第10話

「ただいまー」

 夢子は家に帰ってきて、ふと玄関に見慣れない靴があることに気がついた。

(……ん? これ、誰の靴……?)

 編集の人が来てるのかと思ったが、見るからに学生が履くようなローファーだ。

(お兄ちゃんの友達かな……? でもこれって女性用じゃない? って、まさかね)

 夢子は自分の想像に思わず笑った。

 兄の蒼汰が女の子を家に連れてくることなんてあるわけないのだ。

 とりあえずリビングに向かった。

「あれ? お母さん? どうしたの?」

 リビングには母の頼子よりこがいた。

 何やら呆けているようだった。

 夢子に気がつくと、ぎぎぎ、と壊れた人形のように首を向けた。

「さ、さっきね」

「うん」

「蒼汰が女の子を連れてきたのよ」

「へえ、そうなんだ」

 聞き流しながら冷蔵庫を開けて、牛乳を取り出した。

 ……ん?

 はたと動きが止まった。

「……え? お母さん、いま何て?」

「蒼汰が、女の子を連れてきたのよ」

「……」

 夢子はカレンダーを見た。

「……まだ二月だよ? 四月じゃないよ?」

 エイプリルフールにはまだ早い。

「違うのよ! 本当なのよ!」

 頼子はまるで、宇宙人を見た村人Aのようになっていた。

「え、ええ……? いやいや、そんなまさか……」

 とは言ったものの、母の様子が普通じゃないことは夢子にも伝わった。

「……それ、マジで言ってる?」

「残念ながら喜ばしいことにマジよ」

 母は気が動転しているようだった。

「じゃ、じゃあ……わたしちょっと確かめてくる」

 それでも、夢子は自分の目で見るまでは信じられなかった。

 とりあえずトレーにジュースを二つ用意して、兄の部屋に向かった。差し入れを持っていく、という感じにして偵察するつもりだった。

 ドアの前についた。

「……ふう」

 よし。

「お兄ちゃん、ジュース持ってきたあげたよ!」

 夢子はばあん、とドアを開いた。

 部屋の中には兄の蒼汰と――もう一人、本当に女の人がいた。

 夢子は相手を見るなり本当に驚いてしまった。

(え、ええ!? なにこの美人!?)

 テレビでしか見たことのないような美人だ。思わずぽけーっとしてしまった。

「おい、夢子。いきなり入ってくるなって言ってるだろ。ちゃんとノックをだな――」

「……」

「ん? おい、どうした?」

 蒼汰が目の前で手を振っても、夢子は動けなかった。

「あれ? もしかしてソータくんの妹さん?」

「ああ、うん。夢子っていうんだけど……こいつどうしたんだ……?」

 美人のお姉さんが立ち上がって、夢子の前に立った。

 それでようやく、夢子は我に返った。

「夢子ちゃん、っていうの?」

「は、はひ」

「わたしは真白ましろよ。よろしくね」

「……」

 美人のお姉さんが微笑んだ。

 ほえー、と夢子は再びぽけーとしてしまったが、ハッと我に返った。

「あ、あの、これ良かったら……」

 夢子が差し入れのジュースをおずおず差し出すと、お姉さんはそれを受け取って、

「あら、ありがとう」

 と、まるでお嬢様のような上品な笑みを浮かべたのだった。

 夢子に衝撃が襲いかかった。

 美人。

 しかもお嬢様。

 そう、間違いなくお嬢様だ。

「で、では……」

 夢子はカチコチの動作で部屋から立ち去った。

 急いでリビングに戻った。

「ど、どうだった?」

 頼子が急かすように聞いてきた。

「……お、お母さん」

「な、なに?」

「ど、どうしよう!? すごい美人がいたんだけど!?」

「やっぱり!? やっぱりそうだった!?」

「きゃー!? なにあれ!? モデル!? すっごいスタイルよかったんだけど!? 顔とかすごい小っちゃかったんだけど!?」

「そうよね!? やっぱそうよね!? 幻覚じゃなかったわよね!?」

 母と娘はきゃーきゃー騒いだ。


 μβψ


「ここでいいの? よかったら家まで送るけど」

「うん、大丈夫。ここでいいよ」

 駅前に到着した。

 すっかり日は落ちていた。朝はみんな駅に吸い込まれていくが、今はみんな駅から吐き出されている。ちょうど帰宅ラッシュの時間だった。

 いつもの駐輪場ではなく、駅前のロータリーにバイクを停めた。

 邪魔にならないよう、端に寄せて停車した。

 真白ましろさんがタンデムシートから降りて、被っていた半ヘルを外した。

「はい、ありがと」

「あ、うん」

 半ヘルを受け取った。

「んーっと」

 バイクの後ろに乗っていたせいで身体が固まったのか、彼女が猫のように背中を伸ばした。

「……」(じー)

 ……ふと思ったけど、真白ましろさんってけっこう胸大きいな。

 思わず胸元を見てしまった。

 すると、どうやら僕の邪念が彼女に伝わってしまったようだった。

「――ん? あれ、ソータくん? いまわたしの胸見た?」

「!?」

 慌てて目を逸らした。

「み、見てないよ!?」

 明らかに態度で「見てました」と白状してしまった。

 真白ましろさんがばっと胸元を隠した。

「え!? もしかしてほんとに見たの!? うっそ信じられない! ソータくんはそんなことしないって思ってたのに!」

「ほんとに見てない! 見てないから!」

「うそ! 絶対見たでしょ! 素直に白状しなさい!」

「すいませんちょっとだけ見ました!!」

 すぐにゲロった。

 ……その後、僕はお詫びにダッシュで自販機でカフェオレを買ってきた。

「むー」

「すいません、これでなんとか……」

 ほっぺを膨らませている真白ましろさんにカフェオレを献上した。

 目は口ほどに物を言うというのは実にその通りだと思う。

 うぐう……自分の浅ましさが妬ましい……。

「なんてね。別にそんなに怒ってないよ」

 カフェオレを受け取ると、真白ましろさんはころっと表情を変えていつもの笑みを浮かべた。

「……え? 怒ってないの?」

「そんなことでいちいち怒らないよ。まぁそれにソータくんだし? 別にいいかなって」

「え!?」

 そ、それはいったいどういう!?

 ドキドキしている僕を尻目に、真白ましろさんはカフェオレに口を付けた。

「……はあ、温かい」

 真白ましろさんは、すごく穏やかな笑みを浮かべた。

 カフェオレの温かさが心まで沁み入る――そう言っているような顔だった。

 僕も自分のカフェオレに口を付けた。

 色々な意味でほっとした。

 僕らは並んで、ガードレールに腰掛けながら駅前の雑踏を眺めた。

 とっくに日は暮れている。

 じゃあねと言えば、もう僕らの一日は終わる。

 ……理由なんてなんでもよかった。

 ちょっとでもいいから、この時間を引き延ばしたかった。

 ちら、と少し彼女の様子を窺った。

 ……真白ましろさんもそう思ってくれてたりするだろうか?

 彼女はじっと流れる人波を眺めていた。

 それはあの時と同じ目だった。

 そう、〝あの目〟だ。

 その瞳に吸い寄せられた瞬間、僕の時間も止まったように感じた。

 ……なぜかは分からない。

 分からないけど、でも僕は気がつくと彼女の手を握っていた。

「え?」

 彼女が驚いたように僕を見た。

 ひんやりとした感触が伝わってきた。

 ……冷たすぎるくらいだ。

 もっとこの手を温かくしてあげたいと思った。

 何より、手を握っていたかった。

 ……何だか、放っておいたらこのまま彼女が消えてしまいそうだと思った。

 どうしてそう感じたのかは、やっぱりよく分からないけど。

「……真白ましろさん、その」

 言わなきゃいけない言葉があった。

 強い衝動が、何か言葉を僕の中から押し出そうとした。

「う、うん」

「その、えっと」

「う、うん」

「その――はくしゅ!」

 くしゃみが出た。


μβψ


「それじゃあ、またね」

 カブに跨がった。

 彼女が軽く手を振ってくれていた。

「うん。じゃあまた」

 また。

 一日が終わる。

 その一言だけが、僕と彼女を明日に繋いでくれるものだった。

「いつも奢ってもらってばっかでごめんね」

「いいよそれくらい。ははは」

「空き缶はわたしが捨てとくから」

「う、うん、ありがとう」

 セルスイッチを押してエンジンをかけた。

「ばいばい」

 僕は彼女に軽く手を振って、アクセルをひねった。

 バックミラーには手を振っている彼女の姿が見えた。

 彼女は僕が見えなくなるまで手を振ってくれていた。

 真白ましろさんの姿が見えなくなってから、僕はおもむろに路肩に停車した。

「……」

 ……ふう。

 思わず頭を抱えた。

 おおおおい!?!?

 なに肝心なところでくしゃみしてんだよ!?

 バカ!!

 いやもうほんとバカ!!

 くしゃみのせいで、一瞬だけ訪れた良い雰囲気がぶち壊しになった。

 それで、結局僕は言いたかった言葉を飲み込んでしまった。

 いけよ!! そこは男らしく!!

 い、今からでも戻るか!?

 って、そんなことしたらもっと変だろ!!

 ああああ!!

 くそ!! 時間よ戻れ!!

 戻ってくれ!!

 頼む!!

 ……多分、僕は通行人に変な目で見られていただろう。


 μβψ


「うー、さみぃ……」

 サラリーマン風の男がマフラーに顔を埋めながら、足早に帰路を急いでいた。

 駅前には多くの人が行き交っている。

 彼もまた、雑踏を行く一人だった。

 ――カン、カン。

 ふと甲高い音がした。

 男が「ん?」と振り返ると、どこからともなく空き缶が二つも転がってきた。

 彼は思わず周囲を見回した。

 すぐ近くに人はいなかった。

「……どっから転がってきたんだ?」

 首を傾げつつ、男は空き缶を拾い上げた。

「ったく、ポイ捨てすんなよな……」

 男は空き缶を自販機の横にあった回収箱に放り込んで、何事もなかったようにその場から立ち去った。

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