらわの故郷に連れていってくれるというのであろう?」




 ルクシュナは手を打った。




 無意識のうちに、里心がついていたからだろうか。




 歩きや馬車――すなわち陸路で辿り着けない場所といえば、故郷しかないと、ルクシュナは確信をもって問う。




「おしいけど違うな。これから俺たちが行くのは、『この世界』の外――つまり、異世界だよ」




 ジャンは意味深な笑みを浮かべながら首を横に振る。




「い、異世界?」




「ああ。まあ、あれこれ説明するより実際行った方が早い。ほら、もうすぐゲートが開く」




 ジャンが指さした先で、彼の切った四角形の印字が拡大し、ドアほどのサイズへと変化する。




 陽炎のような揺らぎの後、目の前の空間が切り取られ、見たこともない光景があらわになっていった。




「これが……、異世界」




 ルクシュナは驚きも冷めないままに、呆然と呟く。




「ああ。異世界チキュウにあるニホンという国のイケブクロという場所だよ。じゃあ、ついてきてくれ」




 ジャンがゆっくりと歩き出す。




(さすが天下の英雄じゃな。わらわの想像の枠内の収まるような器ではないわ。――じゃが、おもしろい。存分に味わわせてもらおうではないか。数々の女を虜にした、その手練手管とやらを)




 胸の高鳴りを抑えるように大きく息を吸い込んでから、ルクシュナは彼の横に並んで歩調を合わせる。




 初めて暴れ馬に乗ろうとした時のような挑戦的な興奮が、それまでの退屈を吹き飛ばしていた。

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