花冷え






 最初は、その後姿を見ているだけだった。

 閑雲の出だとはすぐに分かった。

 十にも満たない少女なのだ。

 そうそう割り切れるものではないだろう。


 気のすむまで。

 そう考えていた。


 ただ気になったのは、彼女以外に人がいない事。


 些細な事。


 どうせほどなくして迎えに来る。見物人は去るべきだ。

 その場を去った。




 三日後。少女はまだいた。

 態勢も場所も微塵も変えてはいない。

 迎えが来ても、拒んだと言ったところか。



 次の日。誰も姿を見ていない。


 見たくはないか。


 故郷の成れの果てを。


 漸く思い至り、そして、駆け走った。

 生きていると思ってはいたが、もしかしたらもう、骸なのかもしれない。


 初めて抱いた同情。

 埋めてやらねばという義務感。


 最後の一歩が止まる。


 どうしてか、勇気が要る。


 踏み出す。そう念じて、一歩を踏み出し。


 少女の横に並び。

 念じて。

 少女に身体を向ける。

 痩せている少女の身体は、微かに動いている。

 呼吸のたびに、身体は動く。


 安堵したのは事実。

 恐怖を感じたのも、事実。


 逃げ出せなかった。

 逃げ出したかった。


 波の音が聞こえる。

 波ではない声が聞こえる。


 聞きたくない。

 逃げたい。


 ごめんなさい。

 耳に届いたのは、恐怖をまるで感じさせない、淡々とした声音。


 感情をすべて殺ぎ落とした?

 いいえ。

 感情をすべて押し殺している。


 ごめんなさい。

 ぽつり。彼女は言う。


 ああ、郷里の誰かに謝っているのか。

 察したつもりが、違った。


 彼女は自分に向けて言っていた。

 ごめんなさいと。

 ここから動きたくない。邪魔になってごめんなさい。


 ぽつり。ぽつりと、彼女は言う。

 恐怖はいつの間にか消えている。


 一人なの?

 思ったよりも、しっかりしている優しい声が出た。


 うん。彼女は答える。

 そっか。


 後に続く言葉が見つからない。

 お腹空かない。私、おにぎり持っているから。

 漸く思いついた言葉。あげる前提で背負っていた荷からおにぎりを出そうとしたら、少女は要らないと答えた。


 ごめんなさい。

 彼女はまた謝る。

 ごめんなさい。ありがとうございます。でも、お腹が全く減らないの。私、お花になったのかな。彼女は言う。

 そっか。


 どうしようか。内心、迷う。

 無理矢理彼女をここから連れ出そうか。誰かが来るまで傍にいるか。

 一人で立ち去る選択肢はすでになかった。

 どうしようか。


 ごめんなさい。

 悩む間も彼女は謝る。

 ごめんなさい。動きたくない。


 助かった郷里の者か、自分と同じ物見遊山の者か、役人か。

 きっと、全員だ。誰もが口にしただろう。

 一緒に行こう。もうあそこには帰れないから。

 分かっているから、彼女以外、ここにはいないのだ。

 彼女しかいないのだ。


 ごめんなさい。

 謝る彼女に、いいのよと口にする。

 いいのよ。

 言って、その場に座った。

 私も少しだけ一緒にいていい?

 尋ねると、うんと少女は答えた。

 しばらく、無言が続いた。


 あのね。

 彼女が言う。

 なに。

 私が答える。

 私、ずっとここに居る。

 彼女は言う。

 ずっと、ずっと。死ぬまでいる。死にたくないけど、いる。


 どうして。

 生きていける声に聞こえた。

 だから不思議で仕方がなかった。

 少し、咎めの言葉も入っていた。

 どうして生きているのに、生きようとしないの。


 彼女は言う。

 生きているのかな。

 私は、生きているのかな。

 生きている。だから、


 一緒に。言う暇を彼女は与えてくれなかった。


 私はどうして生きているの。

 問われて、息を呑む。


 どうして私は生きているの。

 どうして私は死んでいった人の後を追わないの。

 どうして私は家も道も店も学校も自然も何も思い出せないの。

 どうして私はみんなを思い出せないの。

 どうして死んだの。

 病気じゃないのにどうして死んだの。

 どうして死んだの。


 諦めて、涙を流して、笑って明日を生きようって言ったのに。


 どうして。


 私はどうしてここにいるの。


 どうして私は死んだ人の後を追わないの。


 淡々と。緩やかな単調で。彼女は問う。



 生きる為。

 なんて素晴らしく抽象的な言葉だろうか。


 口を閉ざす彼女。

 言葉を失う自分。


 彼女は死ぬまでここにい続けるだろう。

 現実として受け入れる。


 立ち去らなかった。

 立ち去れなかったのではない。


 恐怖故にではない。

 せめても、見取りたいと思ったからだ。

 答えを出せない代わりに。




 日が沈み、日が昇る。

 用を足す。食事を調達する。時々近場の泉で身体を洗う。それ以外は彼女の傍にい続けた。


 共に逝きたいわけではなかった。

 そこまでは、付き合えなかった。

 そこまでの覚悟は、なかった。


 痩せている身体はそれ以上、細くはならなかった。




 一週間が経った。

 食事の調達から帰ったら、彼女の姿はなかった。


 安堵した。悲しかった。

 悲しかった。

 後を追ったんだろう。

 どちらの。

 生きているみんなに。

 死んだみんなに。


 誤魔化したかった。

 生きている可能性を消したくはなかった。



 愚かにも。



 涙が流れる。

 流す必要などないのに。


 彼女は生きているのだ。


 悲しむ必要がどこにある。

 いたむ必要がどこにある。




 波の音が聞こえる。

 波の音だけ。


 それ以外は何も聞こえない。


 聞こえてはいけない。






 聞こえてはいけないのだ。











 行こう。

 三日が経って、歩き出した。

 また来ると伝えて、歩き出した。

 一歩、二歩。ふと、立ち止まった。

 名前を告げていなかった事に気付いた。

 忍びだった時の癖が抜けていない。これではいけない。


 本名を名乗る。

 宮本竹蔵みやもとたけぞう

 女なのに、失礼な名前だ。そう思わない。

 笑って、付け足す。

 忍びでもあると。




 ああ。

 言っておけばよかったと。

 心底後悔した。















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