第32話 休息、遊戯、群れへの切望/まひわが金盞銀台に羽を下ろす理由は、
「私がこの子を守ってみせるから」
ああ、
どうか、
そんな、
敵に向けるような目で見ないでくれ。
俺はただ、君が心配だったんだ。
自分を粉にしてあいつを守る君が、いつか、なくなってしまうのではないかと。
俺の眼前から、文字通り、消失してしまうのではないかと。
ああ。
認めよう。
大切で、他愛ない、緩やかな時間を奪うあいつが憎かった。
子どもはただでさえ手が焼けるのに、さらに頭を抱える病も持って生まれてきたあいつが憎かった。
俺と、何より、君の子どもだ。
憎悪を抱くなど、在り得ないことなのに、
苛立ちや怒りが生まれようと、愛情が相まっているはずなのに、
愛情は確かに持っていたはずなのに、
「私が。私がこの子を元気に生まれてこられるようにしなくちゃいけなかったのに。ごめ。ごめんなさい。私と、あなたの大切な子だったのに。愛おしくて、かけがえのない子だったのに。ごめんね。ごめんね。お母さんが、間違ったことをしたばっかりに。お母さんが、しなくちゃいけないことをしなかったばかりに。あなたに、苦痛を与えて続けてしまう」
君を悲しませるあいつが憎かった。
「大丈夫。大丈夫よ。ほら。元気いっぱいのごはんですよー。うん。すごい。わー。すごい。いっぱい食べたね。うん。大丈夫よ。少ししか眠らなくたって。少ししか声を聴かせてくれなくたって。こんなに食欲旺盛で、身体もきちんと動かしてくれるもの。お医者さんも健康だって言ったものね。うん。生命は神秘。世間がどうだっての。あなたが元気ならいいの」
君を痛めつけるあいつが憎かった。
「信じられない。この世界はおかしい。この子が何をしたっていうのよ!何もしてないのに!あいつらがおかしいのに!おかしいって私はあいつらに……暴力はいけなかったって、わかってるわよ。でも、思い知らせたかった。この子は何もしてない。あんたが、あんたの子が、どれだけ非道で残虐なやつだって。子どもだけに言ったってしょうがないでしょ。先生だけでも、親だけでも。みんなに思い知らせないと。この子は確かに。みんなとは違うけど、みんなと同じだって。大切で、かけがえのない、互いに尊重すべき、一人の人間だって」
君を孤立させるあいつが憎かった。
「なんで。なんで。なんで。どうして。あなたまで、私がおかしいって責めるの。この子には私がいない方がいいって、私を責めるの。いいえ。責めて当然よね。私がいけないんだもの。私が全部。でもだからって。ひどい。休めって。なに。休む。意味がわからない。私はこの子の傍にいることが一番休まるの。安らぐの。なによ。その目。あなたまで、私を。この子を、そんな目で見るの。止めて蔑まないで憐れまないで憎まないで私からこの子を奪わないで!」
俺から君を奪うあいつが憎かった。
愛情
なんて、どこにもなかった。
持っている
ただそう錯覚していただけ。
俺はおまえがただただ憎い。
藍子の愛情に泥を塗る行為をしないでくれ。
少しは愛想をよくしろ。
少しは世間に歩み寄れ。
少しは、
俺を見ろ。
『あなたが俺を実の子だと思えなかろうが。俺の父親はあなたで、あの人が俺の母親だ。この先、一生父母だと声を出して呼ばないが。心の中ではいつもそう呼んでいる。俺はあの人が世界で一番大切だ。この想いだけは。あなたがどれだけ否定しようが、あなたと変わらない。だから、あの人が幸せになれるなら。俺は。変われないから』
「変われないから、あいつはだめなんだよ。なあ。そう思うだろ。菜乃」
静かに入ってきた親友を出迎えながら、顔を見て思った。
俺もきっとあいつをこんな眼で見ていたのだろう。
少しだけ古ぼけた印象を持たせる煉瓦と蔦が這う外装に、ほどよく清潔感があって、ほどよく懐かしい内装の喫茶店に案内した吉柳が紹介したのは。
「安全。清潔。健康。己をよく見ろ。相手の同意を得ろ。独りでも、二人でも、条件は全部を満たしてないならするな。嫌悪も愛情も捨てるな。だが、嫌悪よりも愛情を僅かだけ上乗せしろ。いいか。興味本位なら自分の身体だけにしろ。だが、条件は満たせ。独りでも。二人でも。怖がれ。いつくしめ」
吉柳と同じゲイで、目つきが鋭く、音量が小さく、早口の人物、
俺と吉柳が四人掛けの丸い卓に備えられた丸い椅子に座ってから話し出したので、耳と言わず、身体も傾けて、聞き入れた俺は何とか棚田さんの言葉を拾えたようだ。
内容を咀嚼するよりも前に、その事実に安堵した途端、ぽろぽろと涙が零れてきた。
緊張が解けたんだろうか。
まとめようとしたけど、はちゃめちゃになってしまった俺の手紙を吉柳に前もって棚田さんに渡してもらっていたのだ。
どんな言葉をかけられるのか。
怖かった。
すごく。
甘ったれるなと否定されるか。
みんなそうだと肯定されるか。
どちらも望んでいるようで、望んでいなかった。
卑下していた。自分をすごく。気持ち悪いと思った。
睡眠欲や食欲と同じように身体に組み込まれた機能で、多かれ少なかれ逃れられないという、諦めも持てるようにはなって、そう思えば虚しさはあっても前だけで処理もできるが、抱かれたいという欲がどうしても散らせない時、本来使わないところに手を伸ばしてしまう。
だけど、触る寸前で、怖くなって、泣きながら、前を触って、めちゃくちゃにしごいて、頭を空っぽにさせた。
汚い、気持ち悪い、普通になりたい。
清らかな行為だと思っていた。
互いが互いに求め合う愛情に満ち満ちた行為だと。
それがどうだ。
欲を満たす行為でしかない。
絶望しかない。
棚田さんは肯定も否定もしなかった。
ただ淡々と性行為、自慰行為をする際に気を付けるべき事項を述べただけ。
それだけ、
なのに、
俺は声を殺して泣いた。
身体の中では暴れまくっている音を出したくなかった。
泣きわめくなどありえなかったのだ。
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