第六話

「何故ですか父上!」

 十二単を着た少女が叫ぶ。

 屋敷は広いが質素な作りで、それらを全て飲み込むように炎上している。

「なにゆえ私を食らうというのですか、それでは鬼畜生に堕ちてしまいまする!」

 少女は尚も叫ぶ。

 幼い少女だ。年の頃は十二、三といったところだろう。

 美しい黒髪を床に散らし、整った顔(かんばせ)を悲痛に歪めている。

「鬼畜生となるためよ」

 恰幅の良い、烏帽子を被った男が大口を開けて笑う。

 年の頃は四、五十といったところだろうか。顎に蓄えた髭が歳をわからなくしている。

 口元は真っ赤で、まるで今さっき“何か”を食ってきたようだった。

 しかし――よく響く声だ。

 腹の底から響く、地獄の底から響く、声だった。

「鬼畜生となり、未来永劫を生きるためよ。そのための糧となれ、生き比売神たるはねよ」

 呵呵と笑い、男は少女に手を伸ばす。

 重い装束に満足に動けぬ少女は為す術なく男に捕まった。

「ちち、うえ……!いや、源頼風(みなもとのよりかぜ)……!!」

「また会おうぞ、比売神はね。我が血肉となるために、何度でも生まれ変わるがいい」

 それが、最期の会話。

 炎に照らされた少女の白い喉に男の鋭い牙が迫る。

 柱が崩れ落ち、全ては炎に包まれる。

 

 最期の瞬間、一筋涙を流した少女の顔は、留羽にとても良く似ていた。









「ヒメ!」

 叫びながら目を開けて、煙羅は自分が今まで眠っていたことに気付いた。

「……夢……」

 前髪を掻き上げるようにしながら呟く。

 嫌にリアリティのある夢だった。

 己はそれを見守るしか出来ず、何か声をかけることも、何かすることも出来ずにただ見守るだけの夢。

――そもそも、夢なんか見たの初めてじゃねえかな、俺……。

 妖怪として封印されていた間、眠っていたのとほぼ変わりなかった。

 だが、それでも意識は覚醒していた。ずっとずっと外に出ることを望んで、自分を封印した陰陽師を恨んで、ただそこに閉じ込められていた。夢なんか見ている暇はなかった。

 時代の移り変わりを水晶の裏側から見つめて、あの陰陽師はとうに死んだのだろうと確信した。

 だから、更に時が経ったとき、人間に復讐してやろうと思ったのだ。

 己の居場所を、ただそこで静かに暮らしていただけの自分を追いやった存在を、丸ごと全部苦しめてやろうと。

――なのに、今は。

 手のひらを見つめる。

 姫神留羽に使い魔とされてからは、そんなことは微塵も思わなかった。

 近寄ってくる女生徒達を食らってやろうかと思ったことがないとは言わないまでも、そんなことを実行に移す気は更々なくなっていた。

 そもそも、人を恨む気持ちが、留羽に使い魔とされてから、それこそ煙のように消えてしまったのだ。

 まるで浄化されたようだった。ただ留羽の役に立ちたい、出来るなら守りたい、その気持ちだけでここまで来てしまった。

「……ヒメ」

 これは、どういうことなのだろうか。

 煙羅のために留羽が誂えたふかふかのベッドの上で、煙羅は溜息をつく。


 今日は、新たな妖怪に会いに行く日だった。









 日差しの強さが変わり、そろそろ夏の訪れを感じさせる。

 とはいえ、まだまだ風は涼しく、緑の萌える明るい色が眩い季節。

「明日の土曜、市民プールに行くぞ」

「プール?」

 昼休み、九鬼を交えて弁当を中庭で広げていた煙羅が、留羽の言葉に首を傾げる。

 見れば九鬼も目をぱちぱちさせて驚いているようだった。

「……いくらなんでもプールにはまだ早いんじゃね?」

「馬鹿者。誰が泳ぎに行くと言った。昨日方角を占ったところ、市民プールの方に凶が出た。何かいるかもしれない」

「成程、そういうことか。水場には何かと集まりやすい。調べてみるのもいいかもしれないな」

「はあ」

 煙羅だけが上手く会話についていけず、おかずの唐揚げを、気のない返事をしつつ口に放り込む。

「集合は十三時、私の家だ」

「随分早く集まるんだな」

「まずは以前から何か市民プールで起こっていないか確かめたい。その上で十八時を待つ」

「ふむ」

 九鬼が鮭を箸で切りながら相槌を打つ。

 皆が黙ってしまうと、留羽も自分の弁当に箸を伸ばした。

「……前から気になっていたんだけどさ」

「何だ」

「なんでヒメって野菜しか食わねえの」

 しゃくしゃくとレタスを咀嚼している留羽に、煙羅が問いかける。

「身が穢れるからだ」

「ミガケガレル?」

「私は口に入れるものを選ばなければならない。下手な添加物や生臭を口に入れるのは身を穢し、霊力を弱める」

「九鬼も今は人間だろ?霊銃を扱うし霊力を扱うなら同じなのに」

 もぐもぐと鮭とご飯を一緒に食べている九鬼を指差して、煙羅が更に問う。

「甘味も食うし、生臭も食うじゃん」

「それは――私の家の方針だ」

 少しだけ痛いところを突かれたように、留羽が口ごもった。

「姫神一族は一族となってから霊力を高める、もしくは保持することしか考えない。だから」

「じゃあ、実際には食ってもいいってこと?」

「……恐らく、は」

 ちらりと九鬼を見遣って、留羽は小さな声で呟く。

「九鬼を見ている限り、食事の内容によって霊力の衰えは感じられない」

「じゃあ食えよ、肉」

「……」

「肉も魚も甘いもんも食わないからヒメはそんなちっこくて細っこいんだろ。筋肉つけろマジで」

「蛋白質も糖分も大宜都比売命(おおげつひめのかみ)の恵みから得ている」

「おおげつ……なんだって?」

「五穀と蚕を生んだ女神だな。死体からだが。……ご馳走様」

 九鬼が先に食べ終わり、手を合わせながら留羽の言葉を補足する。

「口、鼻、尻から食べ物を取り出すことが出来、それを素戔嗚命(すさのおのみこと)に献上しようとしたところ、怒りを買って殺された女神だ」

「……なんでそんなとこから食いもん出すんだよ。そりゃ怒るぜ」

「神話の神の話だ、俺に言われても知らん」

「そりゃそうか」

「兎も角、蛋白質は豆類から、糖質は米から、ビタミン類は野菜から得ている。何も問題は無い」

 話が逸れそうになっていたのを戻すように留羽が言い切り、再びドレッシングさえかかっていないサラダに向き直って食べ始める。

 それを見た九鬼は肩を竦め、煙羅は納得がいかなそうな顔でお互いを見た。

「ぶっちゃけ、ヒメの弁当作ってるとうさぎの餌かよって気分になるんだけど」

「なんだ、弁当は煙羅が作っているのか」

「だってこいつ、塩入れて野菜茹でるくらいしか出来ねえもん」

「!」

「なんだ、ヒメ、そうなのか?」

 くくっ、と可笑しそうに九鬼が笑う。

「……それで事足りてきたのだから仕方ないだろう」

「味噌汁くらいは作れるようにしたけどさあ、俺が作ったほうが早いし美味いんだよな。で、味見してみろって言ったら『私はそういうものは一切食べない』とか言っちゃってくれて、俺の力作ビーフシチューが絶賛冷蔵庫行きだぜ。弁当だって分けて作らなきゃいけないしさあ……」

「まるで主夫だな」

 くつくつと笑いが止まらない九鬼に、黙々と無視してサラダを食べ続ける留羽、そして愚痴を零し続ける煙羅。

「……決めた」

 そして煙羅は一つの決心をした。

「な、なんだ」

 その目つきに不穏なものを感じて留羽はサラダを食べる手を止めた。

 九鬼は面白そうにその成り行きを見守っている。

「今日の帰り、ココロンに寄ってくぞ」

「は?」

「当然、お前の奢りなんだろうな、煙羅」

「うっせ、てめーはてめーで出せ。何ならついてくんな。甘いもん食いに行くぞ、ヒメ」

「ちょ、お前は、今までの話を聞いていなかったのか。糖質は十分米から摂っていると……」

「うるせえ。女子なら甘いものの話の一つや二つ出来て当たり前なんだよ。なんだあの、今日話しかけてくれた女子に『私はそういったものは一切摂らない』なーんて返して場を凍りつかせやがって」

「目に浮かぶようだな」

「私はそういったものを実際一口も口にしていないからコメントを控えただけだ」

「だから今日!ココロンで新作ケーキが出るらしいからそれを食いに行くぞ!」

「いや私は食べな」

「新作ケーキ?それは聞き捨てならないな。ヒメ、食べに行くぞ」

「いやだから私は」

「結局お前も来るのかよ!」

「私は食べな」

「皆で食べれば怖くない。な、ヒメ?」

 超絶甘い物好きでにっこりと笑う九鬼に、何故か留羽に甘いものを食べさせることに対し異様なまでに気合を入れている煙羅の表情に押されて、留羽は言葉に詰まった。

「「ヒメ」」

「う、ううう」

「「行くよな?」」

「あ、ぅ……」

「「行くよな??」」

「……わかった……」

 その時ほどがっくりと項垂れた留羽の姿は、あまり見れるものではなかったと、後に九鬼は語った。









「おー、今日は混んでるなー」

「何せ新作ケーキの日だからな」

「だったら何も今日でなくても」

 喫茶ココロン。

 学校帰りに寄るにはいい場所にあり、今日も生徒達が多数ひしめき合っている。

 ましてや味に定評のあるココロンの新作ケーキが飛ぶように売れており、女生徒がにこにこ顔で頬張っている姿が店の外からでも窓越しに眺めることが出来た。

「よっし、今日は乗り遅れたら意味ねえからな。行くぞ」

「勿論だ。準備は出来ている」

「私は出来ていない」

「よーし行くぞー」

「無視か……」

 煙羅を先頭に、九鬼、そして九鬼の手にはしっかりと逃げられないように留羽の手が掴まれている。

 げんなりした美少女を連れた美青年二人というのは十分に目立ち、店内に入った途端にざわりと辺りの空気が揺れた。

「新作ケーキはー……っと。お、甘夏みかんを使った季節のムースだってよ」

「それを五つ頂こう」

「い、五つだと……?」

 九鬼の間を置かない決断に留羽が戸惑う。

「煙羅用一個、ヒメ用一個、俺用に三個だ」

「三個も食べるのか?!」

「ヒメ、今更、今更」

 留羽の肩に手を置き、煙羅が首を横に振る。

「金魚鉢パフェを頼まないだけ常人の範囲内だ」

「後で食うぞ」

「食うのかよ!!」

「ぁ……」

 ショーケースの前で漫才を繰り広げている煙羅と九鬼を黙って見ていた留羽だったが、ある一つのケーキに目を留めて本当に小さく、声を上げた。

――ショートケーキ。

――昔、一緒に食べようとして、怒られたっけ……。

「食べればいい」

「!」

 ふ、と思い出に意識を飛ばしていた留羽の上から九鬼の柔らかい声が降ってくる。

「あの頃は叱られたかもしれないが……今は咎める者は居ない。お前の霊力が少しくらい落ちたって、俺も煙羅もいる。あの頃とは違うさ」

 握った手を柔らかく握り直されて、留羽は少しだけ顔を歪めた。

「九鬼……」

 どうしてわかったのか、と言いたげな顔の留羽に、九鬼は目を伏せる。

「お前のことだからな。……すみません、ショートケーキも一つ」

 はい、という店員の声に、留羽は俯きながら九鬼の大きな手のひらを握り返した。









 ずらりと並べられたケーキ、ケーキ、ケーキ。

「……こんなに頼んだか……?」

「いやー、ヒメの好みに合うのがわかんなくて適当に頼んだらこうなっちまった」

「安心しろ、残ったら俺が食う」

「……今ほどお前が頼もしいと思ったことはないぜ、九鬼……」

 テーブルの上には、常備各種のケーキが一個ずつと、新作である甘夏みかんのムースが五つ並んでいた。

 その中には、九鬼が頼んでくれたショートケーキもある。

「さあ食べようぜ!」

「いただきます」

「いただき……ます……」

「まずは新作から食おうぜ。ほら、ヒメの分」

「あ、ああ……」

 妙に機嫌のいい煙羅が留羽の前へムースを運んでくれる。

 透明なビニールをそっと剥がし、小さく小さく一口分、スプーンで掬ってみる、留羽。

「……」

「ヒメ、怖がってないで早く食えよ」

「わ、わかっている。怖がってなど……」

「素晴らしい……甘酸っぱい果汁が口いっぱいに広がり、ムースの滑らかさが舌先でとろけるように……」

「お前は早く食いすぎなんだよ九鬼!!」

 既に一つ目を完食しようとしている九鬼に煙羅がツッコミを入れる。

 その隙に、ぱくり。

「……」

「……」

「……」

 三種三様の沈黙が流れる。

「……どうだ?ヒメ」

「……」

「酸っぱすぎたなら、別のにすればいいんだぞ」

「……おい、しい……と、……思う……」

 こくんと小さな白い喉を鳴らして、嚥下する。

 甘酸っぱい果汁をふんだんに使っているのだろうムースが、留羽の舌先を軽く痺れさせていた。

「……五穀以外食べたことがないから……美味しいか……分からない……」

「……」

「……」

 煙羅は少しばかり苦々しい顔をし。

 九鬼は軽く目を伏せて小さく息を吐く。

 それはそうだ。

 比べるものが無いのだ。

 ずっと幼い頃から、味気のない食事ばかりを摂っていた留羽にとって、ケーキなど未知の食べ物でしか無いのだから。

「……でも」

 それでも、留羽はもうひとすくい、ムースを掬う。

 今度はさっきよりも多く、大きく。

「甘酸っぱくて、なめらかで、……もっと食べたいと、思う……」

 ぱくり。

「……ヒメ」

「ヒメ」

「……だから、美味しい、んだと、思うんだ……」

「……そっか」

「それなら良かった」

 ムースを少しずつ食べながら、留羽は必死に言葉を紡ぐ。

 その様子が何だか愛おしくて、煙羅と九鬼は眉を八の字にしたまま笑った。

「よーし俺も食うぞー!!」

「この甘夏みかんのムースは常備でもいいと思うが、季節限定だからこその味わいとジューシーさ……悩ましいところだ」

「ホントお前はどこの批評家だよ!!」

「……ショートケーキ」

「ん?」

「……ショートケーキが、食べたい」

 ムースを食べ終えた留羽が九鬼の袖を引っ張って、彼の目の前にあるショートケーキを強請る。

「……ああ、食べきれなかったら、無理をするな」

「ん」

「なんだ、ヒメ、ショートケーキが気になってたのか?」

 留羽の目の前に置かれたショートケーキに、煙羅が口を尖らせた。

「だったら最初から言えばいいのに」

「これは、」

「これは、俺達だけの、秘密だ」

 留羽がなにか言おうとするより先に、九鬼がその形の良い唇に人差し指を当ててしぃっと秘密の合図をする。

「な、ヒメ」

「えー、なんだよそれー!!」

「……ふふ。そうだ、な」

 さくりとフォークを生クリームとスポンジに差し込みながら、留羽は微かに笑った。









 そして今日、土曜日。

「市民プールでの事故?」

 プールに行くとなれば水着。

 水着となれば全員持ち合わせがスクール水着ということで、格好悪いことこの上ない格好で三人は聞き込みをしていた。

「事故ほど大きなものでなくていい。ちょっとした不自然があったりしないか?」

「ええと……そうだなあ……」

 留羽が最初に声をかけたのはプールの事務員でもトレーナーでもなく、そこに通う子供達。

 彼女曰く、子供達のほうがこういったことに敏感なのだという。

「あんまり大人は言うなって言うけどね、このプールには幽霊が出るって噂があるよ」

「ビンゴ」

「しっ、煙羅。……それで?」

「うん、おっきなお化けが夜な夜なうろついてるって話。だからこのプールは夜やらないんだ。鐘の鳴る、六時までしか」

「成程……筋は通っているな」

「ありがとう、もう行っていいぞ。……煙羅、九鬼、どう思う」

 プールサイドに戻っていく子供に手を振って、留羽は二人に意見を問う。

「今日、六時以降も入れるように、咲崎警部補を使ってここの職員に働きかけてみよう」

「俺もそれがいいと思う」

「了解だ。九鬼、頼む」

「あら?貴方達、見ない顔ね。ここのプールは初めて?」

 休憩用ベンチの辺りでこそこそと談合していた三人に、明るい声がかかる。

 振り返ると、そこには競泳用水着を着て、ゴーグルと競泳帽で顔が隠れた女性が立っていた。

「えっと……何か?」

「ああ、いいえ、見ない顔だなと思って……あ、ごめんなさい、この格好じゃ警戒されても仕方ないわよね」

 留羽が怪訝そうに聞くと、あっけらかんと女性は笑ってゴーグルを外した。

 そこには人懐っこそうな笑みを浮かべた、二十歳くらいの女性が笑っている。

「私は夕凪 薫(ゆうなぎ かおる)。ここのインストラクターと監視員をやっているわ。もしよかったら一緒に泳がない?」

「いえ、私達は、あの」

「泳がないの?なら何故ここにいるのかしら?」

「えーっと、それはぁ……」

「もしかして……ここに出る幽霊の噂でも探りに来たのかしら?」

「まさか」

 留羽、煙羅、九鬼、の順で顔を眺め回す夕凪に、三人はそれぞれの反応を返す。

 留羽は少しだけ怯えたように、煙羅は半笑いを浮かべて、九鬼はにっこりと笑みを浮かべて。

 そんな三人を再びじっくりと眺めていた夕凪だったが、

「ゆうなぎさーん!!!」

「ん?」

 プールの方からかかった声に、夕凪は三人への追求を止めて振り返った。

「たすけてくださいー!!」

「いっけない、忘れてた。ちょっとごめんね!」

 そして、夕凪を呼んだ声の方へ足早に歩いて行く。

「ちょっとそこの君達ー!良かったら手を貸してー!!」

「え」

 呼びかけられて、留羽が声を漏らす。

「はやくー」

「ヒメ、どうする」

「……行こう」

「疑われても面倒だしな」

 煙羅の問いに、留羽が答え、歩き出す。その後に、煙羅と九鬼が続いた。

「この人引っ張り上げるの手伝ってくれない?いっつも足攣って溺れちゃうのよねえ」

「わかった」

「ずびばぜんー……」

 夕凪が泳ぎ連れてきたのは結構な大男だった。だが、痛そうに片足を押さえて情けない声を上げている。

「「「……っ」」」

 ただ、留羽、煙羅、九鬼の三人が驚いたのはそこではなかった。

「?どうしたの?」

 一瞬動きを止めた三人に、夕凪が首を傾げる。

 慌てて留羽が首を横に振った。

「あ、いえ、なんでもない。ほら、手を貸せ」

「ヒメじゃ引きずり込まれるのがオチだろ。俺に手を伸ばせ」

「じゃあ俺は水に入って押し上げよう」

「ずびばぜん……」

 よいしょ、こらせ、どっこいせ。

 なんとも御伽噺的な掛け声で、プールサイドに大男を引き上げる。

「たすかったー……」

「助かった、じゃないわよ。本当にもう、私が居ないと駄目なんだから」

 プールサイドに仰向けに寝転んだ大男の頭を小突いて夕凪が呆れたように言う。

「ほら、お礼と自己紹介!」

「あ、僕、水増 重(みずまし かさね)と言います。宜しくお願いします。それからありがとうございました……!」

「順序が逆!」

「あひぃひゃたたた!!夕凪ひゃん、ほっへた抓らないでええええ」

「姫神留羽だ」

「高杉煙羅」

「雨宮九鬼」

 それぞれに名乗りを上げて、二人のじゃれ合う姿を見つめる三人。

「夕凪さんと言ったか。少し、この水増という男と話したいのだが、いいだろうか」

「え?いいけど……私じゃ居ちゃ、邪魔ってこと?」

「邪魔って言うより、俺、あんまり泳ぎ得意じゃないんでコーチつけてほしいな―って」

 留羽の言葉に怪訝そうな顔をした夕凪に対し、煙羅がすかさずフォローを入れる。

「クロールの息継ぎのときに水が入って上手く息継ぎ出来ないんですよー」

「ああ、あそこね。最初は誰でもそうよ。わかったわ、じゃあ水増くんのことお願いね」

「承知した」

「九鬼も来いよ」

「ああ、わかった。俺はバタフライが――」

 適当なことを言いつつ、煙羅と九鬼が夕凪を連れてプールに戻る。

「……言いたいことはわかっているな」

 そして、残された留羽は、プールサイドに寝転んだままの水増に低い声で話しかけた。

「……嫌でも気付くもんですねえ。……貴女は人間なんでしょう?」

「私は神の容れ物だ。妖怪退治を生業としている」

「僕を倒しに来たんですか?」

 ぬるりと水増の雰囲気が変わる。その場がじっとりと温い湿気を帯び、水増が警戒していることを伝えてきた。

「お前が人に害為す妖怪ならば」

「……」

「答えや、如何に」

「……僕は、牛鬼(うしおに)です」

「!!」

 牛鬼。

 それは水辺、特に海に住み、人を襲い喰らう妖怪だ。

 悲しそうに水増――牛鬼は首を横に振って言葉を続けた。

「人を喰らわねば、生きていけない」

「ならば……」

「だけど、もう僕は人を喰らうことはしません」

「は……?」

 水増の言葉に、留羽は耳を疑った。

「人を喰らわぬ……だと?」

「はい」

「信じられるとでも……!!」

「信じなくていいです」

「っ」

 目を閉じて、水増はうっとりと微笑んだ。

「僕は……夕凪さんに会えただけで、幸せだったから」

「……話を聞こう」

「……聞いてくれるんですか」

 水増は起き上がり、プールサイドに座ってプールに足を漬けた留羽に驚きの表情を向けた。

「妖怪退治が貴女の仕事でしょう」

「それは生業であって私の使命ではない。私の使命は……妖怪と人間が共存する世を見守ることだ」

「……」

 その言葉を聞いて、水増もプールサイドに座り、水に足を浸した。

「貴女は、優しいのですね」

「そうでもない」

「では強い」

「それは……あいつらがいるからだ」

 プールの向こう側で夕凪に指導を受けている男二人を見遣って、留羽は少しだけ唇の端を持ち上げた。

「……僕もです」

「?」

「僕も、夕凪さんがいるから、人を食わずにここまでこれた……」

 水増の視線は、まっすぐに夕凪を捉えていた。

「聞いてくれますか、僕の話を。……人間に恋した、哀れな牛鬼の話を――」









「帰したァ?!」

「倒さなかったのか?封印は?」

「していない。あの牛鬼は、もうすぐ死ぬ」

 午後六時の鐘が鳴り、閉鎖されたプールで、留羽は事の顛末を二人に話した。

「……人に恋した牛鬼、か」

「なんか、やりきれねえな」

「だが、あの牛鬼が問題でないとするなら、ここにはもう一匹妖怪か幽霊がいることになる。それを解決しないと……」

「あら?なんで貴方達がここにいるの?」

 プールサイドに居た三人は、再び響いた快活な声に驚いてプールの入口を見る。

 そこには、先程帰ったはずの夕凪が、先程と同じく競泳用水着と水泳帽、ゴーグルを身に着けた姿で立っていた。

「何故……!!」

「何故、はこっちの台詞なんだけど。私はこれから夜の練習があるのよ」

「夜の練習?」

 留羽の驚きぶりに笑う夕凪の声が静かなプールに反響する。

 九鬼の問いに、夕凪は「ええ」と小さく頷いて二十五メートルのコースの方へ歩いていった。

「私、競泳の選手なの。この町じゃここしか泳ぐところはないけれど、私、この町が好きだから」

「午後六時以降は化け物が出るという噂を信じていないのか」

「だって私、出会ったこと無いもの。あ、でも、今日会った水増くんにはここで出会ったのよ」

 その水増が妖怪だと気付いていない夕凪は、くすくすと笑いながら飛び込み台に立つ。

「彼ったらプールに取り残されたまま鍵を閉められちゃったらしくて。お腹が空いてぐったりしてたの。私の持ってきたお弁当を渡したらそりゃあがっついて食べてね――」


――「ありがとうございました。この御恩は決して忘れません」


「彼ってば、いつだって大げさなんだから」

「今水に入るのは危ない。今日は帰ったほうがいい」

「あら何故?それなら貴方達もそうでしょう。それに誰の許可を得てここにいるのかしら」

「それは……」

 留羽の言葉も、夕凪は意に介さない。

 そのまま飛び込みの準備に入り、綺麗なフォームで水に飛び込んだ。

「あっ」

「放っておけ」

 煙羅が止めようと一歩足を踏み出すのを、九鬼が止める。

「ほら、なんにも無いでしょう?」

 プールの中ほどで顔を水から出した夕凪が楽しそうに笑う。

 だが。

「っ、夕凪さん、水から上がれ!!」

「え?」

 ずるぅり。

 夜の闇が、蠢いた。

『獲物じゃ……獲物じゃぁ……』

「な、何の声……?!貴方達、悪巫山戯は……!!」

「私達じゃない!!いいから早く……!!」

『逃さんんんんんん』

 闇は形を取り、物質化し、その姿を現す。

 長い、長い蛇の腹が夕凪に巻き付き、締め上げるまで一秒とかからなかった。

『逃さん……獲物じゃ……久方ぶりの獲物じゃ……!!』

「蛇の体に女の顔……濡女(ぬれおんな)か!!」

 留羽が妖怪の名を叫ぶ。

 すると、濡女と呼ばれた妖怪は、感心したように留羽の方を向いた。

『妾の名を口にするとは賢しい娘やえ。お主も喰ろうてやるに、ちぃと待ちゃんせ……』

「あっ、がっ……!!」

「夕凪さん!!」

「煙羅、私を喰らえ!!」

 煙羅が夕凪の苦しそうな声に名前を呼ぶと同時に、留羽が左手を煙羅の前に突き出す。

「早く!」

 躊躇している暇はなかった。

 九鬼はどこからともなく霊銃を取り出し、煙羅は留羽の左腕に食らいつく。

 銃声が響き、水面から既に高く離れた位置にまで締め上げられた夕凪は、大きな水音を立ててプールへ落下した。

 それを煙羅がプールに飛び込み、救い出そうとする。

 だが。

『獲物じゃ、獲物じゃ。逃さぬ、逃さぬ』

 蛇の体から幾つもの煙――恐らくは霊銃で撃たれた傷から漏れいでる妖力だろう――が立ち上っているにも関わらず、濡女は夕凪と、今度は煙羅もその長い体で巻き取った。

「煙羅!」

「ぐ、ぎっ……こいつ、馬鹿力……っ!!」

「か、はっ……」

 その時だった。

『夕凪さん!!』

「…っ牛鬼!!」

『夕凪さんから離れろぉおおおおおおおおおお!!』

 プールの中で、もう一つ影が動いた。

 牛の頭に大きな蜘蛛の体。

 留羽が叫んだ名前に相応しい、異形の姿。

『おがあああああああああああ!!!!』

『何故、何故じゃ?!牛鬼殿、此度は獲物を分かち合う日ではないのかえ?!』

『彼女に手を出すものは、何者だろうと許さぬ!!』

 蜘蛛の体で濡女に張り付き、その鋭い爪で蛇の腹を引き裂いていく。

『あえ、おええええええええええ!!!!』

『散れ、か弱き妖怪よ。儂の相手は貴様には務まらぬ』

『おのれ、おのれえぇぇぇ、恨み申し上げますぞ、牛鬼殿おぉぉおおおおぉぉぉぉ』

『むんッ!!』

 一際力を込めた牛鬼の爪に、濡女の体はずたずたになって塵と消えた。

 後に残ったのは、濡女以上に奇妙な姿をした化け物と、気絶した夕凪を抱き抱えた煙羅と、プールサイドから叫ぶことしか出来なかった留羽と、銃を構えたままの九鬼。

『夕凪さんは、無事ですか……』

「ああ、……お前のおかげで、ちょっと肋骨が折れてるくらいで済みそうだ」

『……僕がもっと、早く出てきていたら……』

「いや、……気付いていたのか?濡女の存在に」

 留羽の問いに、牛鬼は首を横に振った。

『気付いていたらこんな時間に練習なんてさせません……僕がもうちょっと、勇気を出していたら……』

「牛鬼?」

 留羽が牛鬼の言葉と後悔の念に気遣いのようなものを向ける。

 それを押し留めたのは、九鬼だった。

「紀州の伝説にある。牛鬼は人を助けてはならない。助けた牛鬼は、赤い水となって死ぬ」

『その通りです……』

「ちょっと待て、じゃあお前は、それを承知で今……!!」

『餓死を、待とうと思ったんですがね……。それなら後一ヶ月くらいは一緒に居られた……』

 悲しそうに笑い声を立てる牛鬼は、いつの間にかプールの水を少しずつ赤く染めていた。

『夕凪さんに伝えてください。水増は遠い街に旅立ったと。ご挨拶も出来ずに申し訳無さそうだったと』

「……牛鬼……」

「しかと、心得た。安心して死ね」

 九鬼が請け負い、牛鬼は天を仰ぐ。そこにはプールの天井が広がっていた。

『本当は海で夕凪さんと一回でいいから泳いでみたかったなあ……。夜の海は、綺麗なんですよ、夕凪さん……』

 そして、煙羅のもとに泳ぎ着き、蜘蛛の前足で気絶した夕凪の頬を撫でる。

 それは水増のときの穏やかで情けない声と、寸分違わぬ恐る恐るとしたものだった。

『お弁当、美味しかったです。……あのときの夕凪さんの笑顔、忘れません。……騙していて、ごめんなさい……』

 そして、牛鬼は、まるで元々が赤い水だったように透き通り、ぱしゃん、と小さな水音とともに消え去った。









「そう……水増くん、遠い街に引っ越しちゃったのね……」

「あの日、言うつもりだったらしいですが、勇気が出なかったと言っていました」

「ふふ、飛び込みに失敗して変な夢は見るし、さんざんね、私」

 あの夜のことは、留羽が術をかけて夕凪には夢だったと思わせることにした。

 怖い思いをしたことを傷にさせたくないし――何より、牛鬼の姿で喋る水増よりも人間の姿で情けなく笑う水増の記憶を鮮明にしたかったのもある。

 それは留羽のエゴだと、留羽自身わかっていた。だが、どうしてもそうしたかった。九鬼に叱られても、煙羅に慰められても、何も出来なかった自分の唯一の罪滅ぼしだと思っている。

 市民病院に暫く入院することになった夕凪は肋骨を一本折っただけで負傷は済んだ。コルセット生活が窮屈だと夕凪は笑っていたが、声を出して笑うたびに痛むらしく、笑顔までに留めているようだった。

「でも、水増くんらしいなあ。お別れにも勇気がいるんだ」

「……」

「そういえば、今日はあの二人は一緒じゃないのね」

「今日は、一人で来ました」

 留羽が一人なのを珍しがって、夕凪が茶化すと、留羽は頷きを一つ返して、小さな鉢植えを病室のベッドの横に置いた。

「お土産です。早く良くなってください。……夏になったら、私も泳ぎを教えてほしいです」

「あら、ありがとう。泳ぎ、皆得意じゃないのね。貴女は何が苦手なの?」

「……浮かずに沈みます」

「それはそれは」

 くつくつと痛みを堪えながら夕凪は笑う。

「それ、水増くんとおんなじよ。彼も何故か水に浮かずに沈むの」

「……そうですか」

「どこかの街で、泳ぎが上手くなってるといいんだけど」

「きっと、大丈夫です」

「そう。……ねえ、この花の名前は?」

 青い小さな花をつけた鉢植えを見ながら、夕凪が問う。

 留羽もその花を見ながら、目を細めた。

「勿忘草です」







――第七話に続く。

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