無形のクラッジ
宇津喜 十一
第1章 無形のクラッジ
第 1 話 奇怪な機械
振り子が揺れている。
私は規則正しく揺れるそれを眺めていた。
それはカチコチと音を鳴らしながら動き続けている。壁に掛けられた茶色のその時計は、私の腕程の大きさの長方形だ。少し細かく言うと、指先から肩までの長さだ。
上部に付けられたローマ数字表記の時計の盤には、長い針と短い針、そして、細い針が一見してちぐはぐに見える動きをしていた。下部には硝子が嵌められていて、中には私の前腕ぐらいの長さの金属の振り子が吊るされている。硝子は汚れで曇っているが、中の振り子はくすみもない綺麗な状態であろうと思われた。
装飾は少なく、経年故にか木の色に深みがある。シンプルな造りだからこそ細部に至る職人の腕が光り、厳かな雰囲気を纏っていた。しかしながら、同時にやはり古びた印象も受ける。今にも動きを止めてしまいそうな、朽ちる寸前で足掻いている様な。
実際、今も動き続けているのは奇跡的なのだろう。それは、人によって薄寒さを背筋に感じるかも知れない。
時計があるのは和室である。
古く色の変わった畳の上に私は胡座をかいていた。そして、壁に掛けられたその時計を見ていた。
十年前に壊れて捨てたと言う時計だ。
周りに家具はなく、伽藍としている。形見の品以外、お金になりそうな物は全て売ってしまったと賀田さんは言っていた。唯、この時計だけはどうしても売れないので残しているとも。
家を売りに出す為に、定期的に掃除はしているそうで、年季は入っているが不潔さは感じない。だが、どこか居心地の悪さがあった。睨め付ける視線を受けている様な、不機嫌な人間の側にいる様な、そう言った不快さだ。
彼は時計の呪いを解いて欲しいと、私に言った。
時計に視線を戻す。
振り子が揺れている。
先日、私の事務所に賀田さんという方が訪れた。スーツを着た少しだらけた雰囲気のある男性で、酷く不安げな目をしていた。生気が無く、目は落ち窪み、頬の肉はげっそりとして、唇は乾いていた。
彼を応接間へと案内して、私は給湯室に向かいお客様用のお茶を淹れる。私が淹れると散らかると、助手の冬野君にいつも怒られるが、今日は彼がいないので気が楽だ。と言っても、後で怒られるか、今怒られるかの違いでしかないが。
彼の前の机の上にカタンと、紙コップを置いた。小さく礼を言った様だが、聞き取れなかった。
「此処の所長をしてます。
「
自己紹介も漫ろに、お酒を傍に置く私に彼はこう言った。
「あなたに解明して貰いたい謎があるのです」
彼は出されたお茶に口を付けない。
「問うなら答え、求めるなら応じましょう。それが思し召しならば」
彼は怪訝そうな顔をした。信頼に値するか測りかねている様に見えた。実際そうなのだろう。探偵をわざわざ頼りに来たのに、その相手がこんな時間から呑んだくれているのだから。
「お気になさらず。ただのお
だが、こうせねばならない理由が幾つかあるのだ。
私は机の上の酒瓶に視線を向けた。暗く、殆ど黒色に見える瓶は人工の灯りに照らされて、隠れた緑を浮かべている。中身はもうない。
彼は眉を顰めて、暫く私を見つめていた。悩んでいる様子だった。だが、すぐに口を開いた。
「突然、ある筈のない時計が現れたんです」
震えた声だった。
「一年程前の事です。母が亡くなったので、私と妹で遺品整理をしていました。午後の二時頃だったと思います。不意に鐘の様な音が鳴って、音の元に向かうと、壁に時計が掛けられていたのです」
どこか怯えた様子で、私の目も見ずに話し続けている。組まれた指は忙しなく動いている。
「その時計は母が祖父から形見で貰った時計なのですが、とうの昔に壊れてしまって、部品も無く修理も出来ないからと捨ててしまった物です。だから、そこにある筈がないのです」
「実は処分しておらず、妹さんか誰かが壁に掛けたとかではないのですか?」
彼の指が止まった。
「……いいえ。妹に訊いても知らないと。その時計が壁に掛かっていた事も音が鳴ってから初めて気付いたと言っていました」
私は空のグラスの縁を人差し指でなぞった。
「母はあまり人付き合いが得意でなく、家に訪ねて来るのは私達か、週一で来るヘルパーさん達だけです。その人達にも尋ねたのですが、やはり知らないと」
彼の目は私を見た。怯えた様な、疑う様な、曖昧な輪郭だ。薄い色の液体に黒を一滴落とした様な、輪を引き摺り広がりながら底に溜まる、綺麗な不安の模様だ。
「では、時計を掛けた人物をお探ししたら良いのですね」
「違うのです。いえ、それも知りたいのですが、それよりも大きな問題があって。その」
彼はまた指先を動かし始めた。
上手く言葉が纏められないのだろう、先程から何度も話そうとしては止めている。話を聞いた分には、気味の悪さはあれど、そこまで不安がる程でもない様に思える。しかし、これ程に説明に困る奇妙な状態にあると言うなら、そこにこそ、彼が警察ではなく私を訪ねて来た理由があるのだろう。
この世には形容し難い者、事象が存在する。
形容し難い者は、我々の言語では表現出来ない。見た事もない黒い光を説明出来ない様に、知覚の外にある物を人は形容出来ない。
私達の話す言葉は、基本的に人間同士で用いられる物で、必然的に人間の周囲にある物に名前や意味を与えがちだ。生活に使用しない物は、当然言葉としての使用頻度が下がる。余りにも使われない物はそもそも名付けて貰えなかったり、或いは次第に名前を失ってしまう事もあるだろう。
形容し難い者とは、人間に認知されていないが故に、名前もその存在を指す表現も無い者達だ。
唯、例外はある。彼等を見る事が出来る者達がいるからだ。その者達は、形容し難い者に新しく名前を与える事で、彼らを形作った。それは、とても小さな世界でのみ通用する、呪いの如き言葉の縛りだ。
私はその世界に繋がる扉と、彼等を見る目を持っていた。
賀田さんは縋る様に私を見た。怯えと混乱が瞳の奥から透けて見える。
「誰もいない筈なのに、誰かが居るんです」
「誰か?」
「分かりません。分からないんです。あの家に居ると、誰かがずっと私を見てくるんです。気味の悪いじめっとした目で。でも、周りを見ても誰もいない。私と妹しかいない。二人で一階の掃除をしていたら、二階を歩く足音が聞こえた時もあって。あれは、あれは何なのでしょう。あんなのって」
「見えない誰かが居るという事で?」
「信じて貰えませんよね、こんな事」
「信じますよ」
「嗚呼、それは良かった。私は分からなさ過ぎて、誰に相談したら良いだろうかと。だけど、気のせいにするにはそういう事が多くて。そう、これが気のせいなのか、どうなのかを知りたいのです」
言いたい事を言い終えたのか、賀田さんから少し肩の力が抜けた。息を長く吐いて、平常を保とうとしている。
確かにこの内容では、警察に相談する訳にもいかないだろう。友人に話すのにも抵抗を覚えるぐらいだ。心霊案件の相談を受けられるのは、数少ない上にピンキリで、選んだ相手が悪いと事態の悪化を招く事もある。
「成る程。心霊事象の有無の確認ですね。それと、時計を掛けた人物を突き止めると。このお二つで?」
「はい。それと、もし幽霊だった場合、除霊と言えばいいんでしょうか、して貰いたいのです。此処の探偵事務所さんは、そう言った事もやってらっしゃると聞いたので」
「まあ、ひっそりと、ですが、やらせて頂いてます。ご依頼は引き受けますが、唯、契約の話をする前に、一度、ご自宅の状態を拝見させて貰えますか?」
「ええ、勿論。いつにしましょうか」
彼は鞄から手帳を取り出そうとした。が、私の言葉を聞いて手を止めた。
「貴方さえ良ければ、今すぐでも構いません」
「そう……でしたら、今からいらっしゃってください。なるべく早く解決したいですから」
そう言って、鞄に黒い手帳を仕舞い直すと、賀田さんは席を立った。私も机の上の酒瓶とお茶の入った紙コップをそのままに、席を立つ。湯気はすっかり絶えていた。
上着を羽織り、事務所の電気を消すと、窓から夕陽が差し込んで来る事に気付いた。ビルに囲まれた立地の為、日当たりが悪く、橙に染まる空気に気付くのにいつも時間がかかる。腕時計を見ると、時間は既に午後五時を回っていた。
見に行ったら、そのまま家に直帰しようと思い、戸締りをしっかり指差して確認する。別に盗られて困る物はないが、盗んだ側が頭を抱える様な物はある。お互い良い思いをしないから、最低限の防犯は努めよう。
出入口の側で待っていてくれた賀田さんに「お待たせしました。」と一言言うと、彼は少し微笑んで「そうですね。」と答えた。
二階に位置する事務所の前にある踊り場と階段は、どんよりとした空気を纏っている。いつ消えてもおかしくない薄ぼんやりとした蛍光灯の中には、小さな黒い影が溜まっている。上に続く方の階段には明かりもついておらず暗い。
下へ向かう階段を降りると、玄関があり、それを抜けると建物の外に出られる。路地裏に面した出入口の壁に設置された、郵便受けの幾つかには郵便物が溜まりに溜まって、溢れそうになっている。
時間帯のせいか、大通りは沢山の往来があった。スーツやオフィスカジュアルと言った服装の、会社勤めの方達が多い。定時で帰れる人が、帰路につき始めているのかもしれない。
路地裏を抜けて、賀田さんと一緒に大通りの人の波に乗った。
道中、賀田さんは、時計とお母様の事について教えてくれた。
かつて家主であった母親のさとこさんがこの時計を手に入れたのは四十年以上前で、十年程前に壊れて動かなくなったので廃棄したらしい。古い物という事、また特殊な造りであった故、もう部品が無く修理が出来なかったのだ。
さとこさんの死んだ父親、賀田さんから見ると母方の祖父にあたる人から譲り受けたというから、製作時期は大分昔なのだろう。形見の品の時計を、さとこさんはとても大切にしており、零分の時に鳴る音を大層気に入っていたらしい。ゴーン、ゴーンと鐘を突く様な音だそうだ。
そのさとこさんが亡くなったのは一年前で、死因は肺炎だったと言う。
父親は四年前に亡くなっていた為、一人暮らしをしていて、また二年前に転んでから足も悪くしていたのもあり、異変が起きてもすぐに自力で病院に行けなかった様だ。嫌な咳をする彼女を心配して、賀田さんが病院に連れて行くと、肺炎と診断され、そのまま入院となったが、暫くして亡くなってしまった。なかなかの高齢であったから、寿命だったとも言えるかもしれない。
それからすぐ、家族は葬式と住んでいた家の処理に取り掛かった。他に親族もいなかったから、賀田さんと妹の絵里さんと二人が行ったと言う。それが始まる時にも終わる頃にも、母親が大切にしていた壊れた古い壁掛け時計の事など、誰もが忘れ去って、気にかける事はなかった。
だから、その時、彼らはとても驚いたのだ。捨てた筈の時計が元の場所で、かつてと同じ鐘の音を響かせたのだから。
十年前に代わりの新しい時計を贈った妹は、壊れたそれを片付ける時も、新品のそれを壁に掛かる時も居合わせた。新しい時計は視力が衰えたさとこさんにも見やすい様、数字が大きく書かれた円盤状の物だった。零分に音が鳴る事もなく、唯、健気に時を刻むだけの物だ。
より見易いデジタル時計にしなかったのは、カチコチと針の動く音を母親が好んでいたからだ。時計売り場でさとこさんは振り子のある物を探していたが、なかなか見合った物がなく、断念したらしい。
足の悪い彼女一人では、壁に時計を掛ける事さえも難しい。だから、妹が代わりに行った。それは確かだ。以後、時計が新しくなった事を賀田さんも見ていた。妹に買って貰ったのだと母親から自慢されたから、代えた事をよく覚えていると言うのだ
鳴り響く音を聞き呆然としたが、じきに二人は母親が人に頼んで時計を取り戻し、直して貰ったのだろうと考えた。しかし、十年も前に手放した品が今になって手元に戻るのもおかしな話であるし、当時既に無かった部品が手に入るとも思えない。
また、賀田さんは母親が入院する直前に家を訪れた時、時計は新しい物が掛けられていたと記憶している。母親から時間を訊かれ、答えるためにそれを見たとはっきり覚えていた。
外された新しい時計は、古い振り子時計の直ぐ下に置かれていた。何故直ぐに時計が変わっている事に気付かなかったのか、本人達も不思議に思ったそうだ。
見えない誰かの気配を感じ始めたのも、その頃との事だ。
そして、今現在も謎の時計について悩まされている。
「実に不思議な話でしょう」
「ええ、一体どこから時計はやって来たのでしょう。それさえ分かれば、やり易くなるのですが」
「是非、そこも突き止めて貰いたいと思います」
「ご期待に添える様、頑張ります」
ガッツポーズをしながらそう言うと、賀田さんはにこりと笑ってくれた。目元に皺が寄る、くしゃっとした優しい笑みだった。
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