十四








『憎め。恨め』


 何時頃からだったか。深淵の闇の中で、命じる低く冷たい声。応じるわけがない。


『止めて』


 その場から逃げ出しても、その声は執拗に追いかけてくる。違う。この空間自体がその声の主そのもので、逃げられるわけがないんだ。


『殺せ。殺してしまえ。こいつは』






「止めて!」


 希羅は上半身を飛び跳ねるように起こし顔を両手で覆った。ふと、ぬめりとしたその濡れた感触に違和感を覚え、両の手を顔から離すと、朝日に照らされたその両の手には――。


(夢、じゃない。もう、駄目だ。早く、この家を継いでもらわないと)


 戦慄きながらも、希羅が手にこびりつきほんの少しだけ固まっていた液体を拭った布には、鮮血の真っ赤な色が残っていた。


 もう、時間がない。











『あなた、鬼なの?へえ。想像と全然違うわね』


 女の陽気な声。鈴の音のように笑う。温かい。落ち着く。安堵感。幸福感。


(誰だ?)


『おまえ、復讐したいか?』


『俺に力をくれるってんなら、例えあんたが―でも、俺がどうなっても、構わない』


 全てを喰らい尽くす炎が周りを燃やす。何もかも。其処に居たのは、低い声の主と大人と子どもの狭間の声の主。切望と憎悪。――と――。


(誰なんだよ)


『あなたの親になった、譲り葉よ。よろしくね』


(おふくろ)


 此処になってようやく、声だけの世界に形が、色が付き始めた。


 映し出されたのは、修磨の母になってくれた一人の女性、譲り葉の顔。長い漆黒の髪には一筋だけ白髪が目立ち、細い目は笑うと目を瞑っているようにしか見えずに、優艶な口からは次々と言葉が紡ぎだされる、ふくよかな顔立ちであった。




『あなたの秘密を知っているわ。あの子を、助けてくれたなら、あなたのお母様に訊いてみなさい。嘘言って聞き出そうとしても、無駄よ。だから、お願い。あの子を』




 次に映し出された女性も良く覚えている。だが。

 この声は―――!?









「?何の夢を見ていたんだ」


 修磨は目を覚ました時にはもう、夢の中で聞いた声のことはすっかり忘れていた。譲り葉やもう一人の女性のことは覚えているが。


「約束は、守ってもらうぞ」


 修磨はその女性の顔を思い描き、一人ごちた。病で苦しむその表情は弱弱しいにも拘らず、掴まれた腕は女性が、ましてや瀕死の人が出せる力ではないと思うほどに強かった。


 その女性の名は、梓音しおん。希羅の母親であった。








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