2,時計の針が動き出す

第06話

「あれ? 二人とも帰らないの?」

 いつもならすぐに帰る準備をする二人が、放課後になったのに動かなかった。

 陽介は実にだるそうな顔をした。

「今日おれら補習なんだよ」

「ああ、今日だっけ……普段ちゃんと勉強しないから」

「くそお……」

 陽介は悔しそうな顔をした。

「ふっ、まぁこれは身から出た錆というやつだからな。甘んじて受け入れる他あるまい」

 一方、信一は全てを受け入れたような顔をしていた。

 ……こいつ、見た目は頭良さそうなのにな。本当に無駄メガネだよな。

「じゃあ、僕は先帰るよ」

「なに!? おれらを置いていくのかよ!?」

「恨むなら進研ゼミをやっていない自分たちを恨むんだね」

「くそ! この裏切り者め! 爆発してしまえ!」

 ははは、と僕は笑いながら教室を後にした。

 ……ふう。

 今からちょっと緊張してきたな。

 ――またね。

 昨日の彼女の言葉がよみがえった。

 またねということは、次もあるということでいいんだよね……?

 去り際の彼女の笑顔が頭から離れなかった。

 思わずスキップでも出そうだった。

 よし、早く帰ろう。

 軽やかに歩き出した。

 しかし、すぐにはたと立ち止まった。

 ……あれ?

 またねって言われて浮かれてたけど、連絡先も知らないでどうやって会うんだ?

 しかも具体的な約束をしたわけでもない。

 じゃあ、どうやって真白さんと会うんだ、僕は……?

 しまった!?

 思わず頭を抱えた。

 バカか!? 僕はバカなのか!?

 一気に絶望的な気分になった。


 μβψ


 とりあえず駅に向かい、電車に乗った。

 朝とは違って、この時間は比較的空いている。

 僕は座席に座って、思わず深い息をついていた。

 ……僕って本当に肝心なところ抜けてるよな。

 思わず溜め息が出た。

 それに、あろうことか真白ましろさんのことを彼女と嘘を吐いた。

 ……そりゃまぁ、そうなってくれたらいいなぁ、とは思うけど。

 あんな子と付き合えたらさぞ楽しいだろう。

 ……でもまぁ、普通に考えて無理だよな。

 自分が女子にモテないのは自覚している。

 なぜモテないのか。

 それは頼りないからだ。

 男としての魅力なんてものは、僕には欠片も存在しない。よく草食系男子とか言うけど、僕の場合は草食系ですらない。草だ。僕はもはやただの草だ。

 以前、学校の三者面談の時に教師が僕のことを『優しい性格』と言ったことがある。

 それはとんだ誤解だ。あまりに取り柄と特徴がなさ過ぎて他に言うことがなかったんだとしても、それは絶対に間違っていると断言できる。

 僕は優しいのではなくて、ようは揉め事を起こしたくないだけ――ただヘタレなのだ。

 水はつねに上から下に流れている。その流れに逆らうにはエネルギーがいる。僕にはそのためのエネルギーが生まれつき存在しない。

 だから今まで生きてきて誰かと喧嘩をしたこともないし、他人の意見を押しのけてまで自分を貫き通したこともない。

 この世界には生きていく上で、見えない『境界線』のようなものがたくさんある。

 それらは目に見えない。

 でも、確かに存在する。

 人間関係。

 常識。

 礼儀。

 自分自身のキャラクター。

 クラスでのヒエラルキー。

 僕はこれまで、そういう『境界線』を越えたことがない。

 僕は僕に許された『境界線』の中でしか生きてこなかった。

 それは決して悪いことじゃない。

 自分自身をわきまえている、ということだ。

 ……でも、そんな自分を好きだと思ったことは一度もないし、自分のいる場所を居心地が良いと感じたことはない。窮屈だと思いながら、息苦しいなと思いながら、それでもひっそりと息を潜めて静かにしているのが僕という人間だ。

 ……父さんはあんなに男らしかったのにな。

 どうして僕はこうなんだろう?

 スマホを取り出して、一枚の写真を表示させた。

 そこにはスーパーカブに跨がる巨漢と、後ろに乗る小さな頃の僕の姿があった。

 ……これは小学校六年の時、父さんに北海道へ連れて行ってもらった時の写真だ。

 なぜ、いきなり父さんが僕を北海道ツーリングに連れて行ってくれたのか。あの時は特に深くは考えていなかった。

 以前から、僕は父さんにあのスーパーカブでよくキャンプには連れて行ってもらっていた。だからキャンプやツーリングに連れて行ってもらうのは好きだったし、北海道でのキャンプツーリングは大きな憧れでもあった。

 だから、いきなり連れて行ってくれると聞いた時は、何も考えずにただ浮かれて喜んでいた。

 ……今にして思えば、父さんはあの時、すでに病気のことを知っていたのかもしれない。

 父さんは僕が中学2年の時に死んでしまった。

 膵臓癌だった。

 筋肉が自慢だった父さんは、最後は別人のように痩せ細って死んだ。

 でも、父さんは最後までずっと情けない姿は見せなかった。

 どれだけ身体が衰えても、父さんの目から力が失われることはなかった。

 父さんと北海道ツーリングに行ったのは、あの時が最初で最後だ。

 あの時のことは、今でも鮮明に覚えている。

 何もかも。

 写真を見なくても思い出せる。全部、心に焼き付いている。

 もう一度北海道へ行こうと思ったのは、父さんの一回忌の時だった。

 あの時の僕は、ただ連れて行ってもらっただけだ。

 だから、今度は自分の意思で、自分の足であそこに行こうと思った。

 そうすれば、僕は本当の意味でこの窮屈な『境界線』の外に出られるんじゃないか――と。

 ……でも、そこから外に出てどうする?

 知らないところに出て行くよりは、知っている世界の中で閉じこもっていたほうがいいんじゃないか?

 窮屈で息苦しくたっていいじゃないか。

 昨日と同じ部品で出来た今日と明日でもいいじゃないか。

 楽に生きられるなら、それでいいじゃないか。

 そう思っている自分がいることも確かだ。

 ……だけど、そんな生き方をした先にいる自分が、父さんのような人間になっているとは到底思えなかった。

 生前、父さんはこんなことを言ってた。


『いいか、蒼汰。これから先、生きていたら何度も壁にぶつかることだってあると思うが……そこで立ち止まるんじゃないぞ。そこで終わりだなんて思うな。壁を越えれば、いくらでもまた新しい世界がそこにある。勇気を出して越えていけ。脅えるよりも立ち向かえ。その方が、人生はずっと楽しいぞ』


 父さんは、勉強の答えはほとんど何も教えてくれなかった。

 でも、他には色んな事を教えてくれた。

 僕にとっては、父さんは今も道しるべだ。

 知らない場所に行くのは不安だけど……でも、ただ不安なだけじゃない。よくよくその気持ちの中をのぞいてみれば、そこには期待が混じっているんだってことを父さんは教えてくれた。

 だから、僕は北海道へ行こうと思った。

 もう一度、あの場所に行こうと。

 このまま流されるだけの人生を送るのは嫌だ――と、なぜか不意に強くそう思ったのだ。

 僕は変わりたいと思った。父さんがいつか言っていた、壁の向こうに行きたいと。

 そんな風に思ったのは受験のことがきっかけだった。

 これからの自分の進路――人生をどうするか、進路相談で初めて考えた。

 ただ漫然と、漠然と大学に行くことだけを考えていたけど……本当にそんな気持ちで進路を決めてもいいのかと思ったのだ。

 やりたいことがあって大学に行くのなら、それは壁を越えて立ち向かうってことになるんだろうけど……僕はそうじゃなかった。とりあえず大学は出ておいたほうがいいんだろうな……と思っただけだ。

 ……その決定は果たして、勇気を出したと言えるんだろうか?

 結局また、自分の知っている世界の内側に逃げ込もうとしているだけなんじゃないだろうか?

 そう思ったら、僕は自分がこの先どうすればいいのか分からなくなった。

 そんな時だ。北海道のことを思い出したのは。

 ……もう一度あそこに行けば、何か見つかるかも知れない。そんなことを思った。

 一人で北海道に行くなんて最初は考えるだけで怖じ気付いてしまったけど、それじゃダメだと思った。これから僕がどういう人生を歩んでいくかはまだ分からないけど……こんな気持ちのままじゃ、どんな道を選んでも結局同じところにたどり着くだけだ。きっとそこにたどり着いてしまった僕は、そこにたどり着いてしまったことを後悔してしまうはずだ。こんなはずじゃなかった、と。

 それを変えたいのなら、僕自身が変わらないといけないんだ。

「……そうだな。まだダメになったと決まったわけじゃない」

 もしこれが父さんだったら、きっと何としてでも真白さんに会おうとするだろう。

 それくらいの気持ちじゃないとダメだ。

 そう思った時、ふと僕の頭にとあることが思い浮かんだ。

 ……そうだ。

 もしかして、真白ましろさんはあそこにいるんじゃないか……?


 μβψ


 ……さて。

 地元に帰ってきた。

 僕は少し足早に〝あの場所〟に向かった。

 真白ましろさんがいつも座っているベンチだ。

 でも、そこに彼女の姿はなかった。

「……いないか」

 ちょっとがっくりしてしまった。

 さすがに安易に過ぎたかもしれない。

 とは言え、他に手がかりがない。

 ……ここで待ってたら会えるかな。

 ふと、そんなことを思った。

 ……そうだな、ここで待ってみようか。

 僕はベンチに座って、駅前の雑踏をぼんやりと眺めた。

 彼女はいつもここに座って、こうやって駅前の風景を眺めていた。

 ……真白ましろさんは、いったいここから何を見てたんだろうな。

 僕に見えるのは、いつもの駅前の景色だけだ。

 でも、彼女の目は何だか、いつも遠くを見ているような感じだった。

 目の前の景色を見ているようで見ていないとでもいうのか……どう言えばいいのかよく分からないけど。

 何て言うか、まるで別の世界でも見ているような……そんな感じだったと思う。

「……」

 そのまましばらく待ってみたけど、真白ましろさんは現れなかった。

 ……来ないな。

 ちょっと不安がよぎった。

 そもそも、本当に僕は彼女を待っていていいのだろうか?

 またねと言ったのは、そんなに深い意味なんてなかったんじゃないか?

『え? もしかして真に受けてたの……? うわあ、引くわー。あんなの適当に言ったに決まってるじゃん』

 とか言われたらどうしよう……?

 何て思っていると、

「あれ? ソータくん?」

 と、いきなり名前を呼ばれた。

「え?」

 振り返ると、そこに真白ましろさんの姿があった。

 僕は驚いたけど、彼女も驚いた顔をしていた。

「……え? 本当にソータくん? な、何でここにいるの?」

「あ、いや、これはその……!」

 あたふたしてしまった。

 な、何て言えばいい!? 真白ましろさんを待ってたって言ってもいいのか!?

 いや、でも約束してないのに『待ってた』って言うのも変じゃないか!?

 そうだ! 偶然ってことにしよう! たまたまここにいたっていう感じにしよう! そうしよう!!

 そう言おうとした矢先、

「――よかったぁ」

 と、真白ましろさんはほっと胸をなで下ろしていたのだ。

 完全に予想外の反応だった。

 思わず「へ?」となってしまった。

 それは本当に、とても安堵した顔だった。

 まるで迷子の子供が親を見つけたような、そんな顔にも見えた。

 ……この時の僕はまだ、彼女が見せたその表情の意味を知らなかった。

 でも、その顔がものすごく印象的だったことは、よく覚えている。

「実は君のこと探してたの。でも会えてよかった」

「僕を探してた……?」

「うん。だって、昨日『またね』って言ったけど、よく考えたら具体的な約束してなかったもんね。いや、わたしもうっかりしてたなって……だからね、探してたの。また会えないかなって。会えたらいいなって」

「……」

 ……真白ましろさんが、僕を探してた……?

 彼女の浮かべるほっとしたような笑顔に嘘はなかった。

 少なくとも僕にはそう見えた。

「ぐう……!!」

 急に胸が苦しくなった。

「え!? どうしたの!?」

「む、胸が痛くて……」

「ええ!? また!? 病院行く!?」

「いや、大丈夫……大丈夫だから……」

 僕の心臓がヤバイ。


 μβψ


「でも、すごい偶然だよね。ここね、わたしがいつも座ってたところなんだ」

 真白ましろさんが横に座った。

 今日は一人分の隙間が僕らの間にはあった。

 肩が触れあうような距離でもないのに、やたらとドキドキしてしまった。

「へ、へえ、そうなんだ」

 僕は素知らぬ感じで頷いた。

 ……本当は知っている。

 そう、彼女はずっとここにいた。

 ここから、遠くを眺めるように何かを見ていた。

 僕はそれを知っている。

 でも、僕は知らないフリをした。

 ……いや、だってさ。実はずっと前から知ってましたとか言ったら気持ち悪くない?

 だから、僕は適当なことを言った。

「昨日、ここでたまたま会ったのがきっかけだったからさ。だから、何となくここに来れば会えるんじゃないかな、って思って」

「ああ、なるほど。そういうことだったの」

 真白さんは納得した様子を見せた。

 僕はちょっとほっとした。

「わたしね、よくここに座ってぼけっとこの風景を眺めてたの」

「へえ……そうなんだ」

 僕は素知らぬ顔をしたまま、かねてからの疑問を口にした。

「その、何でこんなところに? ここじゃ寒くない? 今日もけっこう寒いけど……」

「わたしは別に寒いのは平気だから」

 真白ましろさんはぼんやりと遠くに目をやった。

 その横顔に思わずどきりとしてしまった。

 遠くを見ている時の彼女は何と言うのか……とても儚いのだ。

 まるで、誰も彼女には決して近づけないような、そんな雰囲気があった。

「ここから何か見えるの?」

「うーん……面白いものは特にないかな。ただ歩いてる人をぼけっと眺めてるだけ」

「……それって楽しい?」

「全然。ちっとも楽しくないよ。死ぬほど退屈」

「だ、だよね……?」

 僕は首を傾げた。

 じゃあ、なぜそんなことを……?

「でもね、他にすることもなかったからさ。わたしにはただ、眺めてることしかできなかったの。わたしの声は誰にも届かないし、この手も誰にも届かない。わたしだけ時間が止まってるみたいな――って、何言ってるのかよく分かんないよね」

 真白ましろさんは苦笑いを浮かべた。

 その笑顔はやっぱり、とても儚く見えた。

 だからだろうか。

 気がつくと、僕は口を開いていた。

「ね、ねえ、真白ましろさん」

「ん? なに?」

「……これからさ、時間ある?」

「え?」

「その、よかったらちょっと遊ばない?」

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