元スパイ、家政夫に転職する

秋原タク/角川スニーカー文庫

プロローグ 解雇、そして邂逅。 1

   □□


 その宣告は、唐突に。

「ナンバーナイン。本日付けで、あなたを『ちようほう』から解雇します」

「……は?」

 一瞬、頭が真っ白になる。

 昼前のトレーニングルーム。俺は両手に持っていたダンベルを置き、訳のわからない宣告をしてきたスーツ姿の金髪碧眼の女性、キャサリン・ノーナンバーに向き直った。

 彼女の後ろには、いまにも泣き出しそうな表情をした同僚の女性スパイたちが、十数人ほど待機している。

「笑えないジョークだ」

「笑えなくて当然よ。これはジョークじゃなくて、単なる事実なんだから」

 そう答えるキャサリンの青い瞳は笑っていない。

 諜報部の長官トツプを務めているにもかかわらず昼間から酒を飲んでは酔っ払い、『ねえナイン、いまからワタシの元彼をぶん殴ってきてよ』なんて、くだを巻いていたあのキャサリンが、いまは真剣な表情で俺を見つめてきていた。

(嘘や冗談の類ではない、ということか……)

 俺は、タオルで汗を拭きつつ。

「……解雇の理由を聞かせてくれ」

「理由ですって?」

「ああそうだ。俺は……まあ出来のいい『スパイ』とは言えないが、それでも『フルピース』のために尽力してきた。文字通り、人生のすべてを捧げてきたんだ」

 秘密組織、フルピース。

 何百年も昔から世界を裏で支えてきたフルピースには、ふたつの部署が存在する。

 ひとつは、各国の軍に戦闘員を派遣する『軍部』。

 もうひとつは、各国政府に諜報員——スパイを派遣する『諜報部』だ。

 スパイは秘匿性が重要なため、俺のような身寄りのない孤児しか諜報部に入ることはできない。孤児であれば、もし任務を失敗しても死体から個人情報がバレることはない……ひいては、フルピースの存在を隠すことができるからだ。

 そうした特性上、メンバーの名前は『ナンバー○○』といった風に番号で呼ばれる。表記としては、『No.000』といった具合だ。

 俺は『No.009』——ナンバーナイン。

 みんなからは、ナインと呼ばれていた。

 五歳の頃。名もない戦場で、孤児の俺はフルピースの十四代目『ボス』に拾われた。

 それから十五年間。毎日欠かさず修練を積み、必死にスパイ任務を遂行してきたが、どうしてか任務達成率は10%を超えなかった。

 今年で二十歳を迎え、酒を使った工作技術も自然に行えるようになった。

 これから、大人のスパイとして躍進していく予定だったというのに。

「なあ教えてくれ、キャサリン。どうして俺が解雇されなくちゃいけないんだ?」

「どうして、ね……」

 重ねて問うと、キャサリンは呆れたように背後、十数人の女スパイたちを振り返った。

「……コレを見てもまだわからない?」

「? なんの話だ? なあ、いいから答えてくれ、キャサリン! 俺はどうして——」

 詰め寄り、キャサリンの細い肩を両手でガシっ、と掴んだ。

 その直後だ。

「——きゃー! この浮気者ッ!!」

 十数人の女スパイたちがそう、一斉に悲鳴をあげ始めた。

 鋭い眼差しで俺を睨みながら、ボロボロと涙を流して嗚咽をもらしている。中にはその場にくずおれてしまう女スパイもいた。

 ふと周囲を見回すと、トレーニングルームで運動していたほかの男スパイたちが、何事かとこちらに視線を向けてきていた。

 いや、何事かと思っているのは俺のほうなんだが。

「つまりは、これが解雇理由よ」

 言いながら、キャサリンは俺の手を払いのけると、泣き崩れる女スパイたちを見やり、嘆息まじりに続けた。

「ナイン、あなたは女性にモテすぎるの。そのせいで諜報部の女スパイが全員、軒並みあなたの虜になっちゃったのよ」

「なッ……俺の虜だと? なにを馬鹿な……」

「あなたの任務達成率が低い理由、どうしてだかわかる? あなたが任務中に関わった女をこぞってたぶらかしていったからよ。無自覚に、敵味方関係なく、ね」

「た、誑かしてなどいない! 人聞きの悪いことを言うな!」

 思わず反論するが、たしかに言われてみると、任務失敗の決定打になっていたのは、いつも女性関連の出来事だった気がする。

 とある企業に新入社員として潜入し、社長室から機密書類を盗みだして脱出しようとしたときも、『あ、あと五分だけ話してかない?』と女性秘書に強引に引き止められて任務失敗。とある戦場に新兵として潜伏し、敵国側の駐屯地に爆薬を設置しようとしたときも、『な、なあ新入り。あたいの自慢のナイフを見ていかないか? 先っぽ、先っぽだけでいいから!』と敵兵の女性士官に力ずくで近くのテントに引きずり込まれて任務失敗。

 ……心あたりがありすぎるな。

 そうして過去の任務を思い返していると、泣いていた女スパイたちが「いまさら言い訳する気!?」「この無自覚悪魔!」「天然ジゴロ!」「あんなやさしく話しかけてきたくせに!」「でもそんな純粋なところが好き!」と口々に声をあげ始めた。待て。ひとり告白してない?

 オーディエンスをなだめる司会者よろしく、キャサリンが「どうどう。落ち着いてみんな」と女スパイたちを黙らせ、話を再開する。

「自分のことだから気づきにくいのはわかるわ。でもね? あなたの顔立ちや甘い声、日系人特有の綺麗な黒髪は、女性の乙女心を無性にくすぐるのよ」

「そ、そんな、俺は別に……」

「わかってる。ナインはなにも悪くない。でも、このまま諜報部にいられると組織の存続危機にもつながるの。これがどれだけの緊急事態か、あなたならわかるわよね?」

「——、——」

「このことはもちろん、ボスも了承している。ナインのことは特別可愛がっていたから、残念がってもいたけどね」

「……そうか、ボスが」

 フッ、と全身の力が抜けるような錯覚に襲われる。

 俺がスパイとして躍進したいと願ったのは、すべてボスへの恩返しのためだった。

 あのひとの役に立ち、あのひとの駒として死ぬことこそが本懐だった。

 俺が在籍し続けることで、その大本である組織の存続が危ぶまれるというのなら、俺に選択肢はない。

 すべては、ボスのために。

「……わかった。今日限りで、俺は諜報部を辞めよう」

「ありがとう……ゴメンなさいね」

 俺の宣言を受け、キャサリンは申し訳なさそうにうなずくと、脇に抱えていたファイルを渡してきた。

「これが次の転属先のリスト。まさか解雇してそのまま浮浪者になれ、だなんて言えないからね。ボスと相談して、かなり優遇してもらえるところをピックアップしておいたわ」

「すまない、助かるよ」

 そう言って、ニコッ、とわずかに微笑むと、キャサリンが「う」と短く呻いた。

 同時に、背後の女スパイたちまでもが「出たわ、あのやわらかスマイル!」「わたしはアレに落とされたのよ!」「卑怯よ、あんなの見せられたら惚れるしかないじゃない!」「ああやっぱ好き!」とおかしな反応をしだした。うん、告白してるひとは無視しよう。

「どうした? キャサリン」

「な、なんでもないわよ。ちょっと心が乱れそうになっただけ——それで、どこか気になる転属先はありそう?」

「そうだな……」

 フルピース内の軍部、各国の陸海空の軍隊、果ては政府極秘の暗殺者など、様々な役職がズラリと並んでいる。

 基本はやはり、スパイの技能を活かせる職場が多いようだ。

「転属先は、今日中に決めないといけないのか?」

「一応、明日までにってことになってるけど、吟味したいのならいくらでも待つわよ」

「いや、大丈夫だ。キャサリンの仕事を残すのもあれだし、この場で決めて——、ん?」

 ふと。

 ファイルの一番下に、一枚の紙切れが挟まれていることに気づいた。

 何の気なしにそれを手に取り、確認してみる。

 すると。キャサリンが「ああ、えっと……」と、どこかバツが悪そうに口を開いた。

「それは、ワタシのプライベートな親友に頼まれた任務でね? 海外出張で家を空けることになるからっていうんで、誰か適任者がいないか探してたところなのよ。言ってみれば、それこそジョークみたいなもの。フルピースの人間を派遣するわけにもいかないし、ましてやスパイのナインには到底不釣合いな——」

「——これにする」

 遮って、俺は紙切れをキャサリンに突き出した。

 ドクンドクン、と不思議な高揚感が胸を叩く。

「この職場に転属しよう……いや、見るからにフルピースとの関係性はなさそうな職場だから、転属ではなく転職ということになるのか」

「ほ、本気? ジョークだとしたら笑えないわよ……?」

「笑えなくて当然だ。ジョークではなく、本気で言っているのだから」

「……いや、まあ、ワタシとしてはありがたいけど……本当にいいのね?」

「ああ。よろしく頼む」

「そう……アンタがそれでいいなら、別にいいけど」

 訝しげにしながらも、俺の個人ファイルに新たな転職先を書き込んでいくキャサリン。

 スパイとして躍進するという夢は潰えた。

 ならばこれを機に、それらスパイ技術を使うことのない、まったく新しい職場に踏み込んでみるのも悪くないかもしれない。

 俺は、未知の領域に踏み込む好奇心と共に、そう思ったのだった。

「はい、記入完了したわよ——じゃあ、すこし形式ばってやっておきますかね」

 ペンを仕舞い、キャサリンは咳払いをひとつ。

 あらためて俺に向き直ると、長官として新しい職場を告げてきた。

 これが、俺の最後の『任務』だ。

「元諜報部ナンバーナインに告げる。日本のS県に向かい、ざきふゆの娘たち、葉咲三姉妹の『家政夫』を全うせよ」

「了解した」

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