第08話
……それから、僕の日常は少し変わった。
そう、ほんの少しだけ変わったのだ。
でも、すごく大きく変わった。
学校が終わって、あのベンチのところに行くと、そこには決まって
以前もそうだった。
彼女はいつもあのベンチのところにいる。
僕はただ、名前も知らない彼女を遠くから眺めていただけだった。
でも、今は違う。
僕を見つけると、彼女は笑って手を振ってくれた。
その度に嬉しくなった。
「ごめん、遅くなって」
「ううん。全然待ってないよ。わたしもさっき来たところだから」
と、彼女は決まってそう言った。
僕が来る頃には、いつも彼女はそこにいるのだ。
「
「え!? そ、そんなことないよ」
「そうかな? 僕もけっこう急いで来てるんだけど……いつも先にいるからさ」
「た、たまたまだよ。たまたま」
うーん。
まぁ、可愛いからいいか。
僕と彼女はいつも適当に駅前をぶらぶらした。
特に何をしようって決めているわけじゃない。
……強いて言えば、ただ一緒にいたかっただけだ。
何をするにしても、どこへ行くにしても、それは結局のところ彼女と一緒にいることに対する言い訳でしかない。
話題は何だってよかった。
昨日はまだ一緒に行っていないところを探して歩いた。
ここはそんなに大きい街じゃない。駅前と言っても規模は知れている。
だから遊ぶには退屈なところだと思っていたけど……二人で歩いてみると、思いのほか色んなものがあることに気がついた。
今まで気づいていなかった色んな物が、彼女と一緒にいると見えたのだ。
知っている場所なのに、まるで知らない場所にいるかのようだった。
彼女と一緒だと、そう思えるようになった。
μβψ
今日はふと本屋に立ち寄った。
「あ、わたしこの人の本好きなんだ」
何気なく彼女が手に取ったのは『
……げ。
少し顔に出たかも知れない。
なぜなら、それは母さんの本だったからだ。
「へ、へえ、そうなんだ? 面白いの?」
「うん。面白いよ。わたし大好きなんだ。何て言うか、話がいつもすごく繊細で素敵でね。きっと作者の人も、すっごく繊細な人なんだろうなあって」
「ううん、それはどうかな……」
僕はプリキュアを見ている母さんの姿を思い浮かべた。
「あれ? そう言えばソータくんも葉月だったよね? 同じ名前じゃない?」
「そ、そうだね。偶然だね。ははは」
とりあえず笑っておいた。
……とてもではないが言い出せなかった。
うちの母親が繊細……?
本物を見たら夢を壊すだろうなあ……。
とまあこんな感じで、基本的にぶらぶらしているだけだ。
そして、僕がの時間はいつも日暮れと共に終わった。
どっちが決めたというわけでもない。
ただ、何となく日が暮れたら『今日はこれで終わりだな』という感じがあった。
これが三バカトリオで遊んでいるんだったらそんなこと気にしないけど、
本人は大丈夫だと言うが、あんまり遅くなったら彼女が家の人に怒られるかもしれない。
だから、日暮れが僕らのタイムリミットだった。
「……もうこんな時間かあ。冬って本当に日が暮れるの早いよね」
西の空はまだ赤い。
でも、もうすぐに夜が来る。
「そうだね」
「……わたし、冬って好きじゃないの」
ぽつり、とこぼすように
「そうなの?」
「うん……だって、冬ってとっても静かじゃない? じっとしていたら、自分が本当にいるのかどうかさえ分からなくなるもの。だからわたしは冬が嫌いだし……自分が嫌い」
「自分が……?」
「ううん、何でもない。ごめんね、変なこと言って」
彼女はすぐに笑みを浮かべた。
気のせいか、それはさっきまでとは違って、取り繕ったような笑みに見えた。
「じゃあ、今日ももう遅いし、帰ろっか」
「あ、うん」
……もうすぐ日が暮れる。
ここでお別れの挨拶をすれば、今日はそれで終わりだ。
……それでいいのか?
正直なことを言おう。
僕はまだ、
「うん。じゃあ、またね」
また。
彼女はそう言ってくれた。
これで終わりじゃない。
その一言に僕はひどく――それはもう、自分でも驚くほど安堵してしまった。
けれど、同時に強くこう思った。
……その〝また〟は、本当にやって来るのだろうか?
もし万が一、彼女の気が変わったら……これでお終いになってしまったら?
雑踏の向こう側に消えようとしている彼女の背中が、なぜか妙に遠く感じた。
……自分でも、どうしてそんなことをしたのか。
気がつくと、僕は
「――え?」
……驚いた声は、いったいどちらの声だったのか。
僕自身、自分で自分のしたことにかなり驚いていた。
「え、ええと」
……何も考えてなかった。
でも、何か言わなきゃと思って、慌ててこう言った。
「夕焼けが綺麗に見えるところがあるんだけど……その、一緒にどうかな……?」
μβψ
「わー! すごい!」
彼女は感嘆の声を上げた。
夕焼けに沈む街並みが一望できた。
ここは駅前の商業施設にある空中庭園だ。
「ね? 綺麗でしょ?」
「うん、すっごい綺麗! こんな夕焼けみたことない!」
確かに今日の夕焼けは一段と赤く、いつもより綺麗に見えた。
……でも、それよりも僕は夕焼けを見ている
夕焼けを見てキラキラしている彼女の目が、とても綺麗だったからだ。
「ん? どうかした?」
「う、ううん。何でも……」
慌てて目を逸らした。
「あ、何か温かい飲み物買ってくるよ。カフェオレとか好き?」
「いいよ、そんなの」
「まあまあ。自分で連れてきておいてなんだけど、ここ寒いし。何がいい?」
「えと……じゃあカフェオレで」
僕はカフェオレを二つ買って、
二人してベンチに座った。
「……温かい」
「ちょっと熱いくらいだよね」
ぷしゅ、と缶を開けてカフェオレを飲んだ。
ぷはー。
うめえ。
寒いのは好きじゃないけど、寒い日に飲むカフェオレはやっぱり最高に好きだ。
夏の暑い日に飲む麦茶とはまた違う。この感覚は、この寒い日でないと味わえない。
「……ん?」
何だかやけに
そう思って何気なく振り返ったら――彼女の目尻から一筋の涙がこぼれていた。
完全に虚を衝かれた。
……え?
「……あれ?」
彼女は、自分で自分のこぼした涙に困惑しているような様子だった。
僕の視線に気づいたのか、彼女はハッと我に返った。
「ご、ごめん! これは違うの! ちょっと目にゴミが入って……!」
彼女は慌てて目元を袖で拭いて、すぐに笑顔を浮かべた。
「じゃ、じゃあ頂きます!」
彼女はカフェオレの缶を開けて口をつけたけど、
「って、あっつ!」
思ったより熱かったようだった。
「……ぷ」
その顔があまりにも面白かったから、思わず笑ってしまった。
「あ! いま笑った!?」
「わ、笑ってないよ?」
「嘘、絶対笑ったでしょ!」
「気のせいだよ、気のせい」
「ていうか顔ニヤけてるし!」
「そういう
「笑ってないわよ」
「笑ってるよ」
「いーや、絶対笑ってないわ」
……なんてつまらないことを言い合いながら、僕らは笑い合った。
燃えるような夕陽が、徐々にその色を静かなものへ変えていく。
気がつくと、僕らは二人とも黙ったまま夕陽を眺めていた。
「……」
「……」
……ううん。
しかし、よく見たら周りはカップルばっかりだな。
ここはいわゆるデートスポットだ。
我ながら、よくここに
でも、あそこで終わりにしたくなかった。
もうちょっとだけ今日が続いて欲しい。
せめて、夕陽が完全に見えなくなるまでは――
「ねえ、ソータくん」
「え!? な、なに?」
いきなり名前を呼ばれてビクッとしてしまった。
「ソータくんはさ、どこか遠くに行ったことってある?」
「遠く? 遠くって?」
「うーんとね……具体的にどこってわけじゃないんだけど……とにかく遠く。何て言うか、知らないものだけで出来た世界っていうのかな。自分が知っている世界とは、何の関係もない場所――みたいな」
「……抽象的だね」
「あはは。まぁ自分でもよく分かんないから……」
真白さんはちょっと笑ってから――不意に〝あの目〟をした。
どこか、ここじゃないどこかを見ているような、あの目だ。
「……わたしさ、昔からずっと、どこか遠くに行きたいって思っててね。行けもしないくせに、そんなことばかり考えてるんだよね」
「それは……どうして?」
「どうしてだろうね。自分でもやっぱりよく分かんないな。でも、やっぱり今の環境が嫌いだからかな。わたし、実は親とあんまり仲良くなくて……昔から喧嘩ばっかりなんだよね」
「そうなの?」
僕は思わず意外そうに真白さんを見てしまった。
「真白さんが誰かと喧嘩してるところなんて、想像もできないけど……」
「ううん、そんなことないよ。ソータくんの前では猫被ってるだけだし。わたし、性格悪いから」
にしし、と真白さんは笑った。
でも、すぐに顔から笑みは消え、ちょっと拗ねた子供みたいな顔になった。
「ほんと、すごい世間体とか気にするんだよね、うちのお父さん。それにすぐ何でもかんでもダメだダメだって頭ごなしに決めつけるし……ほんとに、全然人の話聞かないの。もう嫌になるくらい。お父さんはすごく頭良いし、すごく優秀なのは分かるけど……でも、何にでも明確な答えがあるって思ってるところが、わたしはすごく嫌い。たぶん、世間じゃわたしみたいなのは箱入り娘って言うんだろうね。好きで箱に入ってるわけじゃないんだけどさ」
「……」
「……だからかな。昔から漠然と、遠くに行きたいって思ってる自分がいるんだよね。どうせ無理だろうって思ってても、そう思うことをやめられないくてさ。まぁでも、わたしって臆病だから、実際にそうする勇気はないんだけど……お母さんがいてくれたら、もう少し――何か変わったのかなぁ」
と、真白さんはすごく寂しそうな顔を見せた。
その時だった。
不意にあの光景が見えた。
雪の中で泣いている小さな女の子がいる。
女の子はずっとお母さんのことを呼んでいる。
でも、そこには何も無い。
ただ、雪が降り続けているだけだ。
それはまるで白昼夢のように一瞬だけ見えて――すぐに消えてしまった。
ハッとした。
……あ、あれ?
今のは……?
「って、ごめんね。変なこと愚痴っちゃってさ。忘れて」
真白さんがそう言って笑った。
「あ、いや……」
僕はそんな曖昧な言葉を返すことしかできなかった。
真白さんが小首を傾げた。
「どうかした?」
「う、ううん。何でもないよ」
僕は頭を振った。
そこでふと、僕は北海道のことを思い出した。
「でも、そうだね……遠くって言えば、僕、昔北海道に行ったことあるんだ」
「北海道?」
「うん。小学校六年の時、父さんにバイクで連れてってもらったんだ」
「バイク? バイクで行ったの?」
「そう。僕が父さんの後ろに乗って、それでその後ろに荷物いっぱい載せてね。いわゆるキャンプツーリングってやつだよ。キャンプしながら北海道をツーリングするんだ」
「え? なにそれ? すっごい面白そう! もっと詳しく聞かせてよ!」
……ち、近い。
顔が近かった。
とてもじゃないが目を合わせられなかった。
「そんなに楽しい話じゃないとは思うけど……」
「いいじゃん! 聞かせてよ!」
せがまれた。
「じゃ、じゃあ……」
僕は話し始めた。
最初はうまく話せるか不安だったけど、それは最初だけだった。
気がつくと、僕は色んな話をしていた。
自分でも驚くぐらい、言葉はすんなりと口から出てきた。
「――って感じで、色々あったんだ」
「……」
一通り話し終えると、すでに太陽は彼方に沈んでいた。
夕焼けのかすかな焼け残りが空に残っていた。
……これが夏だったら、僕はもっと、彼女と話していたかもしれない。
でも、今は冬だ。
……ありゃ? あんまり面白くなかったかな……?
ちょっと不安になったが、
「ねえ、ソータくん。それって、写真とかってある?」
おもむろに、
「え? 写真?」
「うん。写真。その旅行で撮っ写真」
「それなら、家のパソコンにはあるよ。父さんが一眼レフのデジカメでたくさん撮ってたから」
「それ、今度見せてもらっていい?」
「え?」
ずい、と
その顔はとても真剣なものだった。
思わず頷いてしまった。
「い、いいけど……」
「ほんと!?」
ぱっ、と彼女の顔が輝いた。
「う、うん」
「約束だからね! 絶対よ!」
「うん」
念押しされた。
……正直、この時は深く考えていなかった。
家にある写真を見せるということはどういうことか。
それはつまり彼女を家に呼ぶということだったが……この時点では、僕はそんなことにはまったく思いも至らなかったのだ。
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