火星のどこかで待ち合わせ(前編)①

 ネルガルというのはバビロニア神話の神で、戦と疫病をつかさどる。冥府の女王エレシュキガルのもとに連れて来られ、逆に彼女を打ち倒して妃にした、冥界の神だ。十四人の病魔を従える邪悪の代表者だが、生命と植物をもたらすとも言われる。ライオンと剣がそのシンボルである。

 だから、ネルガル・ディフェンス・サービスのマークにもそのふたつが入っている。

「へえ。それでか」ファッジからの通信には、声のほかにコンコンという小さな音が乗っていた。タブレット端末の画面をペン先が叩く音だ。趣味の絵を描いているのだろう、向こうは休み時間とみえる。「単にかっこいいモチーフを選んだのかと」

「聖獣なんだよ、ライオンは」

「なるほどなあ。相変わらず詳しいね。にしても、戦争の神様なのに命とか植物もつかさどるってのは、おもしろいな」

「戦の神が豊穣神も兼ねてるっていうのは、割とある。ハデスもそうだし、バアルも嵐と慈雨の神って言われてる」

「あ、シヴァ神も破壊と再生の神だよな。あれはヒンドゥー教だっけ」ファッジがすばやく打ち返す。会話の流れが快いのは、相手の知識量が豊富というだけでなく、単に今日の通信環境が良いからだ。火星との距離が縮まってきたからかもしれない。「でもさあ、なおさら、そういう神を社名にしちゃうって、どうかと思うぜ」

 その会社に誘ってきたのは向こうなのだが。「ゲン担ぎかね」

「民間軍事会社としちゃ、これ以上ないよな。戦争のあとに豊穣が訪れる、と」

「神話ならそうだけどな」

「これくらい不遜じゃないと傭兵業は興せねえんだろうさ。ま、こっちは豊穣って感じじゃないけど、食い物は割とある」

「土の下は豊穣だろ」

「そうだった。おお、冥界の神よ」ファッジは大げさに祈った。「お恵みに感謝します」

 ネルガル・ディフェンス・サービスは主に紛争地帯での仕事を請け負ってきた会社だ。社員の八割が軍隊生活の経験あり、残りは医療か警察畑の出身、あるいはエンジニアである。業務内容は正規軍のバックアップ全般――実戦、兵站、指導、情報解析である。その次なる稼ぎどころが火星というわけだ。

 羽生は通信を終えると、船の壁を蹴った。無重力空間をすい、と横切って窓辺へ行く。窓の外に見える地球は、もはや遠くに光る点だった。

 羽生マサムネ元二等軍曹がNDSネルガル・ディフェンス・サービスに入社して八か月が、地球を発って二週間が経とうとしていた。



 火星遠征軍というのは、火星に駐留している人々の総称だ。軍隊だけではなく、民間人も含まれる。正規の軍人や航空宇宙局員、火星環境の研究員や技術者を集めた火星開発チーム、その下請けの建設会社や軍事会社の職員、それらを総合した非公式名称を遠征軍というのだ。現在の滞在者数は四百八十二人。

 ネルガル・ディフェンス・サービスは第七基地の保全・管理を担当する。基地の人数は四十人ほど、交代制で回しながら、資源採掘とテラフォーミングの重要な拠点である基地を守る――これには当然、軍事行動も含まれる。

 船から降りるとすぐ、活動服に身を包んだ大柄な男が両腕を広げているのが目に入った。出迎えのファッジだった。実際に会うのはかなり久しぶりだ。さすがに少しやせたかもしれない。向かい合って敬礼する。

「羽生マサムネ二等軍曹、本日付けで火星任務に着任いたしました」

「長旅ごくろう! 確実な任務遂行を期待する」ファッジは重々しくうなずいたあと、「……チョコバーと羊羹、持ってきてくれた?」と尋ねてきた。

「荷物に入ってる」

 ヘルメットの奥で、ファッジはにんまりと笑った。「ようこそ火星へ!」

 やつが乗ってきたバギーに乗り込む。船の積み荷で第七基地に行くのは羽生と三百キログラムの補給物資だけだ。ほとんどの人間と荷物は大規模基地である第一か第二に行くのだという。

「来てくれて助かるよ。スナイパーがひとりやめちゃったから困ってたんだ」

「マクファーレンだっけ? なんでやめたんだ? 火星まで来ておいて」

「さあな。心の問題ってやつだろ」ファッジはさらりと言ったが、たぶん事情を知っているのだろう。深い興味があるわけでもない。羽生はそれ以上聞かないことにし、新しい職場の地理把握に努めた。バギーは船の発着場を出て、舗装された道を走り始める。

 荒涼――という言葉さえも華美なほどだ。果ての果てまで岩石の世界が広がっていて、時折ポツンと見える点に人間がかろうじて縄張りを作っている。道路が完成しているのは第二基地のそばまでだった。バギーは轍が伸びる荒野へ下り、スピードを上げる。赤い砂煙が後方にたなびいていく。

「今日みたいに晴れるの、めずらしいんだぜ。さすがに生で見ると圧巻だろ?」

「シミュレーターで見たよ」と羽生は言ったものの、どこまでも広がる大地と、空を支えるかのようにそびえたつ巨大な山々の連なりをずっと眺めていた。

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