18. 獣になりたい


 バイトが終わって家に帰ると、また少し模様替えされていた。小さな本棚ができている。布団のシーツが可愛らしい水玉模様になっている。


 俺に「おかえり」と言ったミイは、テーブルの上に卵と木耳きくらげを炒めたものを並べていた。


「布団のシーツ買ったのか」


「商店街の雑貨屋さんで、投げ売りされてたから」


「良いな。可愛い」


「昨日の服のお礼」


「気を使わなくて良いのに」


「ううん大したやつじゃないよ。ね、それで。どうだったの?」


 ミイは缶ビールを開けて、ちびちびと飲み始めた。


「わたし、働けそう?」


「あぁ、たぶん大丈夫。面接来て欲しいって」


「やった。サキ兄のバイト先の近くでしょ。一緒にお昼ご飯とか食べに行ったりできるよね」


「それがダメだって」


「え」


「店の客にしばかれるって」


「なにそれ、残念」


 ミイはションボリと肩を落とした。鍋で炊いた白米を茶碗によそうと「食べてみて」と俺に言った。


 卵と木耳きくらげの炒め物は、塩辛くて美味しかった。


「卵美味いな」


「でしょう。最後に入れて半熟にして。トロトロに」


「味付けも完璧。食べないのか?」


「うん。あんまりお腹空いていないから」


 ミイは口元に白い泡をつけながら言った。


「味見してるから。お腹いっぱいになっちゃうんだよ。それに、昼間あんまり動いてないし」  


 だらしない猫みたいにずっと寝ているのと、彼女は言葉を続けた。結局、米もおかずも俺一人で全部食べてしまった。


「美味しかった。ありがとう」


「どういたしまして。サキ兄も、わたしのバイトのこと、お願いしてくれてありがとう」


「いやいや。バニラさんが副店長で、そういう権限があったから助かっただけだよ」


 そう言うと、ミイはキョトンとした顔で首をかしげた。


「バニラさん」


「あー、そうだ。話を通してくれた人。バニラさんって言うんだよ」


「どんな関係?」


「え?」


「どこで知り合ったの?」


「店が隣で、良く路地裏でタバコを吸ってる人。たまに話し相手になってくれる」


「ふーん」


 ミイは落ち着かなげに、自分の前髪に触れた。 


「サキ兄はその人のこと好きなの?」


「その人って」


「バニラさん」


「まさか」


 ふと今日抱きしめられた時の、彼女の香りが立ち上る。ごめんね、と優しく言った彼女の身体は柔らかく温かった。あんな風に誰かに優しい言葉をかけられたのは、随分と久しぶりのように思える。


「今、その人のこと思い出したよね」


 ミイが俺の顔をのぞき込んでいた。


「何かあった?」


「何も。何もないよ」


「どんな人なの」


「金髪で、背はそんなに大きくない」


「可愛い?」


「まぁ可愛いだろうな」


 コスプレ喫茶で副店長をやっているくらいだ。固定のファンがいるという話も聞いたことがある。

 裏ではやさぐれているが、チラッと見かけた笑顔を振り向くバニラは、驚くくらい綺麗だったのを覚えている。


「サキ兄って、どっちかって言うと、年上好きだもんね。昔そんなこと言ってたし」


「いつの話だよ。それにどんな関係でもないし」


「そっか。そうだね」


 彼女は膝を抱えて、うつむいていた。


「私たちだって、別に恋人っていうわけじゃないし」


 わざとらしく落ち込んだ様子で言った彼女は、再び缶ビールに手をつけた。美味しくもなさそうに、ミイはそれを喉に流し込んでいく。


「なぁ、ミイ」


「なあに」


「本当にずっとここにいるつもりか」


「ダメ?」


「ダメじゃないけど。良くはない」


 聞かなきゃダメだよ、とバニラの言葉を思い出す。


「学校で嫌なことがあったんだろ」


「嫌なことしかなかった」


「通信でも夜学でも良いから、戻った方が良いって。一度家に連絡して」


「いやだ」


 俺の言葉を遮って、彼女は大きく首を横に振った。


「絶対に嫌だ」


「嫌だ嫌だって。そんなんじゃ、何も解決しない」


「解決しなくたって良い」


 怒ったように言って、彼女は缶をテーブルの上に置いた。


「解決しても何もならないんだから」


「そんなことないよ、きっと」


「何もないよ。何もならない」


「でもさ」


「じゃあ。それで幸せになれるって言うなら、サキ兄が証明してみてよ」


 吐き出すように言った彼女の言葉に、何も反論ができない。幸福なんて感情をここ数年味わったことはない。


 正しい生き方も知らないのに、人を説得しようとするなんて哀れだ。


「何かやりたいこととか、ないのか」


 間抜けな返答。自分に呆れる。


 ミイは缶ビールの表面についた水滴を見ていた。文字がゆがんで浮かび上がって見える。アルコール分7パーセント。最近ミイがどれくらいの量を飲んでいるのかは、もう分からなかった。


 彼女は身体を動かすと、俺の背中に手を回した。


「生まれ変わるなら、獣になりたい」


 ミイが俺の上にまたがった。そのまま身体を寄せると、こじ開けるように舌を入れてきた。


 彼女の舌が、俺の口の中で何度も交わる。彼女は自分の身体に、俺の手を導いていった。


「理性を失った獣」


「それはただの堕落だよ」


「それで良いの」


 あ、と彼女が甘い息を吐いた。パーカーのジッパを下げて、ミイは下着姿になった。


「脱がせて」


 俺を見返す瞳が、深くにごっている。


 深淵がこちらをのぞいている。


 それから目をそらして、セックスを始める。下着のホックを外す。綺麗な形の胸が現れる。裸で抱き合って、彼女と求めるままに抱き合って、獣みたいに眠る。


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