第2話 腐敗の王
大体、怪物になりたがる者達の心境というものがよく分からない。
だが、異形に成り果てた怪物を殺し続けている令谷もまた、怪物なのだろう。
有名な哲学者ニーチェの言葉なのだが“深淵を覗く者は気を付けよ、深淵もまたこちらを覗いている”と。“怪物と戦う者は自身もまた怪物にならないように気を付けなければならない”。ニーチェは生前、キリスト教などを攻撃的で偏執的に批判し続けたが、当時のキリスト教が怪物だったのかはよく分からない。何よりニーチェは万能感に満ち溢れて、孤独で誰にも理解されない自分と外部との乖離に苦しんでいた。
令谷はむしろ、ニーチェの警句よりも、ニーチェが何故、こういった言葉を発したのかの方が気になる。
「はい。牙口です。はい、現場に向かいます」
彼はスマホの電話を切った。
そこは田舎の倉庫だった。
†
腐敗をもたらす力を持つ“異能者”が現れたのだと聞く。
令谷の概念の中では、人の姿をした狼の化け物だ。
その現場の調査、そして可能ならば始末、殲滅の要望が入った。
……腐敗の怪物か。
令谷は眉をしかめる。
この前の人喰いバスタブも腐敗臭を大量にまき散らしていた。
倉庫の入り口には、沢山の動物の死骸が転がっていた。
野生動物だろうか……?
令谷は死骸をまたいで、倉庫の中へと入る。
「また、腐ったものか……。それにしても、俺は腐った連中と縁が深いな」
腐乱死体…………。
起き上がる死体……、虫や大便、バクテリアによって発酵した臭いが腐敗している部屋。令谷が取り残された場所。悪夢の光景。
彼は過去の記憶を振り返る。
あくまで、過去のものでしかない。
…………、牙口令谷は死体と寝る。
彼の横には、蛆の湧いた死体が寝転がっている。
彼は汚物の臭いが充満する部屋の中で、一夜を明かす。
拭い去れない記憶だ。
過去の悪夢。
それが、現在までずっと続いている…………。
†
倉庫の奥へと狩猟銃を構えながら進んでいく……。
大量のガラクタが捨てられるように並んでいる。
この奥に例の怪物が潜んでいるのだと聞かされる。
令谷は周辺を見渡す。
釘、ボルト、ハンマー、ノコギリ、ドライバー……。
これらのものは簡単に武器へと変わる。
特にハンマーとスパナは素晴らしい。
充分な長さと充分な重量のものは、拷問用ではなく、手っ取り早い武器……敵の殺害へと変わる。令谷は辺りを見渡して、何を武器に出来るか瞬時に察知した。同時に、敵がどのようにそれらの道具を武器として使ってくるのかも。
「令谷さま、何か見つかりましたか?」
「いや、お前の方はどうなんだ?」
付添人は首を横に振る。
部屋の奥には、何者かの気配があった。
「こんにちは。君は有名な狩人だね。わたしを始末しに来たのかい?」
穏やかな声だった。
まるで、敵意らしいものが無い。
「ああ」
令谷は慎重に狩猟銃を構える。
「牙口令谷君だね。君の事は、令谷と名前で呼んでいいのかい? その方が親しみやすい」
奥から聞こえてくる声は、優しげだった。
令谷は答えなかった。
穏やかだが、声の底に酷く陰鬱な感情を抱えている男性の声だ。
年齢は分からない。
そして、令谷は気付く。
男性は声を変えて、令谷に話し掛けているのだと。
「今すぐ、テメェの脳天に銃弾を撃ち込みたいんだけどなあ」
工具箱などが置かれている棚を押しのけて、牙谷は声の主の下へと向かう。
棚には写真が飾ってあった。
それは拘束された人間が腐敗していく様子が撮影された写真だった。写真は棚や壁にピンで止められている。一人の人間が苦悶の表情を浮かべながら、徐々に身体が腐っていく様子が紙芝居のように並んでいる。
…………、変態の快楽犯だ、と、令谷は判断する。
床には、サディスティックなポルノ雑誌が乱雑に転がっていた。異常者に相応しい部屋だ。
令谷はポルノ雑誌を蹴り飛ばす。
「写真の人物は男ばかりだな。お前はゲイなのか?」
令谷は訊ねる。
「…………、さあ? そうかもしれない。それにしても、君も美味しそうだ。君の身体を生きながら解剖して、苦しめていく姿を見てみたい。指が落ち、内臓が溶けていく様子を撮影したい」
「そうか。変態が。じゃあ、死ねよ」
令谷は狩猟銃を構えながら、部屋に奥にいた人影に向けて発砲する。
人影がごとり、と崩れ落ちる。
見ると、それはミイラ化した死体だった。
令谷は舌打ちする。
声は別の処で、令谷に話し掛けている。
ごとごと、と、物音がした。
この地下室の部屋から抜け出していく音だ。
…………逃げられた。
「おい、逃がすなよっ!」
彼は自身の付添人に対して告げる。
「私には彼を捕える力はありませんっ!」
付添人は困ったように叫び返した。
二人は仕方無く、部屋を出る。
地下室の入り口には、張り紙が張られていた。
‐わたしの名は“腐敗の王”と呼んでくれ。また会える事を願っているよ。令谷。‐
真っ青なマジックペンで、そのような言葉が書き殴られていた。
牙口令谷は、奇妙な感覚に陥る。
腐敗の王。
どう言えばいいのか分からないが、初めて出会ったタイプの“異能者”だ。
快楽殺人犯なのだろうが。動きが分からない。
まるで、令谷に親しく話しかけてきた。
……理解が出来ない。
†
警視庁には『特殊犯罪捜査課』、というものが存在する。
米国のFBI捜査官をベースに作られた課だ。
公には公開されていない部署だ。
警察官の中にも知らない者達は多い。
所謂、誘拐犯やハイジャック犯などを担当する“特殊事件捜査係”とは別物だ。特殊事件捜査係から派生して生まれたものだ。
令谷は、特殊犯罪捜査課とのコネクションがあり、その課が雇う専用の“殺し屋(ヒットマン)”でもあった。もっとも、あくまで令谷の意識はフリーランサーのつもりで、特別、この部署に対しての愛着や贔屓があるわけでは無いのだが……。
部署の刑事である崎原玄(さきはら げん)は、自身の部下を何名も派遣して“腐敗の王”のアジトであった地下室を調べた。
「人間はどんなポルノでマスターベーションをするのか。特殊性癖は猟奇犯の傾向を調べる為の、重要な手掛かりだ。ポルノによる妄想は、やがて現実のものになっていく。牙口、こいつは、本当に分かりやすい性的倒錯者だよ。ゲイで、そして、執拗なサディストだ。それから、死体愛好者なんじゃあないのか?」
崎原は持論を話していく。
実際、腐敗の王の地下室からは、大量のゲイポルノの雑誌やDVDが見つかった。
腐敗の王の指紋などは、一切、検出されなかったのだが……。
“異常な性的倒錯者”。
様々なシリアルキラーや、異常な力を持つ者達を相手にして出した崎原の結論がそれだった。フロイトの強い信仰者であった彼は、性欲とサディズムの関係性に対して、異常な執着を持っていた。
「どうだろうな。俺は腐敗の王の拷問と、犠牲者への拷問写真、それからポルノ雑誌は“フェイク”ではないかって疑っているんだけどなあ」
牙谷は、淡々と崎原の言葉を否定する。
「その根拠はなんだい?」
「直観かな。…………、そうとしかいえない」
『特殊犯罪捜査課』は、牙口令谷が“人狼”あるいは“狼男”と呼んでいる者達を研究し、捜査する部署だった。
実質的に、この部署のメンバーは、刑事である崎原と、ファイルを整理している富岡。そして、標的を始末しに行く牙口令谷しか人がいない。
つまり、たった三人だけのチームだ。
警察組織は“異能者”という存在を認めたくないのだ…………。
令谷は嘆息する。
「少し前に俺が“始末”した“人狼”である“アシッドマン”の事は覚えているな?」
「ああ、覚えている。犠牲者が八人は出て、5歳の女のから、74歳までの老婆が、ある小太りの四十代の男によって生きたまま硫酸に溶かされ、その男は女を溶かした硫酸を飲んでいた。犠牲者の女達は、アシッドマンからの強姦の形跡があった」
「人間を溶かした硫酸を飲む奴の性的嗜好なんか分析して、一体、何の意味があるんだ? そういう連中のパターンを覚えて、その気質がある連中が犯罪を起こす前に焙り出そうってのか? 無意味だ」
「無意味? 警察の仕事はそういうものだ、証拠集め。犯人の犯行パターンを記録する事だよ」
「半年前に、俺が“拘束”した『ブラッド・サッカー』の方はそうかもな。奴は五人の若い女の血を飲んで、絞殺した。そいつは、今、医療刑務所に収監されているのか?」
「拘置所だ。裁判が終わってないからな。牙口、お前が始末する基準はなんだ?」
「何度も言っているだろう。俺は“超常的な力”を使う連中を“人狼”と呼び、始末する。ブラッド・サッカーは、連続殺人犯、異常快楽殺人犯である事以外は極めて普通の人間だった。普通の人体構造、人並みの行動基準。だから、俺はお前ら警察に奴を引き渡した。俺は普通の人間を処刑しない」
「五人の女の血を飲んで殺した男が“普通の人間”か……」
崎原は煙草に火を点ける。
「お前の思考回路は分からん」
「俺の行動はシンプルなつもりなんだけどな」
そう言うと、令谷は部屋を出ていく。
「何処に行く? 牙口令谷?」
「“狼男”を狩りにだよ。日本だけじゃない。外国にいれば、外国の奴も始末する」
そう言って、令谷は扉を閉めた。
†
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