火星のどこかで待ち合わせ(後編)⑪

 だがどのみち地球に行くしかないと、羽生はわかってきた。このままなにもしなければ、マスタードは故障するまでずっと火星で働く。生産元のサポートがないまま、昔の記憶が消えたまま……。なにより、ロスの任期が自分より半年あとなのが気になった。おれがいなくなったら、マスタードはお払い箱になってしまうだろうか。たとえロスになにもされなくても、次の作戦担当がマスタードをうまく使えなかったら、倉庫で眠り続ける羽目になるかもしれない。機能を果たせずに。それは本人にとって、どれほど無念なことだろう――当人は「無念」とは言わないだろうが、なんにせよ、機能の追求などとは程遠い状態であることはわかる。

 クリュセ平原の哨戒任務中、無線の通話が切れたのを見計らって、羽生は切り出した。「地球行きの件だけど」

「その話ですが」マスタードが話を引き取った。「再度、検討の余地があると思います。わたしはNDSの備品ですので、勝手にどこかへ行くことはできません」

「ネッドも同じようなこと言ってたな。どうにかして、船にさえ乗っちまえばいいんだろ。地球に来ちまったものをわざわざ送り返したりはしない」

「検疫はどうやって突破するのですか? 地球・火星間の荷物は出発時と到着時に必ず検査が入ります。わたしの脚部パーツが手元に届くまで時間がかかったように。おそらく火星を出る前に見つかりますね」

「書類上、おまえの使用責任者はおれなんだから、見つかったところで何もおかしなことはないだろ。検疫の奴らには、どうせ細かいことはわからない」

「あくまで『これまでは』の話ですが、使用責任者は火星を離れた瞬間、次の担当に引き継がれます。それと、運用責任者は基地長なので、連絡を取られたらそこでおしまいです」

「だったらいっそ、おれの私物コンテナに……」

「会社の備品を私物として持ち出す言い訳はなにか考えてありますか? わたしは今のところ思いつきません」

 途方に暮れた。自分も思いつかない。だが、これまで何事も果敢に取り組んできたマスタードが、ここにきて消極的な様子なのはどういうわけだろう。

 言葉を選んだつもりだったが、かなりぶっきらぼうな言い方になった。「……ここにいたいなら、そう言えばいいだろ」

「そうではありません」マスタードは落ち着いた口調のまま言った。「ですが、事実として、わたしはあなたと一緒に地球行きの船には乗れないのです」

 羽生は何度かうなずいた。マスタードが言っているのは至極当然なことだ。それは、そうだ。いったいなにを、何に対して、期待していたのか。落ち度は自分にある。すぐに離れ離れになるとわかっているものと、関わる機会を増やすべきではなかった。

「ああ。そうだよな」

「わたしが思うに――」

 羽生はさえぎった。「もう、いい。わかった」

「そうではなくて」

 ――だろ。「じゃあ、来月にはお別れだな。世話になったよ。おかげでここの仕事も、悪くなかった」

「ハニー、話を……」

「もうわかったって。おまえと喧嘩したくない……」

「わたしも同じです」

「だったら……」目線を前に逃がしたとき、羽生はあるものに気づいた。「待て。あれは?」

 マスタードも視認した。「なんでしょう?」

 足元からゆるやかな下り坂がはじまっている。ここはクレーターのふちだった。特殊な装備なしで上り下りできる、浅いくぼみだ。その底に、岩とは違うなにかがある。周りの岩石とは異なる質感だ。

「不審物ですね」マスタードが遠目からチェックする。「生体反応ありません」

 双眼鏡を覗く。

「……確認する」

 羽生は早足で歩きだした。相棒が着いてきているかも、ろくに確かめずに。「こういうときは普通、わたしが先行するのでは?」という苦言も聞こえたが、かまわずにクレーターを下っていった。会話を切り上げるいいきっかけがあって助かったという思いもあったが、双眼鏡を覗いたときに、それは消えていた。見間違いでなければ――不審物には見覚えがあった。

 だが、どうしてわかるだろう。

 それがマスタードとの最後の会話だった。





 一定間隔の電子音が耳の中を占拠している。

 青くぼんやりしたものが頭上に見える。医務室のベッドを囲う仕切りカーテンの色だろう。傷病者用の寝台に寝ている。ベッドサイドの機械から、ピッ、ピッと規則正しい音がしている。

 素足になにかが押し付けられていて、すごく不愉快だが、そんなはずはない。あんなずたずたになった肉でなにかを感じられるとは思えない。ひざから下の骨と肉の残りを引きずってバギーの充電ポストまで行ったのは夢だったのか? 救援要請を出したのも、コンテナから止血帯ターニケットを引っ張り出して自分で足の止血をしたのも? かかとがきゅうくつで耐えがたいほどだ。なぜだろう? もうなかったと思うが……早くフェーダーを下げないと……。

 近くに人が立った気配がする。

「なんで……」かすれた自分の声。「あんなものが……」

「おそらく、前の調査隊のものだ。火星人への攻撃に使われたものが処理されずに残っていたんだろう」

 誰だ? なんの話をしているのかわからない。

「……なに、が……」

「爆発物の事故だ。会社として謝罪する。きみの治療と復帰に全力を尽くそう。大丈夫。必ず回復する。いい病院も紹介しよう」

 ――フェーダーを下げろ……。

即席爆発装置IED……あれは」頭ががんがんする。今なにをしゃべっている? 「だった……なんで、あんなところに……?」

「まさか、見間違いじゃないか?」

 ――フェーダーを……。

「ファッジ……指令を……呼んでくれ……」

 人影がゆらゆらと動く。頭を振っているようだ。「記憶の混濁が見られるね。ファッジ中尉はもう、ここにはいない」

 ――麻酔が効いていて痛みはないのに、おれは今、なんのフェーダーを下げようとしているんだ……?

「……タトゥーが……左腕の……あの変な鳥……間違いじゃ……」

「見間違いだ。そうだろ? 羽生二等軍曹。きみは第五次調査隊が処理し忘れたIEDでひどい怪我をし、地球へ帰る」

「……地球……」

 ――地球に? ひとりで?

「ああ、もちろん。生きて地球に戻ろう。しっかりな」

 影が離れた。



 医者の――ジェラルドの声がする。外に出してくれと頼むが断られる。アンドロイドの残骸が入った袋を手渡される。

「もう休んで。今は回復に専念しましょう」

 顔を横に倒し、ビニール袋の中のかけらを見つめる。誰よりも速く走った、倉庫2で会話に興じた、映画のスクリーンにくぎ付けだった、あの姿の名残を探した。調整を繰り返していた膝も、時に雄弁なアイカメラも、名前と同じ色のバックパックも、跡形もなかった。袋に触れる。カラカラと中の破片がこすれ合う音がする。朝起こしてくれた声ではない。「いいアイデアですね」といったんは肯定した柔らかな声とは程遠い。

 差し出させてしまった。損傷を避けたがっていたのに。ただただ、自分が迂闊だったせいで。機械の信条も、十年物の矜持も、これまでの努力も、この先の未来も、投げ捨てさせてしまった。一緒に歩いていた人間が間抜けだった、たったそれだけの不運で。

 ――あいつは、なんて言おうとしたんだろう? 

 話を続けたがっていたのに、拒んでしまった。取り返しがつかない。もう一生わからない。喧嘩にはならなかったかもしれないが、それがなんだというのか。ちゃんとした別れの言葉も言えなかった。なにより、こんなところで、こんなことで、いいやつじゃなかった。火星に残ったなら、後任の狙撃手をよく支えてくれるはずだった。でも、もし、一緒に地球へ帰ることができたのなら――それ以上、すばらしいことなんてなかったのに。

「ああ」羽生は目を閉じた。「神様」



 考えることは無意味だった。もうなにもない。足元から全部、この星に飲み込まれて。



(第十四話 おわり)

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