第44話 漆黒の球体

 ジョーが絶望の縁にあったころ、AIT内では、マリアたちの再生がほぼ終わろうとしていた。


「うわっ!」


「ちょっと、これって!?」


 マリアたちは皆、全裸の状態で再生されていた。

 それを見るなり慌てたスエズリーは、AITで使用されている作業服を急いで用意した。


「みなさん、とりあえずこれを着てください! ジョーさんはおそらく、必要最小限のデータの取り込みしか行わなかったのです。これは、みなさんのためです!」


 スエズリーの言うとおり、ジョーは、サーバーに記憶させるデータ量をできるだけ少なくするために、衣服等のデータはあえて除外して、身体に関するデータのみを記録させていた。


「わ、わしのカツラがない! あっ? インプラントも、金の詰め物もない? どうしてくれるんだ! どれもこれもみなかなり高かったんだぞ!」


 提督は、髪の毛の中央部分が極端に薄くなっていて見慣れない老人と化していた。


 一人で騒ぐ提督の前に、全裸のマリアが、つかつかとやって来て、右の拳を提督の頬に打ち込んだ。躊躇のないマリアのパンチは、提督をなんなく床に転がしてしまった。


「静かにしなさい! こうして命があるというのに!」


 殴られたほおを押さえたまま、何が起きたのか分からないといった風で、提督は呆然としていた。マリアは、用意された作業服をさっと着ると、現状を把握すべく部屋中のモニターを見回し、スエズリーにいくつか質問をして確認した。


 マリアは、通信マイクに向かって言った。


「ジョー、ありがとう。みんな無事よ!」


「マリア!」


「あなたとこうしてもう一度話ができるなんて、一体どう感謝したらいいのか……でも、もうこれが最後ね。ジョー、あなただけでも早くこの島を離れて!」


「俺だけ? マリア、何を言っている?」


「いろいろと思案して確認もしたけど、私たちにはもうここから脱出する手だてはないわ。でも、ジョー、あなたならまだ間に合う。電源が完全に落ちる前にこの島を離れるのよ!」


「君たちを置いてなんて、そんなこと俺にはできない! それに俺は約束したんだ! AITを、TWを守るって!」


 カナが、マリアに交代を促した。


「ジョー、カナよ。聞いてちょうだい。あなたはすでに約束を果たしているわ。これまでに何度もTWの危機を救ってくれたもの。ALたちもきっと分かってくれる」


「そんな!?」


 再びマリアがマイクに出た。


「時間がないわ。ジョー、仕方がないのよ。これは、私たち人類が自ら選択したことだから。あなたには何の責任も……いいえ、あるのかもしれない。人間の存在を超えたあなたには、人類の最後を見届けるという大切な責務が」


 マリアの言葉には、あえてこの場でジョーを突き放そうとする意志が明確に感じられた。マリアは、明らかに何かを悟っていた。


「たとえ一時にせよ、私たちがこうしてあなたに助けられたことには意味があるの。いい? よく聞いてジョー、私たちはあなたを心から愛しています。もう一度言うわ。あなたを愛しています! 私たちのこの気持ちを持って行って! そして生き延びて! ジョー!」


 アルザム国艦隊のミサイルが、施設の上階に着弾し、通信が途絶えた。


「マリア! マリアアアア!」


 ジョーの声は、何十機という戦闘機が飛び交う鈍色の空に虚しく消えていった。


「こんなことって……こんなことってあるかよ……だれか、頼む、なんとか……なんとかしてくれぇ!」


 その全身全霊をもってジョーは叫んだ。どうやっても振り切れない絶望の影に対する、最後の抵抗のように。


 しかし、感情を発散させるだけの短絡的行為と思われたそれは、思わぬ結果へとジョーを導いた。


 それまで人型をしていたオクテットが、細長い棒状に形態変化した。


「う、うわあああ!」


 ジョーの意識とオクテットは、強制的に、上方へ移動させられた。始めは比較的ゆっくりとした上昇だったが、突然、ドンっとそのスピードが上がった。


「ああああああ!」


 矢のようになったジョーの行く先には、見たことのない巨大な漆黒の物体が浮かんでいた。


「な、何だあれは?」


 ジョーは、その異様な物体にどんどん引き寄せられていき、表面に突如形成された小さな穴の中に吸い込まれてしまった。


 気が付くと、ジョーの目の前に、全体が青く光る球体があった。辺りは真っ暗だった。


「これは、地球か?」


 ジョーの言う通り、それは地球だった。ジョーの意識は、地球から少し離れた宇宙空間を漂っているような状況にあった。


「いや、ここは宇宙空間じゃない。別次元の空間だ。あれ? どうして俺にそんなことが分かるんだろう?」


 ジョーは、その地球をなす球体に向けて両手をかざし、横に広げる動作をした。すると、その球体が拡大され、地表面の様子までもが、克明に映し出された。


 さらに、右手の人差し指をすっと素早く横になぞると、なぞった方向にその球体が回転した。


「やっぱり」


 それはまるで、縮尺自在な地球儀を操っているような感覚だった。


「そして、俺がいるのはたぶん、ここだ」


 ジョーが指さしたところには、黒い球体があった。ジョーがその黒球をつかもうとすると、地球の映像とは別に、その黒球のみの映像がジョーの視界の横に映し出された。そしてそのすぐ下に、大きさや重さなどの、その黒球に関するものと思われるデータが表示され、一番下の項目だけが空欄で、そこに引かれた下線が点滅していた。


「名前を付けろってことか?」


 知らないはずのことを知っているという不思議な感覚は、依然としてジョーをとらえていたが、どういわけか違和感がほとんどなく、事がどんどん前に進んでいった。


「どうする? いいや、悩んでいたってしょうがない。よし決めた! こいつの名前は〈ウチュウ・ジロウ〉だ!」


 ジョーがそう言うと、空欄に〈ウチュウ・ジロウ〉と入力され、プロフィールが消えた。


 すこしづつ、意識が色濃くなっていくのを感じた。


「そうだマリアは? 人間たちは今どうなってる?」


 今度はジョーのすぐ横に、様々な数値が表示された。それらは、現在の総人口、男女別、年齢別の人口を示すもので、それらの数値がどんどん少なくなっていた。


「考える時間が欲しい」


 そう想った瞬間、〈ハイパードライブ〉という言葉がおぼろげな意識の中に浮かんできた。


「ハイパードライブ? そうだ光速航行で相対時間を止めよう」


 〈ウチュウ・ジロウ〉が地球の周りを光速で移動し始めると、地球の自転が停止し、人口数値の減少が止まった。


「人間は皆それほど強くはない。だから誇大な妄想や恐怖に囚われやすい。本当の自分を見つめ直し、お互いを認め合えれば、争うことの空しさを実感できるんじゃないだろうか?」


 そう思ったとき、目映い光を放つ複数の立体型アイコンが、ジョーの周りにずらりとならんで配置された。


 ジョーは、右手をかざし、次々とそれぞれのアイコンの情報を集めていった。


「これにしよう」


 そうして手元に引き寄せたアイコンには、全く知らない文字が添えられていたが、『真実、取り巻く現実』という文言が頭の中に突然浮かんできた。それはコミュニケーションアプリだった。


 ジョーの選択したそのアイコンがすっと消えると、目の前に入力画面が表示された。

 対象プレイヤー:

 オーナーの参加:

 プレイ時間:

 ジョーはすかさず、以下のように入力した。

 対象プレイヤー:全人類

 オーナーの参加:有り

 プレイ時間:三十分


 入力を終えたジョーが言った。

 「よし、ハイパードライブ停止。『真実、取り巻く現実』プレイスタート!」


 この間、つまりジョーがこの物体に取り込まれた瞬間からゲームをスタートさせるまで、かなり不可思議な状態に陥っていた。それまで抱いていた不安や絶望といった感情だけでなく、こうした特殊な状況で必ず生じるはずの数々の疑問といったものの一切が排除され、まるである種の化学反応のような、当然ともいえるような一連の流れで事態が進んでしまった。


 ジョーがウチュウ・ジロウと名付けた黒い球体からは、薄いシート状のものが放出されて、それがみるみる広がり、地球全体を丸く覆った。そして、その風船のような膜が、こんどは一瞬にしてしぼんで、地球に吸収されてしまったように見えた。しかし、しばらくすると、外側に膨らむようにして、また元の膜に戻った。


 そして、コミュニケーションアプリが起動し、ジョーの意識が別の空間に転送された。


 その空間には、無限とも思える灰色の広大な地面と、真っ白な空とが広がっていた。不思議なことに、初めて目にする光景であるにもかかわらず、未知なるものに対する疑問や不安といったものが、ほとんど皆無であるように感じた。


 実はその空間には、地上に存在する全人類の意識が集められていて、時空を超越したネットワークが形成されていた。


 ジョーが辺りを見回すと、突然、リサ博士が目の前に現れた。


「リサ博士!」


 ジョーが呼びかけると、


「え? その声は……ジョー?」


 声の主が姿を現した。それは、リサ博士だった。しかし、その体のサイズが実際よりも少し大きく見えた。


「ジョー、どこにいるの?」


「えっ? 今、目の前にいますよ?」


 その空間ではなぜか、ジョーにはリサ博士の姿が見えるが、リサ博士にはジョーの姿が見えないようだった。


「ジョー、私にはあなたの姿が見えないわ。あなたには見えるの?」


「ええ、見えていますよ。リサ博士、どうしてここに?」


「よくわからないけど、突然ここにつれてこれらて、あなたに会いたいと思っていたら、あなたの声が聞こえたのよ」


「俺に会いたい?」


「ええ」


 リサ博士の表情は、いつになく穏やかで、うつむき加減で控えめの笑みを含んでいた。


 突然のリサ博士の出現に少しだけ戸惑いを感じたジョーだったが、そのときふとあることを思い出した。


「そういえば、リサ博士、僕に言ってましたよね? 僕が何かを誤解していると。あれはいったい何の話です?」


 ジョーがそう言ったとたん、博士の顔から笑みが消え、表情がすっと整えられた。


「あなたは言ったわね。研究のために、私がメリーにお金を無心していたと。違うわ。お金を要求したことなどは一度もない。あの女が勝手に送りつけてきていたのよ。私が研究資金に困っていることをどこからか嗅ぎ付けてきたのね。もちろん、最初は断ったわ。でもあの女は、あなたの身代金とでも言いたげに、これでもかってくらいしつこく送りつけてきて。でも、今更何を言っても言い訳ね。だって私はそれを返さなかったんですもの。いよいよというときには使うかもしれない。そういう考えがいつの間にか私の心に根付いてしまっていた。情けなくて、いっそあの女を殺してしまえればと、何度思ったかしれないわ」


 リサ博士の言葉は、ジョーの心ををいちいち的確に突き刺した。メリーがそういうことをする人間だということを、ジョーにはよく分かっていて、リサ博士の言葉に嘘はないという確信めいたものを拒むことができなかった。実際、このアプリの空間では、本当のことしか言葉にすることができなかった。


「私たちは、我々の世界よりも進んだ科学技術をもつTWの技術を売って研究資金を得ていたのよ。そう、特許をとってライセンス収入を得たりしてね。ぎりぎりだったけど、私とガンダーレ兄弟たちでなんとかやりくりしていたの。でも、オー・プロジェクトが立ち上がって、私たちの研究が日の目をみることになった。国から予算が出るようになると規模も大きくなって、私たちだけではもう維持できなくなって……もういいわね、こんな話」


 リサ博士は、不意に視線を落として、首をゆっくり横にふった。


 ジョーは何も答えることができなかった。


「私はもうあと半年くらいしか生きられない……」


「え!?」


「体中にガン細胞が転移していて手の施しようがないの。ブーストエネルギーを浴び過ぎたせいで」


「俺の……ため?」


「そうよ! あなたのために! あなたに会いたい! たったそれだけのために! おかしいでしょ? そんなことをするくらいなら、研究なんかすぐに止めて、現実のあなたの元に、あなたを抱き締めに行けばよかったのに! それだけでよかったのに! ああああ!」


 リサ博士は両手で顔を覆って泣き崩れた。


「ごめんなさい! ジョー、許して! 私を許してちょうだい! 怖いのよ、このまま死ぬのが本当に怖くて、自分が何をしたかったのかも、どうすべきだったのかも全く分からない! そう何もかも!」


 そんなリサ博士を見たジョーは、彼女の傍らに寄り添うようにゆっくりと腰を下ろした。


「リサ……いや、母さん、違うよ。母さんは何も悪くない。母さんは、カナたちと一緒に正しいことをしたんだ。今ならそれがよく分かる。母さんの助けがなかったら、僕はここまで辿り着けなかった。母さんが僕に未来をくれたんだ。ありがとう」


 そのジョーの言葉を聞いたとたん、リサ博士の嗚咽がとまった。何かに驚いたように大きく目を見開いてゆっくりと顔をあげると、そのままその姿が除々にフェードアウトしていった。


 こうしてジョーは、知人たちと本心の会話をかわしていった。ただ、ジョーには彼らの姿が見えても、ジョーの姿は誰にも見えなかった。どうやらそれは、ジョーが人間ではないことが反映されているようだった。不思議だったのは、ジョーの目の前に現れた知人たちの体のサイズが普段みているサイズと違って見えたことであった。この後で述べるマリアと、リサ博士は別として、みんなの体のサイズが普段よりも小さく見えた。


 おそらく、その空間にいるジョーの体のサイズが、ほかの人間よりも大きかったせいだろう。目線の位置から判断すると、ジョーの体は、二メートルくらいの大きさで、ちなみにリサ博士も、ジョーの体と同じくらいの大きさだった。


 その空間における体のサイズは、人間としての器の大きさ、すなわち、心の大きさを反映していた。なんの説明も根拠もなかったが、その空間にいる人間たちには、なぜかそうであることが感覚的に分かった。


 ジョーが、マリアの姿を思い浮かべ、耳の奥から彼女の声色を拾いあげようとした瞬間、何か異様な雰囲気がジョーの背後にギクリと迫った。


「なっ、なんだ?」


 ジョーが振り向くと、巨大な何かがそこに立っていた。


「あっ!?」


 それはマリアだった。大きく聳え立つ、しかも全裸の、まぎれもないマリアだった。リサ博士や他の人たちも服は着ていなかったが、マリアほどそのディテールははっきりとは現れていなかった。


(で、でかい……)


 マリアの大きさは、あくまでも推定だが、おそらく三百メートルくらいはあった。


「ジョー、どこなの?」


「マリア、君の足下にいるよ」


「え?」


 マリアが下をみたとき、ジョーは、やっとマリアの顔を見ることができた。ぱっとしたつややかな顔立ちと、見るものすべてをそっと包み込むような真黒の瞳が、ジョーの意識の流れを一瞬だけ止めた。


 全身のほんのりとした白いシルエット、臀部から胸部にかけてのなめらかで情欲的な曲線、揺れるたびに光がこぼれる撓わな髪の毛、そのすべてがジョーの視界を支配し、その存在を飲み込んでしまった。


「どこにいるの? 私には見えないわ」


 ジョーは何も答えず、ただじっとマリアを見上げていた。


「ジョー! 返事をしてちょうだい!」


「えっ? ああ、今ちょうど、君の股の下のあたりに」


 ダーン!


 ジョーはマリアに踏みつぶされてしまった。


 ジョーのコミュニケーションはここで終了した。そしてその後、ジョーによって予め設定された時間が来ると、全人類強制参加型のコミュニケーションアプリ「真実、取り巻く現実」は終了した。

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